賢者なブス。


 馬場添のテロ的行為で大惨事になった同窓会から数日経った。


 今日もいつも通り、サロンでお客さんの髪を弄る。


 本日最後のお客さんを仕上げている時、


 「貝谷さん、お客さんが来てます。貝谷さんの仕事が終わるのを待っているそうですよ。なんか、セレブっぽい女性です」


 アシスタントの真衣ちゃんが、床に散らばる髪の毛を箒で掃きながら俺に話し掛けてきた。


 「…了解」


 …セレブ。まさかね。いくらなんでも職場までは来ないでしょ。


 お客さんの髪をバッチリセットし、お会計を真衣ちゃんにお願いし、セレブが待っているだろうソファー席に向かうと、


 「貝谷‼」


 俺を見つけたセレブが手を振った。文乃だった。嫌な予感しかしない。


 「…どうしたの? 文乃」


 とりあえず、文乃の向かいのソファーに腰を掛ける。


 「私、もうダメ」


 急に涙ぐみ、バッグからハンカチを取り出す文乃。…百%旦那絡みじゃん。


 つか、ここで泣かれても困るんだけど。職場の奴らに変に思われるだろうが。


 「文乃、悪いけど俺まだ店の締め作業が残ってるんだよね。この近くにカフェがあるんだけどさ、そこで待っててくれない? なるべく早く行くから」


 ハンカチを用意した時点で泣く気満々の文乃に、ここで泣かれると面倒な為、移動する様に促すと、


 「早く来てね」


 と自分から押しかけて来たくせに、文乃は俺を急かしながら店を出てカフェに向かって行った。


 急いで閉店作業を終え、店の近くのカフェへ。


 ドアを開けると、待ってましたとばかりに『貝谷、こっち』と文乃が手招きをした。


 文乃がいるテーブルに行くと、文乃の前にはケーキと紅茶があって、ケーキは半分くらい食われていて、別に構わないんだけど、なんか『もうダメ』感をあまり感じなくてモヤモヤした。


 店員さんにコーヒーを注文して、文乃の正面に座る。


 あぁー。腹減った。本当は大盛りの牛丼がっつきたいのによー。でも、セレブ感を必要以上に撒き散らす文乃を、大手牛丼チェーンで待たせる事は出来なかった。


 頼んだコーヒーが運ばれてきて、それを一口飲む。当然腹など満たされない。


 ペッコペコなお腹を摩りながら早速本題へ。


 「何かあった?」


 「…旦那が…」


 予想通りの文乃の返し。


 「それを何で俺に相談?」


 友達でもなく、家族でもなく、何故に俺を巻き込もうとするんだ、文乃。


 「ひどいよ、貝谷‼ 何でそんなに冷たい事を言うの⁉」


 文乃は持っていたフォークをテーブルに置くと目に涙を溜めた。


 めーんーどーくーせー。泣くとか卑怯だろ。


 「イヤ、もっと文乃の事を良く知っている人間に聞いてもらった方がいいんじゃないかと思って」


 どうして同窓会で久々に会った俺なんだよ。勘弁してくれよ。


 「周りに心配かけたくないの‼」


 「俺ならいいんだ」


 「……」


 文乃がウルウルな上目使いで俺を見た。え? 何この展開。不倫でも始まるの?


 「…で、俺にどうしろと?」


 「話を聞いてくれるだけでいいんだ。貝谷に何かをどうこうして欲しいわけじゃないんだ」


 ドラマに出てくる内気で控えめ女子みたいな事を言う文乃・三十四歳。


 文乃は、しおらしい事を言っているつもりなのだろう。


 「俺にお喋りの相手をしろと…?」


 俺を専業主婦と一緒にするなよ。そんな暇ないんだよ。仕事終わりの貴重な時間を彼女でも何でもない既婚者に裂けってか?


 「何でそんな言い方するの? …話だけじゃだめなの?」


 目の前で困惑気味の表情を作ってみせる文乃。


 はぁ⁉ 何、俺が文乃を狙っているとでも⁉


 「…ホテル、行く?」


 「…いいよ」


 俺がかけたカマに『しょうがないなぁ』くらいの勢いで首を縦に振る文乃。


 文乃が淋しい思いをしている事は分かる。誰かに自分を求めて欲しい気持ちも分かる。が、相手に追わせ、自分は優位な立場でいたいという意地汚さが見えて、文乃の態度が鼻につく。


