「あのね、ううん、なんでもない」
藤村 綾
「あのね、ううん、なんでもない」
「彼氏が出来たって訊いて本当にホッとした。本当に」
目尻を下げながら、まるで事故をしたけれど軽傷だったから、ホッとしたよ。な風な感じであたしの方を見つめ目を細めた。
彼の口にした台詞は彼の本音なのだろう。
ホッとしたと言われるなんて、暗澹たる思いに胸が詰まる。
やっと俺から離れてくれるという安堵感。疎ましい存在がうろうろとしなくなるという安堵感。
「彼氏は?どんな人なの?」
「仕事は?」
そのくせ相手にまつわる情報を聞きたがる彼。
嫉妬など出来ない立ち位置。嫉妬ではなくて嫌がらせか、興味本意の方だきっと。嫉妬などする人ではない。そういえば。そうだ。
彼は既婚者だ。
不倫のループから抜け出したくて無理やり好きな人をつくり無理やり好きになろうと努力をし、やっと彼の存在を彼に伝えれるところまできた。
勤めている会社のやりとりをしている人からの紹介で今の彼と出会った。
今彼を無理やりではなく好きになったのだ。
ここまでの道のりはとてつもなく長かった。
目の前にいる人以上の人を好きになるなんて絶対に皆無だと心底思っていたからだ。
今彼はあたしだけを好きでいてくれ、たくさん愛してくれるのがわかる。不器用な人だけれど同い年もあり大事にしてくれるのが身にしみてわかる。
抱きしめてくれる。頭を撫ぜてくれる。
人は愛されていることを感じると相手の心に感情に応えようといつの間にか磁石がひっつくようだんだんと好きになってゆくものらしい。
好きになるのは相手も同じような気持ちだからだ。
片思いとかちまたではよくゆうけれど、片思いをさせる行動をとるから相手は心揺さぶられるわけであって揺さぶる相手だって揺さぶる相手のことをまんざら嫌いでもないのだ。本当は。
目の前にいる彼からは以前のような熱い感情は全く読み取れない。
あたしもさほど彼を好きではないようにも思う。燃え尽き症候群。その言葉がしっくりと来る。
以前のような愛おしさや辛辣な感情は払拭されてしまっている。
全く変わらない会話。全く変わらない2人。
けれど、変わったのはもう互いに興味希薄になったという事実だ。
「いいひとだよ。機械設備の管理してる人。CAD使って書いてる」
あたしはテレビを見ているふりをして、口だけ動かし質問を返した。
「ふーん」
小さく放った言葉尻にまあ、どうでもいいけど。という声が聞こえた気がしたけれど、あたしは立ち上がり冷蔵庫に入っている無料のミネラルウォーターを二本取り出した。
彼とはもうこれで最後だ。
このホテルにくるのも最後だし、はっきりわかった。あたしたちは既に終わっている。
「彼女が出来たの?なんてね」
既婚者。けれど意地悪のつもりで彼に訊ねる。
ベッドに腰掛け丸くうずくまりながら。いつもの所作で。丸くなるのは癖だ。
彼は何も言わず眉間に皺をよせながら、タバコを手に取り火をつけた。白い煙と一緒に吐き出された言葉にあたしは目を丸くした。
「彼女とかはもういいし、めんどくさい。キャバクラや風俗でその場かぎり遊んだほうがいいよ」
あたしの方に目を向けす天井に煙を吐き出す。
めんどくさい。
あたしのこともめんどくさくなったし、飽きたんだ。あたしのいる前ではっきりと言うね。悪気はないと思うと余計寂寥感に苛まれる。
奥さんがいる人。1番にはなれないけれど2番目という立ち位置にあたしは安心しきっていた。まさか、こんな屈辱ありえないと発狂しそうになった。あれほど好きだった胸を突き刺すような苦々しい感情はスーッと引いていき、代わりに憎悪が押し寄せてくる。顔はヘラヘラと笑ってるけれど、
だよね、めんどくさいよね。結婚してるしね。
彼にとって都合のよい台詞を並べてやった。
無言がややあり彼はスクッと立ち上がりシャワーをしに行った。
部屋をくるりと見回す。真っ赤な物に統一された無機質な部屋。何もかもが嘘くさい。
あたしはこのままいつものように抱かれる。
あたりまえのように抱かれる。
好きでもないのに、彼もあたしもご飯を食べる感覚でセックスをする。
最後だとわかっていても不思議と熱い感情などは込み上げてこずいつものようにいつもの所作で彼に抱かれた。
優しくないセックス。彼はあたしの心ではなくあたしの身体を瑣末に抱く。肩で息をしながらあたしを後ろ向きにし、思い切り突き上げる。とんでもなくひどい嬌声が無機質な部屋に響き渡る。乱れた髪の毛を後ろから彼が引っ張りあたしは歯を食いしばり咽び泣きをする。グッと力が入る。絶妙な力加減。
あたしのいいところ、してほしいことを熟知している男。クルンと下にされ、あたしの脚を持ち箸を割るみたいに濡れそぼった穴に先端をズボリと差し込む。
思考とは別にいやらしい言葉が口からこぼれ落ちる。違う、もう、あなたなんて好きなんかじゃない。でもなぜこんなにも感じてしまう。あたし馬鹿じゃないの。こんなときに彼の唇を探してしまう。
舌を絡ませ、貪るように舐めまわす。
身体の相性だった。不倫は結局は身体の相性なのだ。
彼に抱かれあたしは生きているあたしは必要とされていると勝手に思い込んでいた。彼にしてみたらあたしはおもちゃに過ぎなかったかも知れない。同じおもちゃで遊んでいたら飽きるに決まっている。
性を放った彼はすぐさま冷静になり、ソファーに腰を下ろしタバコに火をつける。まだ息が乱れている。彼は余韻を楽しむタイプではない。それももうどうでもいい。腕枕をしてほしいなどちっとも思わない。もう、終わり。本当に。
裸のまま、ぼんやりと薄暗い部屋の天井を見上げる。裸ってなんでこんなにも無防備なのに、なんでこんなにもなんでも出来そうに自信が漲るのだろう。
あわいからは彼の精子とあたしの愛液がしたたり落ち、乱れた真っ白のシーツに染みわたるのがわかる。
何色になっているんだろう。白いシーツだからきっと色ついているはずだよね。頭の中がとてもクリアでくだらない思考が横切る。
空気に晒されたあたしの白い肢体。
乳首が、茂みが、爪先が、敏感に部屋の空気を察知する。首だけ横に向けると彼がソファーに項垂れ横たわりスマホを弄っていた。
この姿をもう見ることはないだろうな。
あたしも枕元にあるスマホに手を伸ばす。ショートメールが届いている。今彼からだった。
【あと、迎えにいくから】
短文。彼と付き合い始めて3ヶ月。まだセックスはしていない。
あたしはソファーで項垂れている人の電話番号を拒否し、全てを削除する。
「ねえ、しゅうちゃん」
彼が指を動かしながら、ん?とだけ小さく呼応する。
『あのね、ううん、なんでもない』
「あのね、ううん、なんでもない」 藤村 綾 @aya1228
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