第4章 ⅩⅡ
――ロンドンでも三指に入る高級住宅街メイフェアの一角に、ライアーク家の屋敷がある。本来、上流階級の人間は六、七月の社交界シーズンが過ぎれば済みやすい田舎の屋敷へと住居を変えるのだが、ライアーク家はヘレンを中心とした問題から、まだ引っ越しをしていない。
ヘレンを憎む義母、シャルロット・ストーナーは、夫であるライアークの行動を全て己が手駒にした部下を利用して知り尽くしていた。今日の昼過ぎに訪れる弁護士の名はグランバーゼ・セレサ。五十代後半の、棺桶に首から下を突っ込んだような男だ。酒と博打で好きで、金と女に目がないような〝ろくでなし〟。彼女は使用人を利用して、わざと男を外出させた。後は、簡単だった。
セレサ弁護士に阿片入りの紅茶を飲ませ、意識が朦朧としたところでベッドへと誘う。どんなに御堅い男も、肌を見せて甘い声で誘えば簡単に籠絡してみせる。それだけの確固たる自信がシャルロットにはあった。だからこそ、女中に頼らずに自ら進んで椅子へと座る弁護士のためにと、紅茶を注ぐ。しかし、老年の男は芳しい湯気を昇らせるカップへと一向に手を伸ばさなかった。ただ、琥珀色の水面へと視線を注いでいる。
「遠慮せずにどうぞ。ダージリンの、良いお茶ですよ」
シャルロットが内心で苛立ちを積もらせつつも、表面は極上の笑みを湛えて紅茶を勧める。しかし、セレサ弁護士は枯木を撫でつける風のように細く寂しい嘆息を零す。
「このお茶は、どうにも良くないお茶ですな。残念ながら、私の口には合わんでしょう」
二階にある特別な――夫人専用の応接間。椅子に座り、丸いテーブルを挟んで対面するシャルロットとセレサ弁護士。壁に控えるのは男性の使用人が二人。窓から差し込む光は弱々しく、スモッグがだんだんと濃さを増していた。頑なに、老人は御茶を飲もうとしない。女は、内心で男をどう調教しようか考え、理性を保つ。
「そう仰らずに。一口飲めばすぐに」
「……阿片入りの茶なんて飲みたくねーって言ってんだよ、糞婆」
シャルロットが呼吸を忘れ、身体を硬直させてしまう。セレサ老人は、音もなく立ち上がり、ピンと背筋を伸ばした。まるで、数十年も若返ったように。使用人の間にも動揺が走る。
「阿片を使って男も女も構わずに籠絡ねぇ。こうも情報通りだと、なんとも複雑な気分だな。さて、シャルロット・ストーナー。己が私欲のために幼き娘を傷付けた罪を、今、ここで償って貰おうか。安心しろ。俺はどちらかと言えば、優しい性格だ」
「だ、誰よあなたは。老いぼれじゃないわね。どういうこと。何者なのよ、あなたは!」
「悪いな。手前に名乗る名前はない。だが、代わりに〝俺達〟の名前を教えよう。知っているか? 俺達の名は本来、存在しない。だからこそ、此処にいる。そう、俺達は――」
男が右腕の袖で顔を拭うと、皺が薄くなった。その分だけ、また男が若返る。
「ロンドンの悪を懲らしめる大怪盗〝バイオレット・ムーン〟さ」
大見得を切って、ローグ・キャバリー、ここに推参する。
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