 「イヤイヤイヤ。冗談だわ。行かねぇわ」


 「私が既婚者だから怖いんだ」


 『意気地なし』とでも言いた気な文乃。コイツ、どんだけ自分に魅力があると思っているのだろう。


 「…あのさ、文乃は俺とヤリに来たわけじゃないだろ? 話をしに来たんだろ? 何を話したくて来たんだよ」


 空腹の為、若干イライラしつつも早く帰りたいので本題に戻す。


 「旦那と上手く行かなくて…」


 文乃が聞き飽きた台詞を口にした。


 「離婚したいの?」


 かったるさの余り、テーブルに肘をつき、頬杖をつきながらコーヒーを啜る。


 「離婚して、不倫女が財産を手にしていい思いをするのは許せない」


 文乃がテーブルの上で拳をぎゅうっと握った。


 「俺にその女を引っかけさせて、旦那と別れさせたいとか?」


 「はぁ⁉ 貝谷まであんな女とヤる気⁉」


 文乃が握り締めた拳でテーブルを『バンっ‼』と叩いた。


 …なんだろ。興奮するババアは尋常じゃなく鬱陶しい。


 文乃が大きな音を立てたりしたから、近くのテーブルにいたお客さんたちが俺らの方を見た。


 あぁ、もう辛い。なんで俺が変な目で見られなければいけないんだ。


 「じゃあ、文乃はどうしたいの? 『ただ話がしたい』って言って、解決しない不満を俺に喋り続けるつもりなの?」


 言葉にこそせずとも、言葉の端々にうんざり感を盛り込む。だって、超うんざりしているから。


 「何でそんなにギスギスした言い方をするのよ。私はただ、あの女が許せなくて…」


 それなのに、堂々巡りを繰り返す文乃の話。


 「それ、さっき聞いたから。ねぇ、やっぱりそれは俺じゃなくて専門家に聞いてもらった方が良くね? 無理だよ、俺じゃあ」


 耐えられなくて匙を投げる。


 「専門家って?」


 が、投げた匙を文乃が拾う。専門家の調達まで俺にさせる気なのか、この女。


 俺が知っている専門家なんて…。


 財布に入れっぱなしだった名刺を取出し、営業時間は終わっているかと思われたが、とりあえず書かれている番号に電話をしてみる。


 スマホを耳にあて、何コールか待っていると、若い声の男が電話に出た。


 『申し訳ございません。全員帰宅してしまい、今自分しかいないんですよ。明日の十三時であればご相談のご予約を承る事は可能ですが、如何でしょう?』と、明らかに営業時間外に電話をしてきた迷惑な俺に、とても感じ良く、低姿勢に接してくれたその男性。


 「だってさ」


 電話で言われた事をそのまま文乃に伝える。


 「…行きたくない」


 文乃が左右に首を振った。


 「はぁ⁉ じゃあ、どうすんの?」


 「何でよりによって…」


 「仕方ねぇだろ。他に伝手あるのかよ」


 「じゃあ、貝谷も一緒に来てよ。貝谷が勝手に電話したんだから‼」


 「はぁ⁉」


 電話を繋ぎっぱなしで揉めだす俺らに、電話の奥から『あのー』と困り気味の声が聞こえてきた。


 『あ、ヤベ』と放置していた電話に出ようとした時、文乃が俺の手からスマホを奪い取った。


 「明日の十三時、付き添いと一緒にお伺いします」


 と言って即座に電話を切る文乃。


 「はぁ⁉ 俺、行かねぇから。仕事あるし。顧客の予約も入ってるし」


 自分勝手な文乃にイライラを募らせ、文乃の手に持たれたスマホを捥ぎ取る様に乱暴に受け取る。


 「お客さんに予約の時間をずらしてもらえばいいじゃない。別日にしてもらうとか」


 「いい加減にして、文乃。俺、もう帰るわ。面倒見きれない」


 何を考えているんだ、文乃。有り得ない。仕事を何だと思っているんだ。


 我儘すぎる文乃に嫌悪さえ感じ始め、もう話をするのも嫌になり、テーブルにお金を置いて席を立った。


 「じゃあ、明日もお店に行くからね。明後日も明々後日も弥の明後日も行くからね‼」


 立ち去ろうとする俺の背中に文乃が吐き捨てた。


 「…ストーカーかよ」


 振り返り、呆れた視線を文乃に向けると、


 「貝谷が中途半端な事をするからでしょ。勝手に電話しておいて、後は知らないって何それ。無責任にも程がある」


 文乃が俺を睨んだ。

 

 「何言ってるんだよ。初めから俺には何の責任も関係もないだろうが」


 「責任がないなら首突っ込まなきゃ良かったでしょ」


 勝手極まりない文乃の言い分が、手に負えない。


 「文乃が突然ウチの店に来て、俺を巻き込んだんだろ。俺、文乃の事なんか呼んでないよな?」


 「そうね。だから明日から毎日毎日通ってやるわよ。なんなら客として毎日予約入れてやるわよ。私、お金はあるから。お金を払い続ける客を、オーナーさんは出禁に出来るかしらね」


 文乃は理解し難い主張を押し通すらしい。


 何という恐ろしい女なんだ。ちょっと前まで一緒にホテルに行こうとさえしていた男に無碍にされた途端に、『ただじゃおかない』とばかりに粘着してくるとは…。


 『だから浮気されるんだよ』と喉の辺りまで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。


 文乃の怒りを更に煽り、これ以上の迷惑行為を受ける事は避けたい。


 「…明日、何とか都合つけるから、俺の仕事の邪魔をする事だけは勘弁して」


 怒りを握り潰しながら拳を作る。壁でも一発殴らなければ気が済まない。


 『ギギッ』と奥歯を噛みしめながらカフェを出た。


 ビルとビルの間の空間が目に入り、迷わず入り込むと、


 「うっぜぇ‼ ババア‼」


 ビルの壁を殴りつけながら大声を出した。


 


 翌日、予約客の時間をずらしてもらったり、日にちを変えて頂いたりして、何とか十三時に時間を空ける事が出来た。


 本当にもうこれっきりにして欲しい。俺だけに迷惑がかかるならまだしも、まあ、それも充分嫌だけれど、お客さんにまで迷惑をかけるなんて、有り得ない。


 出来れば現地集合にしたかったのに、文乃は十二時過ぎに店に現れた。


 許し難い文乃の仕打ちにイライラが止まらず、無言で文乃に近づき、『行こうか』とだけ言うと、店を出てタクシーに乗った。


 タクシーの中でも口を真一文字にして、文乃の方も向かずに外の景色だけを見ていると、


 「なんか、ごめんね。怒ってる…よね?」


 不穏な空気に耐えられなくなった文乃が俺の顔を覗きながら機嫌を伺った。そんな事をされたところで、赦せるはずもなく、


 「今日だけだから。金輪際、無関係の俺を巻き込まないで。今日、しっかり相談して解決して」

 

 と、もの凄く棘のある言い方をすると、


 「貝谷の頼んだ専門家じゃ無理かもね」

 

