農協おくりびと (116)エピローグ・その3 圭子と松島の場合

「うわ~、死ぬかと思うほど、寒かったぁ~」

さらに10分が過ぎたころ。頬を真っ赤にした尼僧の圭子が、スナックへ駈け込んできた。

圭子のうしろから、2人分のお守りを手に持った松島が入って来る。

手にしているのは平安時代の女流歌人、和泉式部をイメージしたピンク色の

縁結びのお守りだ。


 (妙ちゃん。一番の問題児カップルが帰って来たぜ)


 (祐三はん。それをいうならあの2人は、さしずめ迷える子羊のカップルどす)


 (なるほどな、あの2人はいま、この世で一番難しい恋愛を実践中だ。

 で、どうなるんだいったい。あの2人にバラ色の未来はやってくるのか?)


 (尼僧の修業のひとつに、梵行(ぼんぎょう)というのが有るんどす。

 梵行というのは、淫欲を断つ修行のことどす)


 (淫欲を断つ修行をする・・・男女の営みはおろか、欲望まで抹殺する修業があるのか、!)


 (しぃっ・・・・声がおっきいどすなぁ、祐三はん。

 尼僧は日頃から、いろいろな修業に励みます。

 たとえば、殺生をせん。盗みをせん。淫らな行いをせん。

 人を殴れへん、悪いことをせんなどを修身と言います。嘘を言いまへん。

 二枚舌を使わない。悪口を言いまへん。おべっかを使わない。でたらめを言いまへん。

 人を冷やかさない。人を傷つけへんなど、これらを修口と言います。

 こないな風にして自分の心を、お釈迦様と同じレベルまで高めていくんどす。

 これらの努力がのちに慈悲心や平等心、般若心を生み出してくれます)


 (なるほど、たしかに清く正しく生きるための修行だ。それが尼僧の生き方だろう。

 じゃあ、あの2人に、未来なんか絶対来ないことになる。

 ロミオとジュリエット以上の悲劇的な結末が、あの2人を待っていることになる)


 (それがそうでも、ないんどすなぁ。

 現役の僧侶で、芥川賞をもらった作家が描いた作品に『梵行』というのがあんのどす。

 三十路(みそじ)の尼僧、恵戒が主人公。

 彼女は生まれて初めての性関係を家庭のある中年の信徒、裕市と結ぶ。

 理由は記されておりません。

 すこし読み進むと、恵戒は文具会社の社長令嬢で、何不自由ない暮らしから

 遠ざかるようにして髪を下ろしたと分かります。

 当然、「なんで?」という疑問が深まります)


 (ホントだ。なんで尼僧の恵戒は、信徒の男となんか関係を持ったんだ!)



 (梵行(ぼんぎょう)は性欲を断つための修行のことどす。

 恵戒もまた、梵行の人やった。

 どすが、密教の教典との出会いが彼女を変えてしまいます。

 そこには人間はもともと汚れなき存在であり、男女の営みもまた、

 菩薩(ぼさつ)の境地に通じると説かれています。

 梵行とは、汚れなき生命の奔流に違いない、と恵戒は悟ったんどすなぁ)


 (恵戒を変えた密教の教典というのは、いったい何なんだ?。

 俺には難しすぎてさっぱりわからねぇ・・・)

 

 (空海が説いた、『理趣(りしゅ)経』のことどす。

 この中に恩と愛のくだりがあります。

 人間の一生という河は、恩愛によって深くて広い。

 恩は、父母などの恩であり、愛は、妻子などの愛と説いてます。

 父や母になるものが、それぞれの両親(の交わり)の中からつぎつぎに生まれ、

 そうして、つぎつぎに死んでゆく。

 そのありさまは、河の水の絶えることのない流れのようである。と説いてます)


 (なるほどな。美空ひばりの川の流れのようにとは、だいぶ違うようだ・・・)


 (もう。茶化さいでくださいな。

 男女の愛の営みについても、空海は触れてます。

 たとえば、性交の妙なる一体感は、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。

 愛欲のはやる思いも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。

 愛撫し合うのも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。

 その身のすべてを任(まか)せることも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。 

 愛(いと)おしく相手を見ることも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。 

 ・・・まだこの先が聞きたいどすか、祐三はん。

 いい加減で止めてくださいな。

 説明しとるウチの方が、なんやら気恥ずかしくなってきました・・・)


 (そうか。可能性がまったくゼロじゃないことが、よく分かった・・・

 だが尼僧の道というものは、♪~君の行く道は、果てしなく遠い~なのだな。

 大人の目で、辛抱強く見守ってやるしかないか。

 圭子ちゃんと松島の、これから先の、やるせない川の流れは・・・)


 (そうどすなぁ、ウチもそないに思います)


 

(117)へつづく

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