第4章 ⅩⅠ


 心臓が壊れそうだった。肺が壊れそうだった。頭がどうにかなりそうだった。体中の血液が熱湯に変化してしまったかのよう。なのに、顔面だけはひどく冷たい。視界が霞み、呼吸は乱れ、意識が吹き飛びそうだった。もう駄目だ。次の瞬間に倒れる。そう思う度に、アリス・ヨンデンシャーは必死に、愛しい少女の名を叫ぶ。喉を裂かんばかりに。


「ヘレンお嬢様ぁああああああ!!」


 その叫びが届いたのか或いは、単なる偶然か。馬車が急に止まる。アリスは見た。前方に、一際大きな遮蔽物が建っているのを。それは、汽車を遠くへと届けるために生まれた高架の柱。ロンドンの発展が、悪党の動きを阻害するとは、なんという皮肉か。


(よし、ラッキー。このまま突っ走って、御嬢様を返してもらう)


 だが、その甘さが命取りだった。幌から上半身だけを出した男の右手に握られていたのは、回転式拳銃。アリスの顔が蒼白に変わり、心臓が危うく停止しかける。このまま近付けば、間違いなく撃たれる。だったらどうする? 大人しく尻尾を巻いて逃げ出すのか?


「私を、舐めんじゃねえぞおおおおおおおおおおおお!!」


 構わずにペダルを漕ぐアリス。今更、拳銃など怖くない。いや、本当は怖い。猛烈に怖い。滅茶苦茶怖い。今すぐにでも逃げ出したい。それでも、女には退けない時がある。

 馬車との距離、九十フィート。銃声が一発。足元で地面が爆ぜる。八十フィート。七十フィート。銃声が一発。右肩を掠める。六十フィート。五十フィート。四十フィート。銃声が一発。右腕を浅く裂く。激痛が紫電となって肘の周囲に噛みついた。一瞬、意識が飛びかけて三十フィート。歯を食い縛って耐え、ハンドルを強く握り直し、世界が回る。

 アリスはハンドルを握り直す際、とうとうブレーキのグリップまで握ってしまったのだ。そして、不幸が一つ。この三輪自転車は、前輪にブレーキが着いている。結果、大きく車体が前方に傾き、まるでギリシャの戦争で使われたカタパルトの如く、娘が発射される。


「ひ、っひゃああああああああああああああああああああああああああ」


 馬と同等の加速から投げ出されたアリスは空中で綺麗な放物線を描き、天地の感覚も全てが消え去る。ただただ叫び、腕を滅茶苦茶に振り回す。最後に見たのは、馬車の幌、その天井で。衝撃。自分以外の悲鳴、絶叫が周囲で爆発したように鳴り響く。

 臀部に猛烈な痛みが駆け廻る。たまらず悶絶し、火花が散る視界で何とか回りを見た。


「アリス! アリス! こっちよ、さあ、早く!」


 優しい声に右手を握られた。アリスは考えるよりも先に無我夢中で足を動かし、豚肉のように柔らかくも弾力がある何かを踏みつけながら、泥沼の中を泳ぐように声がする方向へ進む。すると、暗かった視界に光が差した。そして、ようやく理解する。目の前に、先程まで拳銃を持っていた男が顔を出していた幌の出入り口があったのだ。その傍で、こちらの手を握る彼女の姿をようやく捉える。目頭に、熱い熱が込み上げる。


「ヘレンお嬢様! 良かった、お怪我はないんですね?」


「私は平気です。さあ、早くこっちへ」


 アリスに手を握られ、なんとか出入り口へと手をかける。しかし、その時だ。左足を誰かに掴まれた。振り返り、戦慄する。鼻を吹き出しながらも憤怒の形相で顔を歪める男と目が合ったのだ。何とか振りほどこうとするも、これまでの疲労が溜まりに溜まった足では最早、ろくに動かせない。男の右手にキラリと光るのは、一振りのナイフ。


「この糞女が、ただじゃおかねえぉぞおおおおおおおおおお!!」


 ナイフが振り下ろされそうになる瞬間、アリスは目を閉じてしまう。自分の足に襲い掛かる激痛に、声を上げ――ッ!