 文乃も刺々しい言葉を返してきた。


 ギスギスしたままタクシーを降り、ビルの最上階にある事務所へ行くべくエレベーターに乗り込む。事務所に着き、扉を開くと、


 「あ、昨日お電話下さった十三時からご予約の方ですか?」


 昨日電話に出てくれた人だろう、感じの良い若い男性が、俺らを見つけて寄ってきた。


 「あ、はい。宜しくお願いします」


 『本当にどうか宜しくお願いします』という念を込めて、その人に頭を下げると、


 「すぐに担当の者を向かわせますので、こちらにどうぞ」


 と、奥の部屋に促された。


 案内されるままに部屋に入り、文乃と一緒に皮のソファーに腰を掛ける。


 「こういう所に来るのは初めてですか?」


 優しそうな爽やかボーイが、俺らににこやかに話しかけてきた。


 「そうなんです」


 初々しく可愛らしいその青年に、文乃の顔が綻んだ。そんな態度がやっぱり癪に障る。


 「どうぞリラックスしてくださいね。担当の者はズバズバものを言う性格ですが、とても優秀で私の尊敬する先輩ですので、きっとお力になれるはずですから」


 「…優秀? まぁ、性格は存じ上げておりますが」


 爽やかボーイと文乃が会話をしていると、扉をノックする音が聞こえた。


 扉が開き、担当者が中に入ってきた。


 「失礼致します。…あら、今日はどんなしょっぼい離婚相談をしにきたの?」


 ガリ勉うんこテロリスト・馬場添泉、登場。


 「ば‼ 馬場添先輩‼」


 馬場添の態度に焦った爽やかボーイが、馬場添の暴言を制止しようと馬場添に駆け寄る。


 「倉田がやる? どうせクソみたいな相談だから」


 俺らを見た瞬間に見事にやる気を失くす馬場添。


 「何を言っているんですか‼ 聞こえちゃいます‼ ていうか、聞こえてます‼ それに、馬場添先輩ご指名なんですから‼」


 そんな馬場添の腕を揺すりながら、爽やかボーイ倉田くんが『お願いしますよ』と諭した。


 「別に知っている弁護士が馬場添さんしかいなかっただけで、倉田さんが担当してくれるなら、その方が私も話し易いですし」


 どう見ても二十五・六歳の倉田くんに完全ロックオンした三十四歳・文乃。倉田くんにここぞとばかりに変な上目使いと異常な瞬きを繰り返す。


 倉田くんが年上好きなら問題ないけど、イヤ、文乃はまだ一応既婚者だから問題か。ただ、倉田くんが年上に興味がなかった場合、『自分はまだイケる』と思って張り切るババアは甚だ迷惑だ。


 同じ男である俺の目から見る限り、倉田くんは多分後者。


 でも、これで文乃が俺から離れてくれるなら、倉田くんには悪いが涙を呑んで頂きたい。


 「申し訳ありません。私はまだ弁護士として駆け出しで、馬場添先輩の下で色々教わっている最中なんです。正直、今受け持っている案件で精いっぱいで、今の私には新たな相談を抱えられる程の技量がないんです。お恥ずかしい話なんですけど」


 倉田くんが済まなそうにやんわり断った。さすが弁護士。無意識ながら危機管理能力高し。


 「で? バッサリ倉田に振られたセレブの相談を、私は乗るべきなの?」


 馬場添が俺らの向かいのソファーに座った。


 「アンタさぁ、弁護士のくせに人を侮辱する様なその口の利き方、どうにかしなさいよ。訴えるわよ‼」


 馬場添に馬鹿にされた文乃が、馬場添を指差し怒りを露わにした。


 「どうぞ? でもどうやって? 『小馬鹿にされたから訴えたい』って言う弁護を引き受けてくれる暇な弁護士っているの? それとも弁護人を付けないで私と戦う? ぶっ潰されるわよ? 厚さ一ミリにもならないくらいの薄さまで踏み潰されるわよ?」


 馬場添も人差し指を立てると自分のこめかみにトントンと当て、『よーく考えて』と嘲笑した。


 馬場添の背後では、倉田くんが両手を合わせ『すみませんすみません』と何度も頭を下げていた。


 苦労しているんだろうな、倉田くん。不憫でならない。


 「馬場添。俺、仕事を抜け出してここに来てるんだよ。悪いけど、さっさと文乃の話を聞いてやってくれない?」


 困っているのは倉田くんだけではない。俺も充分困っている。


 「では、どうぞ? お話ください」


 俺の気持ちを察してくれたのか、馬場添はやっと弁護士らしく話を聞いてくれる気になったらしい。


 そんな馬場添に安心したのか、倉田くんが俺らに『お茶とコーヒー、どちらがよろしいですか?』と飲み物のオーダーを取った。


 さっきまでの空気が悪すぎて、この場を離れられなかったのだろう。


 仕事だけではなく、馬場添にまで神経を使わなければならない倉田くんに、心の底から同情する。


 文乃も俺もコーヒーを頼むと、『すぐにご用意しますね』と倉田くんは一旦席を外した。


 「旦那が浮気をしている。相手の女が許せない」


 ポツリ、文乃が話し始めた。


 「それで? 離婚したいの?」


 「私はただ、相手の女が許せない」


 何度この言葉を聞いただろう。文乃は余程その女が憎いのだろう。


 「その女の名前は?」


 「知らない」


 「は?」


 馬場添の顔が歪む。


 「え⁉ 知らないのかよ、文乃。『あの女』って何度も言うから知っているもんだと思ってた。どの女の話をしていたんだよ」


 悠長に驚いていると、


 「オイ、貝谷。どういう事だよ」


 馬場添が背筋も凍る様な恐ろしい目で俺を睨んでいた。


 「失礼しまーす」


 そこにコーヒーを用意した倉田くんが再登場。


 「…あれ? 空気が元に戻っているような…」


 察しの良い倉田くんは、すぐに俺らの様子に気が付いた。そして、『何があったんですか?』とでも言いたげな目で俺の方を見ながら、コーヒーを俺らの前に置いた。何か、あったはあったけど…。


 「しゃ…写真とかはあるんだよな? 相手の顔は知ってるんだろ? 文乃」


 凍てつく空気をどうにかしようと文乃の肩を揺らすも、


 「ないし、知らない」


  俯く文乃。


 「旦那が何曜日の何時に帰って来ないとか、メモしてある?」


 馬場添が下を向く文乃の近くで、テーブルを軽くコンコンと叩いた。


 「そんなのあるわけないじゃない。旦那、経営者なのよ? 夜が遅いのなんて当たり前なんだから、いつが浮気の日でいつが仕事なのかなんて分からないわよ‼」


 文乃が顔を振り上げ、キレ出した。どうしてババアというのは、興奮したら話し合いにならないという事が分からないのだろう。


 「じゃあ、クレカの明細は持って来られる? アナタが使っているカードって家族カードなんじゃないの? だとしたら、明細は旦那のところに一括で来るはずよね? 『自分の明細が見たい』とかなんとか言って、旦那の分も持ち出してコピーするとか出来ないの? 明細さえ見られれば、使ったホテルとかレストランとかが分かる」


