第3章 Ⅴ
クリミア戦争の英雄にして正しい看護の方法を世界中に広めた〝看護婦の女王〟であるフローレンス・ナイチンゲール曰く『病気の対策には清潔が一番大事です。証拠はこちらに資料を纏めた物があります。なんですか? 信じられないんですか? ヴィクトリア女王に言いつけますからね。病人を助けたくないですか!? 憎む心で人が成長することはないんですよ!?』らしい。衛生状態が悪かったロンドンにおいて、まさに目が覚めるような言葉だっただろう。そして、彼女の言葉に感銘を受けたのがイザベラ夫人である。
イザベラ・メアリー・メイソン。ビートンの家政本(ビートンズ・ブック・オブ・ハウスホールド・マネジメント)を手掛け、家庭を支える婦人達の指南及び使用人の心得を説いたロンドンが誇る縁の下の力持ちである彼女曰く『病気になりたくなければ風呂入れ。私は自分の夫に出勤前の朝風呂を強制しているぞ』らしい。
「ほーら、ヒューロちゃーん。頭にお湯かけるからちゃんと目を閉じるんだぞ~」
「ちゃんとゆっくりお願いします。と私は懇願うひゃあ熱い! 熱いと私は怒ります!」
「はいはい。今度は髪を洗うからね。洗髪粉をお湯で溶かした白いドロドロを頭にかけるからねー。目は開けちゃだめですよー」
ワシャワシャと小気味良い音と共に黒く艶やかな長髪が白い泡で覆われていく。ここはキャバリー家の一階にある〝お風呂場〟である。木製の椅子に座るヒューロを後ろから洗うのはアリス。当然、二人は一糸纏わぬ姿である。ちなみに、朦々と立ちこめる湯気が周囲に広がるも、彼女達の裸体を都合良く隠すまでの密度はない。
床は美しい大理石のタイル張りで、大人の男性でも足を伸ばして寛げるほど広い浴槽が実に堂々と君臨している。こちらは白と灰色の中間色で、耐久性の高い大きな石から一回で切り出した代物だ。どことなく、古き時代のローマを想わせるデザインである。わざわざ施された精緻な模様は熟練の職人だからこそ可能な技だろう。
お湯と水、二種類の蛇口が浴槽に伸びていて、壁際にはハンドルを捻る方式のシャワーと、立ったまま全身を眺められるほど大きく長い鏡まで設置されている。排水の設備もしっかりしていて、実に快適な造りだ。特に注目すべきは、最新式石炭ガスの湯沸かし装置だろう。風呂場の隣にある部屋に鎮座している彼が一度目覚めれば、どんな真冬でも熱いお湯を提供してくれる。その分、メンテナンスが多く、扱いが厄介なのだが。まず間違いなく、金持ち用の風呂場である。アリスはこれまでに、バケツに入れたお湯とスポンジで身体を洗うか、公衆浴場しか経験がない。
「それにしても、こんな豪勢なお風呂だと気疲れしそうだねー。ヒューロちゃんは、毎日入っているんだっけ? 日本人って、お風呂大好きなの? それとも、潔癖症?」
膝を折って髪を洗ってあげているアリス。ヒューロは目蓋をしっかり閉じたまま、口早に言った。両肩をきゅっとすぼめている。
「お風呂こそが、一日の疲れを癒す大切なものなのです! と私は強く語ります。風呂に入れない日など考えられません! と私は訴えます。ですが、一人で入るのは怖いのでアリスさんが手伝ってください。と私は懇願します」
「これぐらい良いって。ヘレンお嬢様の分も洗ったし、ついでだよ、ついで」
ちなみに、ヘレンはすでにベッドの中だ。今頃、小さな寝息を立てている頃合いだろう。現在時刻は八時。使用人としての仕事はほとんど終わっている。時間的にも、余裕があったのだ。
「ヒューロちゃんって体細いよねー。ちゃんと食べないと駄目だよ。セシルとまではいかないけどさ、一杯食べないと大きくなれないよ~。胸、ヘレンお嬢様と同じくらいじゃん」
「そういうことは言わなくてもいいと私は若干の怒りを露わにします。……こちらの人達が日本と比べて大き過ぎるだけで私はこの年なら普通ですと悔しい言い訳を述べます」
鼻を啜る音がするのはきっと気のせいだろうと、アリスは髪洗いを続行する。しかし、その手がふと思い詰めたように止まってしまうのだ。