「へっ?」


 聞こえたのは、男の呻き声だった。訳も分からず目蓋を開け、さらに困惑する。アリスの腕を掴んでいた男が口から泡を出して白目を剥いていたのだ。すると、頭上から声が落ちてくる。


「全く、貴女は本当に危なっかしい女ですね。と、私は肩を竦めて微苦笑しましょう」


 首を天井に向ければ、そこから顔を出すヒューロと目が合った。彼女の右手には、数日前に見たボルトアクション式の拳銃が握られている。銃口から、か細い硝煙が零れていた。


「ひゅ、ヒューロちゃん、こ、これ、もしかして、死んだ!?」


「平気です。ちょっと強烈な麻酔を撃っただけですから。と、私は説明します」


「あ、そうなの? じゃあ、口からサワークリームみたいに泡吹いて全身が痙攣しているのも

問題ないんだね! ヒューロちゃん素敵、これがジャパニーズ・神秘だね!」


 泣きたくなる衝動を堪え、アリスは再びヘレンに手を引かれて外へと出た。


「ああ、アリス、ヒューロ。本当に助けに来てくれたのね。貴女達ほど勇敢な女を私は知らないわ。ありがとう。本当にありがとう」


 腰の辺りに抱きつくヘレンの頭をアリスは目尻に大粒の涙を浮かべて撫でる。娘の愛おしさに胸が甘く締めつけられる。大切な存在を失わずに済んだ。それだけで、全ての苦労が報われる。


「無事で良かったと、私は満足です。ところで、アリス。その右腕、ナイフで浅く切ったように血が出ていますが、平気ですか? と、私は不安げに語りかけましょう。とりあえず、止血しておきますね。ちょうど、袂に包帯を入れておいたのです、えっへん」


「アリス、怪我してるの!? あ、急に、視界が、暗く」


「だだだ、大丈夫ですよ、御嬢様! こんなもの、阿片チンキでも飲めば平気です」


アリスが言ったのは、阿片をアルコールと水で溶かし、サフランやシナモンを添加した製剤のことだ。当然、阿片などというドラッグに人を癒す力は無い。せいぜい、想い込ませるだけ、脳と体を誤魔化しているに過ぎない。もっとも、物騒な拳銃を構え『こっちの方が利くかも』と呟くヒューロとどちらがより危険かは、定かではない。


「駄目、ヒューロちゃん、駄目。その銃を私に向けないで。それ撃ったら今日の晩ご飯、ハギス入りグラタン(羊の臓物で作ったグラタン。丁寧な下処理しないと腐ったウンコの味がする)にするからね。あれ食べられないの、この家で君だけだからね」


「止めてください! 止めてください! と私は絶叫します。あんなもの、地獄の汚泥と一緒です! と私は拒絶の意志を露わにしましょう!」


 ヒューロが全身全霊を込めて叫んだ時だ。前方から、野太い声が聞こえたのは。


「ひゅるるるるるうる。おいおいおーい! 随分と派手にやってくれたじゃねえかメスガキ共! ここまでされて、俺が黙っているわけにはいかねえなぁあああああ」


 全員の視線が注がれた先には、一人の男が立っていた。その大きさに、ヘレンが小さな悲鳴を上げてアリスの後ろに隠れる。ローグよりも頭二つ分大きく、まるで二足歩行の雄牛をイメージさせる程の巨漢なのだ。鼻息も荒く、髪は手入れの行き届いていない雑草のごとく。馬革のジャケッドを纏い、その右手には一丁の拳銃が握られていた。いや、それはもはや、拳銃などと言ってはいけない。回転式弾倉を持ち、小銃のように銃身が長く、銃底が備え付けられている。S&Wモデル三二〇のリボルビング・ライフルだ。大口径の弾丸は、人間の頭部を地面に叩きつけた林檎のように砕く。


「おまえが、人買い組織黒い犬の頭目なのか? と、私は忌ま忌ましそうに質問しましょう」


「その通りよ! 随分と部下を可愛がってくれたじゃねえか。この落とし前、手前らの身体で払わせてやるよ。死にたくなければ大人しくしな。すぐに薬漬けにして好事家に売ってやる。幼い娘に、東洋の娘は高く売れるぜ。そっちの茶髪は召使にしてやるよ」


 自分だけ下に見られたアリスは複雑な気分だった。ヒューロは傘を構え、臨戦体勢をとっている。


「誰が払うもんですか。あんたなんか、すぐにデムズ河に叩き落としてやるんだから」


 アリスがヘレンを庇いつつ男に言い切る。大男はリボルビング・ライフルを構えつつ、ゲラゲラと高笑いをする。だからこそ、すぐ傍まで〝絶望〟が近付いていることに、気が付かなかったのだ。ヒューロが銃器を構えると、とうとう男が噎せ返る。