 興奮したウザイ文乃に冷静に話を続ける馬場添は、何だかんだプロなんだなと思った。


 「無理よ。前に外商で買ったアクセが気に入らなくて、でも何個か一緒に買ったから、どれがどの値段か分からなくて、『返品したいから明細を見せて欲しい』って旦那に言ったら、『お前が使った分だけなら、WEBで確認出来るだろ。それに、返品なんかしなくていいだろ。使わなければいいだけの話じゃねぇか』って見せて貰えなかったもん」


 やはり文乃はセレブだった。文乃の話は俺には全然現実感がない。


 「ねぇ、何を以って『旦那が浮気をしている』って言っているのよ。目撃もしていなければ、証拠もないじゃない。何? 悲劇のヒロインになってみたい的な?」


 呆れた馬場添が、逆にむせそうな程のめちゃめちゃデカイため息を吐いた。


 「やっぱり馬場添の男と女の問題は無理なのよ。見た目からして恋愛とかした事なさそうだし。旦那の口調がいつもと違うとか、夜の仕方が変わったとか、馬場添にはそういうの分からないでしょ」


 『恋愛経験がないなんて、寂しい人生ね』と言いながら、文乃がクスリと笑った。


 「私には、何の確証もなくここにやってくるアンタの常識のなさが分からないわ。取りあえず、先に探偵事務所に行くべきでしょ。誰かも知らない人間に恨みを持つなんて、常軌を逸してるわよ、アナタ」


 馬場添が『怖ッ』と言いながら、大げさに自分の両腕を摩る。


 「残念でしたー。ここに電話をしたのは私じゃなくて貝谷。常識がないのは貝谷の方よ」


 ドヤ顔をした文乃が急に俺を指差した。


 なんでコイツは、都合が悪くなるといつも俺のせいにするのだろう。


 更になんで馬場添も俺も、倉田くんまでもが『あらあらあらー。やべぇな、コイツ』と言わんばかりの冷ややかな視線を浴びせているのに、本人は気付かないのだろう。


 「じゃあ、常識のない貝谷さんよ。この手に負えないセレブを連れて、どうぞお引き取り下さいな。私も戯言に付き合っていられる程、暇を持て余していませんので」


 馬場添が、『ハイ、終ー了』とばかりに『お役に立てませんで』と言いながら頭を下げた。


 「ほらね。やっぱり馬場添じゃ力不足なのよ。行こう、貝谷」


 文乃がスクっと立ち上がり、俺の二の腕を持ち上げた。。


 俺はいつまでこの我儘勘違いセレブババアに付き合わされるのだろう。


 「俺、ここまでちゃんとついて来てやったよな。もういいだろ、文乃。一人で帰れるだろ、子どもじゃないんだから」


 どうしても文乃と一緒に帰る気になれなくて、腕を引っ張られようとも腰を上げなかった。


 「…そう。じゃあ、先に帰るよ。またね、貝谷」


 文乃は頑なに動こうとしない俺の腕から手を放すと、一人で部屋を出て行った。


 「既婚者セレブになんか手を出すから、逃げるに逃げられなくなるのよ」

 

 文乃がいなくなり、馬場添が俺に話し掛けてきた。


 「それならまだ納得いくわ。手、出してねぇしな。既婚者なんか興味もねぇわ。

 なぁ、馬場添。無理な事を言っているのは百も千も万も承知なんだけど…やっぱ無理なのか? 

 俺、文乃に本気で迷惑してるんだよ。アイツ、これが解決するまで俺の店に毎日来るって言っていて、かなり邪魔なんだよ。俺、今美容師やってるんだけど、馬場添からしたら俺の仕事なんかたいした事ないのかもしれないけど、俺にとっては高校時代から決めていた職業で、こう見えても真面目に自分なりに一生懸命働いているんだよ。だから…「奇遇ね」


 馬場添にとっても迷惑な話をしている事は分かっていて、でも自分じゃどうにも出来なくて、縋るように訴えると、言い切る前に馬場添が言葉を挟んだ。


 「私も弁護士になるのを決めたのは、高校の時」

 

 馬場添が俺と視線を合わせる。脳裏に、必死で勉強に勤しんでいた馬場添の姿が蘇った。

 

 「まぁ、夢を叶えていようがいまいが、好きな仕事をしていようがそうでなかろうが、そんな事はどうでもいい。私も真剣に仕事をしている人間として、あのセレブの行動は腹が立つし、イカれていると思う。頑張って働く労働者の邪魔をするババアなんて、老害以外の何者でもないわ」


 馬場添は、俺に同情してくれているのだろうか。馬場添が続けて口を開いた。


 「どうせあのセレブ、毎日貝谷の店に来ちゃうんでしょ? だったらセレブに『旦那の財布からタクシーの領収書を探し出して写真撮って』って伝えて。カードの明細が無理だとしても、それくらいなら出来るはず。貝谷の携帯にそれが送られてきたら、私と倉田に転送して」


