夏の日

階段鯨

夏の日

 これは僕が子供の頃に体験した話で、それほど明瞭ではない部分がある。でもだからこそ、その恐怖は語るのに適していると思うんだ。

 

 僕はかけっこをしていた。お祭りの日だったんだ。周りには二、三人の友達がいて、みんな声を上げて笑っていた。何かのごっこ遊びだったはずなんだけど、どうして何になりきっていたのか、今となっては思い出せない。とにかく夏なのに涼しい日で、不思議と汗をかいていた記憶がない。自然公園の、木立の間の芝生からスタートして、じゃれ合いながらあぜ道を駆けていた。陽は葉っぱで遮られてさわさわと揺らめいて、澄んだ空気の中に蝉の声が通っていた。山の向こうの遠巻きに、こだまみたいにお囃子の音が聞こえて、僕たちはみんな楽しかった。みんなと同じに祭りに行くのではなくて、友達と一緒に遊んでいるっていうことが、僕たちをたまらなく高揚させていた。それでも縁日は気になって、屋台の間をすり抜けるように走ったりもしたんだ。混み合った人通りを置いて駆け抜けて行った、僕たちが祭りだった。だからだったんだろうか。気がついたら夕暮れで、僕は一人だった。

 やっぱり遠くでお囃子の音がしていた。あんなに楽しそうな音だったのに、薄暗くなって一人になったら、なんだか急に心細くなってね。僕もそっちに行かなくちゃ、って思ったんだよ。左手の雑木林のすぐ向こうに陽は隠れて、すぐ側の木々は真っ黒の影になってしまって、それでいて空はぼうっと濃いピンクのようなオレンジのような、その色とおんなじになった田んぼが鏡みたいですごく怖かった。ざわ、と風が鳴った。僕は早足で道を行った。走ってしまったら、何か決定的な部分で間違ってしまう、って、そう思ったんだ。相変わらず林は真っ暗で、自分の息が聞こえた。田んぼでぱしゃり、と音がした。そっちを見ても波紋があるばかりで、ただその波がゆっくりとこっちに向かってくるのが嫌な感じだった。胸の奥がせり出してくるみたいで、僕はとうとう走り出した。はあはあと呼吸がうわずってすごく気になった。どういう風に息をすればいいのか分からなくなる時があって、僕はまさにそんな感じだった。足音のリズムも、こんな音だったっけ、って気になって、もつれるような、わざと歩調を変えてみたりして、僕は必死に何かから逃げていた。僕が気にしているんだぞ、ということを忘れてしまったらその瞬間、悪いことが起きるように思えたんだ。我に帰るわけにはいかなかった。そういう時ってあるだろう? 油断したらきっと、上から首筋に冷たく白い手が降りてくる。そんな気持ちの時がさ。

 僕は走った。なんだかグニャグニャとした姿勢で。僕とすれ違う人がいたら、そっちの方が怖かったかもしれない。まあそれはそれとして、お囃子の音はだんだん大きくなってきていた。もう少しだったんだ。僕は雑木林の合間、左に曲がった。後ろでぱしゃん、と音がした。自分の身長と比べたらちょっと高すぎる狭い石段を駆け上がって、小さな鳥居をくぐり抜けて神社に着いた。えっ、て思ったね。誰もいなかったんだ。空はわずかに赤い紫色で、ぐるりと取り囲んだ木々はもうただの闇だった。奥の方に小さなおやしろがある。むき出しの地面の上に簡単な石畳があるだけで、それがそこまで遠く伸びているように見えた。どん、どん、と祭囃子の太鼓の音がした。それでも、誰もいなかったんだ。急に真っ暗になってしまったように感じて、僕はもう振り返るのも嫌だった。あの暗い道を一人で帰るなんて耐えられないと思ったよ。それでも帰らないわけにはいかないからね。僕は嫌な汗をかきながら振り返った。気がつかなければよかったのにね。振り返るその瞬間に、なんだかグニャグニャした影がぬうっと地面から立ち上るのが目の端で見えた。狐だ、と思った。なんでかな、ただの影なのに、狐だ、とそう思ったんだ。どう考えても大人の男の体格のグニャグニャなのにそう思ったんだ。僕はそいつから、真っ白な手のひらが伸びてくるのを想像した。おいで、って。もうなりふり構っていられなかった。僕は目をつぶりながら完全に振り返り、目を開くと全力で走って、そのまま石段を駆け下りた。だらだらと汗が流れた。やめときゃいいのに、一番下まで降りて振り返ったんだ。そうしたらさ、鳥居の柱、その脇のところに、真っ白なの面が半分だけこっちを覗いてた。もう振り返ったりしなかったよ。僕は何も聞かなかったし何も見なかった。ただ走って家まで帰ったんだ。

 とまあ、こういう話なんだけどね。今になって思うんだよ。ああ、やっぱあの後もう一回振り返っておけばよかったなってさ。だって今も気になるんだぜ。もしかしたらあいつ、付いてきてるんじゃないかって。押入れの隙間とか、電信柱の影とか。ふっと振り返った時にそこにいるような気が、今でもしてるんだ。

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夏の日 階段鯨 @jiedanjie

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