太閤道―平井山城址
片山順一
盛り土の山
兵庫県三木市の郊外に、平井山城の跡を訪ねました。
歴史好きの方には、かの羽柴秀吉が『三木の干殺し』を行う際拠点にした城であり、名軍師、竹中半兵衛の没した地であると言えば分かりやすいでしょう。近くには、その半兵衛のお墓とされる場所もあります。
分かりやすく説明させていただくなら。豊臣秀吉が、かつて織田信長の家来をやっていたころの戦のひとつに、今の三木市が戦場になったものがありまして。秀吉はその戦いで、三木城を包囲して補給を断ち、兵糧攻めにして降伏させたことがあるのです。平井山城は、そのとき秀吉が包囲の指揮を取ったと思われる場所ですね。
県道から1キロと行かない山の中に、駐車用の空き地があり、そこから歩いて登れます。
戦国武将をとりあげた近年の大河ドラマに伴い、看板や階段などが設けられたと思われますが、訪れる人は少なく、閑散としていました。道中にあった、無数のコンバインの捨て場の様な場所の方が、むしろ印象的なくらいです。
山事体も大した大きさではなく、20分もあれば山頂まで登ることができるでしょう。足元もむき出しの地面ではありますが、そう悪くはありません。今年は気温が高いせいか、やぶ蚊がめちゃくちゃ多いのには閉口しました。
さて遺構ですが、城といって思い浮かべる建物や、石垣、堀の跡なんかが、一切ありません。あるのは、土を盛ったでこぼこの形跡だけです。それとて、案内板や入口のポストに用意して頂いている地図が無ければ、見逃す程度でしょうか。
しかし、地図に沿って丁寧に見ていくと、自然の山とは違っているのです。
地図にもマークしてあるのですが、
ただの山では決してあり得ないような、でこぼことした地形。斜面の角度はゆるめられ、足軽や侍が身構えられるようになっています。
大体、山の形からしておかしいんです。尾根の南側、整備がされていないとみられる方は切り立った崖になっているのに。その反対側が、そのまま歩いて上り下りできそうなほど親切なスロープになっていたり。整備がされたのは400年以上前なのでしょうが、変えられた地形の跡は、山全体に残っている感じです。
秀吉が居たであろう本陣跡については、尾根道の途中で広くなった場所です。主郭と呼ばれた、最も大きい郭で、木が切り払われ、南東に包囲した三木城が見渡せるようになっています。現在も、小さな展望台が築かれ、三木市内の城跡を望むことができます。
主郭を過ぎても、尾根の途中には何か所か平坦な広場の様になった郭の跡があります。ここには矢倉も築かれたようです。道中、小さな平坦地も無数に設えられていました。一時的とはいえ、戦の本陣となったのもうなずけます。
そこから少し下がった山の中腹で、下の集落から上がってくる別の山道に通じています。大手口と呼ばれる、登城道なのですが、脇は平たんな土地にしてあり、見張りが立ったと思われます。
この道を外すと、急斜面になっており、秀吉のいる本陣へたどり着くことはかなり困難でしょう。軽装で駆け上がるのも難しいでしょうし、まして山の上部には平坦地が築かれ、そこには足軽や侍がぞろぞろ控えています。
血なまぐさい話題を出すのは、この場所が合戦に使われたからです。
平井山合戦。
包囲された三木城のお殿様、別所氏が、突破を図ってこの山に攻撃を仕掛けたことがあったのです。2000ほどの兵力で攻撃をかけたのですが、抜くことができず、逆に指揮を取った自分の弟が戦死してしまったということでした。
2000人というのは、結構な人手です。
都会の方に分かりやすく言えば、朝夕ラッシュ時のパンパンの通勤電車、これが8両分くらいの人数です。しかもスーツのリーマンじゃなくて、鎧兜に槍や弓の侍と、胴丸に長巻や短刀の目を血走らせた足軽です。籠城していた、7500人からそれだけ割いたのですから、大胆な作戦です。
が、秀吉の本陣を落とすためには、山道を一列か二列になって攻め上っていくほかありません。2000人いても、ちょっとずつしか戦えないのです。そして道々は山上の平坦地や郭から丸見えです。投石に弓、鉄砲など射撃武器は上から射撃したい放題でしょう。しかも兵の居る平坦地は道を囲むように配置されているので、どこまで登ろうと秀吉側の兵の攻撃は止みません。
山中に土を盛り、矢倉を立て、幔幕を張って兵士が居るだけの拠点だったのかも知れませんが、来た敵とどうやって戦うか考え抜かれていたのでしょう。実際、僕が登った階段の側も、当時は切り立った崖だと思われます。
合戦時に秀吉が陣中に居たのかは分かりませんが。彼は太閤道と呼ばれた尾根の上を駆け、兵を𠮟咤し、指示を飛ばしたり、もしかしたら自分で弓を引いたかも知れない。大手口から上の城の部分では、走れるくらい、道がきちんと作ってありました。
この合戦の後数か月、包囲が続く中、とうとう別所氏は降伏。家臣や領民の命を助けることと引き換えに、自刃して果てました。奥さんや子供さんもこのとき亡くなっています。
その決断に秀吉は感銘を受けた様で、三木に対して後に年貢の免除なんかをしています。
余談ながら、戦いの後、武器の製造を禁じられた鍛冶職人が復興のための大工道具を作ったのが全国的に有名な三木の金物の始まりだそうです。400年以上を経ても、当地の職人の方々の腕は確かです。僕も包丁を研ぎに出したのですが、恐ろしいほどの切れ味になって返ってきました。
近くにバス停もありますが、アクセスは自家用車が最も便利でしょう。三木市には、ほかに金物の資料館や販売所もあります。別所方の三木城跡などもチェックしてみると面白いかも知れません。
太閤道―平井山城址 片山順一 @moni111
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