 馬場添が倉田くんに、自分の名刺を俺に渡す様指示すると、『お渡しするのが遅くなり、申し訳ありません』と倉田くんが俺に名刺を差し出した。それを受け取り、


 「分かった。でも、それで何が分かるんだよ」


 素直に馬場添に頷くも、馬場添の狙いが分からない。


 「何も分からないかもね。でも、何か分かる可能性もなくはない。つまり、上手く行くとは限らないから余り期待しないで」


 馬場添の真意は分からないが、それでも馬場添は俺に協力をしてくれるらしい。


 「と、いう事で今日の相談はこの辺でいいでしょ。私も他の仕事があるし、貝谷だって職場に戻りたいんじゃないの?」


 俺を早く帰らせたいのか、俺に帰るタイミングをくれたのか、馬場添が先にソファーから腰を上げた。


 「そうだな。客商売だから、自分都合で空けた穴は最小限にしておきたい」


 俺も立ち上がると、倉田くんがドアを開けてくれた。


 一応依頼人の俺の見送りの為か、馬場添が倉田くんの隣に立った。


 馬場添と倉田くんに軽く頭を下げ、二人を通り過ぎ、部屋を出て行こうとした時、


 「ていうか、さっきアンタが言った事、間違っているわよ。私がいつ美容師の仕事を下に見たのよ。確かに私は貝谷の三倍は勉強したから、貝谷をより頭が良い自信がある。でも、貝谷はその分腕を磨いたわけでしょ? 貝谷と私は働く世界が違うじゃない。比べても意味がないわ。自分の方が下だとは全く思わないけど、貝谷より上だとも思っていない。まぁ、あのセレブよりはちゃんと生きている気はするけど」


 両手を前で組むという、見送りにしては大きな態度の馬場添が、俺の足を止めた。


 「もがいているんだよ、文乃。自分ひとりでどうにも出来なくて、じたばたしてるんだよ。文乃だって必死に生きてるんだよ。…超絶うぜぇけど。宜しく頼むよ、馬場添。倉田くん」


 文乃のあんまりな言われようを庇ってはみたものの、やっぱりウザいものはウザい。


 「とりあえず、さっき言ったヤツのメール、待ってるわ。進展があったらこっちから連絡する。じゃあ」


 馬場添は、組んでいた腕を解くと、俺に向かって右手を軽く挙げた。


 「それじゃあ」


 もう一度ふたりに頭を下げ、部屋を出ると、法律事務所を後にした。


 馬場添は、文乃を、俺を、助けてくれるだろうか。



 馬場添に相談をしてから一週間が経った。


 流石に毎日ではないが、『私の事、忘れてくれるなよ』とばかりに文乃は店にやって来た。


 旦那の財布からタクシーの領収書を探し出し、写真に収める作業はそう難しい事ではなかった様で、文乃は『もういいよ』と思うくらいの量の写真を送り付けてきた。


 それを逐一馬場添と倉田くんに転送。…が、未だにふたりから何の音沙汰もない。


 他の仕事で忙しいのかもしれない。こんな明証もない依頼の弁護をしている時間などないのかもしれない。


 でも。うんともすんとも言われないと、『ちゃんと考えてくれているのだろうか』と不安になる。


 「あのさ、文乃の件はどうなってる?」

 

 仕事が終わり、馬場添に電話をしてみた。


 『貝谷って、いつも何時に仕事終わるの?』


 馬場添は、俺の質問には答えてくれず、質問を返してきた。


 「日によって違うけど…遅くても二十二時くらいには終わるかな」


 聞かれた事にとりあえず答える。


 『そう。じゃあ、来週のいつかは分からないけど、電話したら指定した場所に、セレブがスッピンだろうがパジャマだろうが、引き連れて来てくれない?』


 何かを掴んだかの様な馬場添の指示。きっと馬場添は何か情報を持っている。


 「何か分かったんだろ? 聞かせてくれない?」


 『貝谷、依頼人じゃないでしょ。ただの付き添いでしょ。話すわけないじゃん。まぁ、あのセレブにも言う気ないけど。余計な動きでもされて台無しにされたくないし。私、暇じゃないから切るわ。この前も言ったけど、何かある時はこっちから連絡するから。じゃあ』


 一方的に電話を切った馬場添の言葉には、明らかに『もう電話してくるなよ』の意が込められていた。



 馬場添からの電話を待ちつつ、更に一週間が経った。


 今日ラストのお客さんのオーダーが、カット・カラー・パーマ・トリートメントのフルコースだった為、仕事を終えたのが二十二時半を回っていた。


 『良く働いたなー』なんて、自分で自分を褒めながら店内の掃除をしていると、


 「貝谷さーん。電話でーす」


 レセプションの子に呼ばれた。


 「はーい」


 持っていた箒を近くの壁い立てかけ、電話を受け取り耳に当てる。


 「お待たせしました。貝谷です」


 『二十二時過ぎには終わるって聞いていたから携帯に掛けたんだけど、出なかったからお店に電話しました。馬場添です。仕事中の様なので手短に話すよ。貝谷の携帯に地図を添付しておいたから、二十三時半までにセレブを連れて来て。絶対に遅れないように。ババア待ちほど無駄な時間はないから。あ、セレブに印鑑持参する様に言ってね。じゃあ』


 仕事熱心な馬場添は、他人の仕事の邪魔をするのも嫌いな様で、用件だけをババッと喋り終わると電話を切った。


 遂に馬場添から召集がかかった。


 急いで掃除を終わらせたが、時間的に文乃を迎えに行く余裕はない為、現地集合にすべく、馬場添から送られてきた地図を文乃に転送した。


 念の為に文乃に電話を入れると、


 『お化粧落としちゃったもん。ちょっと遅れるわ。何でもっと早く言ってくれなかったの?』


 と軽く逆ギレされた。

 

 ババア待ちほど無駄な時間はない。馬場添が言っていた事は必ずしもそうだとは思わないが、我儘ババアに待たされる事は、無駄な上に不愉快だ。


 そして、文乃がスッピンだろうがパジャマだろうが、俺の知った事ではないから、馬場添にとってもどうでもいい事。


 「分かった。じゃあ、倉田くんには『文乃が化粧に時間かかるから、遅れるのは仕方ないって言ってる』って伝えておくわ。あ、印鑑持って来いってさ。忘れるなよ」


 頭にくるので、倉田くんが今日馬場添と一緒に行動しているのかどうか分からないが、倉田くんの名前を出しながら、文乃が嫌がりそうな事をわざと言い、こっちから切ってやろうと終話ボタンをタッチしようとした時、