「がははははははは。なんだそのちいせえ鉄砲は。こんな距離で当たるかよ。俺様の銃は百ヤード離れていようが当たるぜ。変な真似しないでさっさと」


 男の言葉が不自然に止まる。男の肩を誰かが精一杯背筋を伸ばして叩いたからだ。怪訝そうに男は振り返り、目を大きく見開く。


「御主人様は言いました。仲間を傷付けようとする敵に、遠慮なんていらないと」


 鈴が鳴るような声で彼女が言った。ぱっちりと愛らしく開いた瞳は希代の職人に磨き上げられたような、輝きを秘めたサファイアのごとく素敵だった。鼻はすらりと高く、薄紅の唇はきゅっとした弓形の艶やかさ。身長はそれほど高くないものの、胸元は上等なメロンのように膨らんでいる。今日の服は熟したプラムのような深い紫色のドレス。薄暗いセブンダイアルズではまるで、死神姫の礼装か。セシル・アバタールがにっこり笑っている。


「手前、いつの間に。気配をまるで感じなかったぞ!」


「この程度は簡単です。さあ、見てください。私の右手は、どんな形ですか?」


 男の視線がセシルの右手に注がれる。小さな拳が弓に番えられた矢のように引き絞られる。


「遅れて登場したお詫びです。――これが、私の〝全力〟です!!」


 これまで散々女を馬鹿にしていた男が恐怖に顔を歪め、リボルビング・ライフルをセシルに向けようとする。しかし、到底間に合うものではない。身を低く屈めた少女の拳が大砲のように発射される。ボクサー渾身の右ストレートを彷彿されるキレが迅雷と評するに相応しい速度で男の腹部へと突き刺さった。瞬間、その巨大な図体が地面から浮く。まるで、馬車に跳ねられたように。そのまま放物線を描き、アリス達の頭上を突破。三人が大口を開けて首を曲げる。後方で、固く鈍い、嫌な音がした。

 アリスは振り返り、咄嗟にヘレンの視線を両手で覆う。鉄と木材で構成されているはずのリボルビング・ライフルが真っ二つに折れていた。まるで、岩石を割る大きな金槌を振るったように。男の腹部が、目視できるレベルで凹んでいた。口から血が混じった泡を吹き出し、下半身から糞尿が漏れ出している。右足と左足が曲がってはいけない方向に折れていた。少女は、地下の賭博場で見た鼠殺しの光景を思い出す。


「あっちゃ~。ちょっと力入れ過ぎましたかね?」


「ちょっとじゃないでしょ! あれ、死んでるよね? 確実に死んでるよね? どうするの? ベートスンの鐘楼用意しないと!」


「落ち着いて下さいと私は訴えます。大丈夫、脈はあります。ちょっと肋骨が五、六本折れているだけです。と私は半分どころか八割は死んでいる男の診断を渋々行います」


「全然大丈夫じゃねえよ! どうするの? 病院まで運ぶの? 自転車使う? ってぎゃあああああ! 何これ、自転車の残骸? 剥いた海老の殻みたいにグシャグシャじゃん! アンネに殺される! あいつ、意外と神経質だし! これいくら? 私の給料で弁償できるの?」


「お腹空きましたね! 皆でキドニーパイでも買って帰りましょうか」


「セシルちゃん! 今、臓物入れた小麦粉料理(キドニー・パイ)の話しないでくれる!」


 そんな年上三人へ、目を閉ざされたままのヘレンが大きな声で訴える。


「落ち着いて下さい皆さん!」


 その鋭い声に、三人がぴたりと会話を中段する。ヘレンはアリスの腕を解き、気絶した男を見て顔を青褪めさせるも、表情をキリリと引き締める。


「あちらの馬車を使って病院まで運びましょう。私、乗馬は父に習ったので馬の扱いには、多少自身があります。セシルさんは、そちらの男を馬車まで運んでください。アリスさんとヒューロさんは他の方の安否確認を。急いで!」


 その声に、三人はすぐさま行動に移す。ただ、アリスはついつい、言ってしまうのだ。


「……ヘレン御嬢様、随分と逞しくなりましたね」


 すると、額の汗を拭ったヘレンが胸の前で両手を組み、頼もしい笑みを浮かべて言ったのだ。


「いつまでも、弱いままでいられませんから」


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