「ねえ、ヒューロちゃん。ヒューロちゃんは、どうしてローグ様を手伝っているの? 怖くないの? あのフローレンスってヤードと戦ったんでしょう? そこまでして、どうしてローグ様の味方でい続けられるの? 単刀直入に言うとさ、二人って、どんな関係?」
疑問符が一杯のアリスの言葉に、ヒューロは黙り込み、そして、小さな、されど強い意志が込められた言葉ではっきりと言ったのだ。振り返ってはいない。なのに、女中はまるで狼に睨みつけられたように体を硬直させてしまう。それは、純然たる殺気だった。
「私は元々、孤児でした。どんな命運か、私を野原で拾った男は犬畜生にも劣る外道で、孤児や親に売られてしまい〝存在しなくなった子供〟を集めては人里離れた山奥へと集めていたのです。目的は、商品にすること。その意味が、アリスさんに分かりますか?」
ヒューロの問い掛けに、アリスは黙ったままだ。異国の少女は冷たい声で淡々と語る。
「歌や踊り、手品や剣術。様々な〝芸〟を覚えさせ、他の輩に売るんです。観賞用の奴隷が欲しい人間なんて、この世にはいくらでもいますからね。私達、攫われた子供は必死で芸を覚えました。金持ちに飼って欲しいから。じゃない、ちゃんと芸を覚えないと罰せられるからです。私は比較的物覚えが良かったので二度、三度鞭で足を打たれた覚えしか、ないんですけど、酷い子だと骨が見えるまで背中を木の棒で叩きつけられていました。床には血と小便が垂れ流され、まさに地獄のようでした。――と、私は容赦なく語ります」
言葉を並べて語るだけ。口調も淡々としていた。なのに、どうして、ここまで心が揺す振られるのだろうか。アリスの瞳孔が揺れる。視える。視えてしまう。ヒューロの魂に刻まれた光景を〝幻視〟してしまうのだ。それはきっと、異国の少女が纏う空気だ。普通の人間が、ここまで冷たい殺気と憎悪、嫌悪、悲痛を纏えるものか。森の中で狼に会えば死を覚悟する。それと、同じ原理だろう。世の中には、ただの言葉で鼓膜を震わすのではなく、魂に直接語りかけられるモノが確かに存在するのだ。
「――ごめん。私が悪かった。もう喋らなくていいよ。ほら、髪洗うね」
「逃げ出そうにも、終始見張られ、抜け出すタイミングなんてない。運良く山に出ても、そこがどこなのか分からない。迷って野犬に食われるか、餓死するか。ろくな食事も与えられず、いつもお腹を空かせていた子供に、逃げるなんて勇気はありませんでした。もしも捕まれば、熱した鉄棒で背中を焼かれるんです。ああ、私は、何度悲鳴を聞いたのでしょうか。と、私は遠くを見詰めて過去を思います」
「――ヒューロちゃん! もう止めて! ……もう、そんな悲しい話しをしないで。ごめんなさい。ごめんなさい。私、全然、知らなくて」
謝って済む話ではない。それでも、アリスは謝らずにはいられなかった。その瞳は涙で潤み、自然とひゃっくりをあげてしまう。
「まあ、そんな私がどうしてローグさんのところに居候しているかは、いつか別の機会に語りましょう。と、私は困ったような微苦笑を浮かべて貴女へと告げます。――さあ、髪を洗ってください。そろそろ、体が冷えてきました。と、私は要求しましょう」
すでに、狼の殺気はない。ここに居るのは、体が小さな異国の娘だ。アリスは再び髪を洗う仕事に従事する。ただ、ふと考えてしまうのだ。同居人の過去を。その本質を。
(ローグ様も、セシルも、何か隠しているのかな。私、貧乏暮らししている時は世界で一番不幸なのは私だ! って思っていたけど、とんだ悲劇のヒロイン気取りだったな。ああ、なんか、すっごく恥ずかしくなってきた。なにこれ。私、すっごい惨めなんですけど)
髪を優しく洗いつつも、アリスは苦い顔で己が過去を羞恥一杯に振り返るのだった。
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