 『馬場添みたいな言い方して、嫌な感じ』


 文乃が悪口を滑り込ませた。


 本当に、どの口がほざいているのだろう。



 二十三時二十五分。馬場添指定のホテルのロビーに到着。


 キョロキョロしながら馬場添を探していると、


 「貝谷、こっち」


 先に俺を見つけた馬場添が立ち上がり、自分の座っていたソファーの方へ俺を手招きした。


 馬場添に近づくと、馬場添の向かいのソファーに、マスクで顔を覆った文乃が座っていて、キレ気味に俺を見上げた。


 「倉田くん、いないじゃん」


 俺が座った事を確認すると、馬場添は鞄からタブレットを取出し、テーブルに置いた。


 「セレブが旦那の財布から発見して撮影した領収書だけど、千五百円前後のものが複数あるのが目につく。しかも、使用された時間がどれも十九時頃。その時間、旦那の会社からタクシーを使い、千五百円で移動出来る範囲は、だいたいこの辺り」


 馬場添がタブレットに地図を表示し、俺らに見せた。


 「セレブの旦那は外商から買ったアクセの返品を嫌がる程の見栄っ張り。ということは、行くとすればこの範囲で一番高級なホテル。つまりここ。先週と今週、倉田と交互に張り込んでいたら、女を連れて四回来た」


 『この女ね』と今度はタブレットに愛人の写真を表示した。にっこり微笑む若くて可愛い女の子だった。


 「倉田も私もこの女しか見ていないから、恐らく愛人は一人だけ」


 「よくこんなバッチリ撮れてる写真手に入れられたよな」


 明らかに盗撮ではないその写真を不審に思いながら、愛人の顔を眺めた。


 「女の名前は【今川環】二十五歳の秘書。服飾短大卒。セレブの旦那が彼女を『タマキ』って呼んでいるのが聞こえたから、ネットに名前と旦那の会社の名前を入力して検索したら、彼女のSNSが出てきた。SNSって便利よね。個人情報垂れ流し状態なんだもの。因みにその写真は彼女のSNSより拝借」


 俺の疑問に答えると、『話を進めるわよ』と言いながら、馬場添がタブレットの画面を切り替えた。


 「セレブと愛人はこの近くのレストランで食事をしてからこのホテルに行くのが定番らしいわ。四回中二回はここのフレンチ、一回はここのすし屋。一回はここの中華。本当に分かり易いわね、アンタの旦那。見事に全部ミシュランガイドに載っている店だったから簡単に探し出せたわ。逆に見つけて欲しいのかと思ったくらいよ」


 馬場添が『ここ、ここ、ここ』とタブレットの画面上に表示された店を指差しながら、文乃の旦那に呆れていた。


 馬場添の話を聞きながら、文乃が膝の上で拳を握り締めているのが見えた。


 愛人の顔を知り、旦那と二人で何をしていたのかを知った文乃は今、怒っているのだろうか。悲しんでいるのだろうか。


 「そして、食事を済ませた二人がホテルに入るのが、だいたい二十一時過ぎ。ふたり一緒じゃなくて、時間差でチェックインしやがる小賢しさを見せつけられて、倉田が腹を抱えて大笑いしていたわよ。チェックアウトも別々だから、証拠押えるのが大変だったわ」

 

 「お待たせしました、馬場添先輩‼ ていうか、僕がいないところで変に盛った話をしないで下さいよ‼ 大笑いなんかしてませんよ‼ 僕がしたのは苦笑いです‼」


 馬場添が話をしている途中に、少し息を切らせた倉田くんが急ぎ足でやって来た。


 「おっせーわ、倉田。てか、笑いながら軽蔑した事には違いないんだから、どんな風に笑ったかなんてどうでもいいでしょうが」


 馬場添が、早速倉田くんに何かをよこせとばかりに、掌を突きだした。


 「馬場添先輩のせいじゃないですかー。それに、僕がどんな風に笑ったか以前に、僕が笑った話をする必要あります?」


 倉田くんは困り顔をしながら鞄を開くと、中から何枚かの紙が挟まったファイルを馬場添に手渡した。


 「この程度の事にこんなに時間が掛かるなんて思わないじゃない。倉田の話は、アンタがチンタラしててなかなか来ないから会話繋ぎの為にしていただけでしょうが」


 馬場添は、『めっちゃ走ってきたのに‼』と納得のいっていない表情を浮かべた倉田くんから受け取ったファイルの中身を確認すると、それを文乃の前に置いた。


 「こっちが公正証書で、こっちが誓約書。誓約書は今日、愛人に絶対にサインさせるわよ。相手の女、許せないんでしょう? 一読して間違いがなければ自分の名前の下に判子押して。持ってきてあるわよね?」


 馬場添が、自分の鞄から朱肉を取り出し蓋を開け、テーブルに置いた。


 文乃は二つの書類をじっくり読むと、


 「頼んだわよ、馬場添」


 持っていた判子に朱肉をたっぷりと付け、各書類に力強く押印した。


 馬場添は、文乃の捺印を確認すると腕時計に視線を落とし、


 「そろそろ出てくる時間ね。戦の始まりじゃ。叩き切ってやりましょうかね」


 首をぐるぐる回し、指の関節をボキボキ鳴らせてニヤリと笑った。


 「あぁ。エアー血祭りになりそう。馬場添先輩、ただでさえ忙しいのに、この証拠集めの為に連日張り込みしてたから、疲れもストレスもMAXですからね。覚悟していて下さいね。百%荒れます」


