第4章 Ⅸ
ロンドン最悪の貧困窟はイーストエンドではなく、ウェストエンドにある。コヴェント・ガーデン近くにあるこの区域こそが、邪悪と貧困と欠乏が渦巻く地獄なのだ。
すでに時代遅れとなった木製や煉瓦造りの建物が密集する様は最早迷路だ。年がら年中、影に包まれている。場違いなまでに装飾の施された高架の上を汽車が何度も往来するせいで、煤は周囲に立ち込め、ゴミさえ捨てられる始末だ。空気が滞り、黴臭く、鼠や野良犬、馬、人の糞尿や死骸で衛生面は最低だった。こんな場所に住む人間は地獄の底を這いずって生きる連中と相場が決まっている。強盗と暴力が日常茶飯事であり、聖書の一説よりも拳の強さが物を言うだろう。日没後に歩くのは自殺行為であり、アリスも過去、何度か殺されかけた。逆に、半殺しにしたこともあったけど。
「ヘレン、御嬢様、ぜえぜえ、かえ、返せぇえええ……ごほごほ」
距離にして一マイル以上。すでに、アリスの身体は限界だった。足は棒のように固くなり、尻は猛烈に痛い。顔面に吹き出した汗で髪が張り付き、目に染みる。そんな彼女の隣を、フローレンスが信じられない物を見るような目で並走していた。当然、馬で。
「この女、自転車で馬と同じ速度でここまで移動したぞ。とてもではないが、信じられんな」
「へっへっへ。女中を、舐めんなよ、金髪がぁ」
未だに自転車のペダルを漕ぐアリス。セブンダイアルズのさらに奥にある通りまでヘレンを捕えた馬車は進んで行った。まだ、その背中は見えている。距離にして、九十フィートもない。目的もなく暴走しているわけではないだろう。停まったところで、一気に近付き、強襲してやる。これだけ建物が密集していると、馬車では裏道に進めない。このまま行けば、必ずどこかで動けなくなるはずなのだ。だが、そんなアリスの浅慮を、酒と煙草で喉が焼けた男性のしわがれた声が、打ち砕く。
「手前ら! そこを止まりやがれ。ぐへへへへへへ。これ以上は、俺達の邪魔をなんざさせないぜ。邪魔な連中は全員、鼠の餌にしてやる」
辺りからゾロゾロと現れたのは、湾岸で働く肉体労働者のように薄汚い格好の男達だった。その数、二十人以上。全員が角材やサーベル、拳銃などで武装している。フローレンスが慌てて馬をとめた。アリスは思わず停まろうとして、はっと思い出す。
「私、自転車の停まり方、聞いてねえ!!」
単純に右手側のハンドルにあるレバーを握れば正解なのだが、今日初めて乗ったばかりの彼女には思いつかない範疇だった。ここまでノンブレーキで運転し続けたのは、ちょっとした奇跡だろう。
「おい、あの女止まんねえぜ! 良い度胸してやがる」
「構わねえ! 撃て、撃つんだ! ぶっ殺してやる!」
「ぎひひひひ。死体の穴を犯すのも愉しいもんだげへ」
男共の下卑た声がアリスの耳にも届く。もしも、ペダルを漕ぐのを止めれば慣性で自然と停止してくれるだろう。しかし、男達の群れに近付いた状態で止まってしまえば格好の餌食。恐怖が、下半身に噛みつき、少女の足を動かすのを止めさせなかった。二人の男が拳銃を構え、茶髪を撃とうとする。引き金が絞られ、甲高い銃声。大きく目が見開き、耳が硬直する。甲高い炸裂音が、アリスの背中を叩いたのだ。拳銃を構えていたはずの男二人が、足から血を流して、その場に膝からくずおれる。
「手間をかけされるな、馬鹿者が。まったく、どいつもこいつもロンドンの平和を脅かす泥ばかりだ。ならば、我々が〝掃除〟をしよう。ジェイク、ついてこられるか?」
「今更、何を言っているんですか。貴女が命ずるならば、地獄だろうが奈落だろうが煉獄だろうが、お供します。深い闇のさらに奥底にこそ、撃たないといけない連中がいる」
スコットランド・ヤード
アリスが乗る自転車が、狼狽する男達の脇を駆け抜ける。ヤードの助けられたのは、生まれて初めてだった。
(なによなによなによ! あんな連中、仕事をサボってアンネの尻を見にお茶を飲むような連中じゃない! 認めない。私はヤードが優しいだなんて認めない。けど、けど~~!)
後ろを振り返らない。だから、これは独り言だと自分に言い聞かせ、アリスは叫ぶ。
「ありがとよ! せいぜい死なないように頑張るんだな!!」
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