 ため息混じりの倉田くんが、文乃と俺に忠告してきた。


 馬場添は、同窓会以上のテロを巻き起こすのだろうか。



 「お、来やがった」


 戦闘モード全開の馬場添が、ホテルを出て行こうとする本日の獲物を発見した。


 「今日もバラバラの帰宅かよ。ネタは上がっているんだから、揃って登場しろよ、怠いわー」


 立ち上がり、先に出てきた愛人に向かって速足で近づく馬場添。その後を三人で追いかける。


 「今川さんですね。初めまして。弁護士の、馬場添泉です。こちらは山岸代表取締役の奥様です。何の話をしに来たのか、察しはついていますよね」


 馬場添が遂に標的に声を掛けた。馬場添に呼び止められた今川さんは、目を見開いて驚くと鞄からスマホを取出し、文乃の旦那に電話をし出した。


 数分後、文乃の旦那が俺たちの元に到着。


 「こんにちは。私、弁護士の馬場添泉と申します。少しお話よろしいですか?」


 不適な笑みを浮かべながら、馬場添が文乃の旦那に名刺を差し出した。


 「お前、何なんだ? こんな事をして恥ずかしくないのか⁉」


 馬場添の名刺を受け取らず、文乃に詰め寄る文乃の旦那。


 「恥ずかしいのは奥様の方ですか?」


 馬場添が、文乃の旦那と今川さんが寿司屋で寿司を食べさせ合っている、いい歳をしてこっ恥ずかしい写真をチラつかせた。


 「……」


 文乃の旦那の顔が歪む。


 「あちらで話しましょう」


 馬場添がそんな文乃の旦那とその愛人を、さっきまで俺らが座っていたソファー席へ促した。


 全員で移動し、不倫後のふたりと俺らが対峙して座る。


 「弁護士であれば存じ上げていると思いますが、ラブホテルではないホテルで会う事は浮気の証拠にはならないでしょう。私たちはただ、仕事の話をしていただけですし」


 腰を掛けるとすぐに白々しい言い訳を口にする文乃の旦那。認める気などさらさらないらしい。

 

 「週二で二人きりで食事して、その時には話終わらずにホテルでもお仕事のお話ですか。熱心ですね。代表取締役と受付嬢がホテルでどんな話をするんですか? 『もっと元気に挨拶しましょう‼』とかですか?」


 馬場添は、文乃の旦那の苦しい弁解を呑む気など全くない様子で、小馬鹿にしら質問を返した。


 「今度、大切なお客様のおもてなしを今川さんに担当してもらう事になったから、その話をしていたんだ。失礼な弁護士だな、キミ」


 馬場添のおちょくった態度に、早速キレる文乃の旦那。


 「今川さんの上司を差し置いて、 直接今川さんにお話しですか? そんなに今川さんの上司の方は信用ないんですかね。よっぽど仕事が出来ないとかですか? 立場ないですねー」


 相手が怒っていようとも、姿勢を変えない馬場添。


 「こっちはキミの低俗な妄想に付き合っている暇はないんだよ。あとはウチの顧問弁護士と話をしてくれ」


 文乃の旦那が『行こう』と愛人に声を掛け、立ち上がった。


 「そちらの顧問弁護士さんと何を話せば良いのでしょうか? いくら優秀な弁護士でも弁護しきれないと思いますが。カモン‼ 倉田‼」


 「はい‼」


 馬場添に名前を呼ばれた倉田くんが、建築士がよく持っている筒状の入れ物から、丸められた紙を取り出すと、馬場添と一緒に広げだした。


 「『二人で話し合いをしていた』って口を塞いでどうやって言葉を発するのでしょうか? あ、この時はたまたま今川さんが呼吸困難にでも陥って人工呼吸をして差し上げていたとかですかね? そっかそっかー。あれ、でも今川さん、何でホテルのガウンを着ているの? 話し合いが白熱しすぎて汗びっしょりになって着替えたとか? はたまた応援していた野球チームが優勝したから一緒になってビールかけをしていたからとか? でも、まだプロ野球って開幕すらしていないですよね。え? メジャーの方? そっち? あ、ちなみにこの日はカラッカラの晴天でしたので、雨に濡れたからという言い訳は通用しませんよ」


 馬場添たちが広げた大きな紙には、ガウンを着用した今川さんがホテルの部屋のドアを開け、後からやって来ただろう文乃の旦那を招き入れる際にキスをしている写真が印刷されていた。


 「…無駄にデカイな、写真。横断幕かと思ったわ」


 笑いそうになる俺に、


 「馬場添先輩に『証拠押えました』って言ったら、『よし‼ プロッターで拡大コピーして来い』と言われまして…。法律事務所にそんなものないですし、嫌がらせの為の拡大コピーに経費は使えないので業者には頼めないしで、親戚の家に借りに行っていたら、こんな時間になってしまいました」


 倉田くんが『大変でしたー』と遠い目をした。今日、倉田くんが遅れて来たのはこのせいだったらしい。


 「言い逃れ出来ない様な写真があるなら、最初から出せばいいのに」


 拡大写真を見ながら引き攣る俺に、


 「馬場添先輩は、相手を泳がせて滑稽な様を眺めるのが趣味なんですよ」


 『いつもの事です』と倉田くんがしょっぱい顔をした。


 「浮気をもみ消せるシティホテルを利用して、わざわざ出入り時間もずらしていたのに、何でドアを閉め切る前にやっちゃうかなー」


 若干引き気味の俺らの事など構う事なく、馬場添は水を得た魚の様に活き活きと文乃の旦那と今川さんを甚振る。


 「分かった分かった。離婚すればいいんだろ? それでいいよ、別に。金、いくら欲しいんだよ」


 文乃の旦那が開き直ると、文乃の目に涙が溜まった。


 「離婚は致しません。有責配偶者のあなたからは原則として、離婚請求出来ません。奥様が離婚しないと言ったら出来ません。そんな事より私共は、山岸智之さん、今川環さんのお二人に慰謝料の請求、及び今川環さんに『もう二度と山岸智之さんには会わない』とお約束頂き、誓約書にサインを要求いたします」


 馬場添が誓約書を愛人の前に広げ、その隣にペンを置いた。


 困惑状態の愛人が文乃の旦那を見上げる。そんな愛人の肩を『大丈夫だ。俺が払うから』と文乃の旦那が摩った。


 「離婚しない旦那にも慰謝料請求? 同じ家計内での無意味な金の移動をして何になるんだよ。本当に根性が意地汚いな」


 文乃の旦那は、この期に及んでまでも反省の態度を見せない。


 「意地汚い? 私共がですか? 複数回の不貞行為をした挙句、一回は白を切り通そうとしたアナタ方ではなく、私たちの方がですか? おかしいなぁ。ちゃんと民法七一〇条に則って正当だと思って主張したのになぁ。離婚しないなら慰謝料請求出来ないなんて、どこの国の法律なのかしら。ここ、確か日本だったわよね。やっぱり顧問弁護士さんを呼んでもらおうかしら。全然お話にならないわ。不倫しておいて何のお咎めもないわけないじゃない。同じ家計内のお金の移動は無意味って言っていたけど、自分の通帳の残高を奥様に見せた事があるのかしら。ねぇ、倉田」


 反省の色が見えない文乃の旦那に、イライラしだした馬場添が無闇に倉田くんを巻き込んだ。


 倉田くんは静かに目を閉じると、天を仰ぎながら小声で『やめてー。僕の名前を呼ばないでー。僕の案件じゃないのにー』と呟き、


 「私は馬場添先生と全く同意見です」


 切ない笑顔を馬場添に向けた。


 そんな倉田くんの背中を思わず摩る。倉田くん、こんな馬場添の下でよく頑張っているよ。なんか、泣ける。


 馬場添の血祭りは、相手の敵意を味方にまで分散し、仲間までも血まみれにするらしい。


 「……」


 そんな舐めきった馬場添の振る舞いに、文乃の旦那は反論出来ずに怒りに震えていた。


 その様子を見て、勝ち誇ったかの様に口端を上げる馬場添。


 「で? 顧問弁護士を呼ばない様であれば、話の続きをさせていただきますね。とりあえず今川さん、誓約書を読んで頂きましたらサインをお願いします。あ、これは明日中に郵便局に持って行く予定の内容証明なんですけど、記載の金額を請求しますので一応覚えておいて下さいね」


 愛人はまた助けを求めるかの様に文乃の旦那に視線を向けるが、成す術のない文乃の旦那は何も答えられずにいた。そこに、


 「サインをご記入く・だ・さ・い」


 馬場添の脅しに近い敬語のお願い。誰も助けてくれない状況で、迫力満点の馬場添に責められるのは、二五歳女子には耐えがたい恐怖だろう。可哀想に。ちょっと同情。相手が悪すぎたね、今川さん。


 半泣き状態の今川さんが震える手で誓約書に署名した。


 血祭り終了ー。と思ったが…。


 「でも、旦那と同じ会社に愛人がいるって不安ですよねー。あ、確か今川さんって服飾短大を卒業されていますよね。山岸さんの会社って、中国に大きな縫製工場をお持ちでしたよね?」


 事前に調べただろう情報から、突然恐ろしい発言をする馬場添。


 馬場添の祭は、むしろここからが始まりらしい。


 「えっ」


 馬場添の言わんとする事が分かった、今川さんが固まった。


 「会社の人事にまで口を挟むのは行き過ぎだろ」


 流石に自分の会社の社員を守る代表取締役の不倫男。


 「私はただ、質問をしただけじゃないですか。だって、心配ですもん。

 旦那様の帰りが遅くなった時、胸騒ぎを覚えた妻が会社に行ってしまうのはあり得る事ですよね? 社員が奥様の姿を発見すれば当然不審に思うでしょう。社員に声を掛けられた奥様が不安の中、動揺余って山岸さんの不倫の前科をポロっと話してしまうかもしれない。

 山岸さん、同じ会社に一つ年下の弟さんが専務としてお勤めですよね? 人望も厚いとか。

 そして小耳に挟んだ情報ですと、最近白畠ホールディングスに業績抜かれちゃいましたよね、御社。不倫中に業績を落とした事が社員に広まれば、社員から信頼を寄せられている弟さんをトップにすべきだ‼ って声が上がっても不思議ではない話ですよねー。ねぇ、倉田」


 馬場添の口から、本日二回目の『ねぇ、倉田』が飛び出した。


 『油断してたー。まさかまた呼ばれるなんてー』と呟きながら、悲しみに打ちひしがれる倉田くん。


 「全く持って馬場添先生の言う通りですね」


 倉田くんが物悲しい無理矢理な笑顔を馬場添に向けた。

 

 馬場添はにっこり微笑むと満足気に『よしよし、そうだろう?』と頷いた。


 「…なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの⁉ 男なんて誰だって若い女と遊びたいものじゃない‼ なんで私がオバサンの恨みを買って、人生狂わされなきゃいけないのよ‼」


 さっきまで一言も喋らなかった愛人が、自分の異動を案じ、大声を出しては泣き出した。


 「自分もいずれオバサンになるのに、年上の女にオバサンって言うなって言うババア、同じババアとして大嫌いなのよね。『知ってるよ。だから自分がババアになる前に言い残す事無く『ババア』って罵ってるんじゃねぇか、ばーか』って感じよね」


 馬場添がポケットからハンカチを取り出し、ワンワン泣く愛人に手渡した。


 「何言ってんの、馬場添。同窓会で自分もババアなのにも関わらず、私に『ババアババア』って連呼してたくせに。自分なんか、ババアな上にブスのくせに」


 おとなしくしていた文乃が、余計な事を思い出し、それを口にし出すから、倉田くんと俺とで慌てて文乃の口を押さえつけた。馬場添に軽口を叩くなんて、自殺行為と一緒だ。


 しかし、しっかり馬場添の耳に入ってしまっていた様で、瞳孔を開き切った目を向けられた。もう、ホラーでしかない。


 そんな馬場添が、愛人に視線を戻した。


 「『若さは武器』って言うじゃない? 本当にそうだと思う。若いってだけで勝負に出られたりするじゃない。若さが武器なら、経験は盾なんだと思う。で、武器にも盾にも成り得るのが、恐らく知識。若い時はさ、盾なんか持ってなくても、盾を持った大人が守ってくれるけど、歳を取るとねー、武器は失うし、誰も助けてくれないし。チヤホヤなんかしてもらえない。今川さんさぁ、二十五歳でしょう? もう、アラサーじゃない。ババアの扉、見える頃でしょう? 武器になりそうな知識、何か携えた?」


 脈略の見えない馬場添の話に、愛人が目を丸くした。


 「アナタ、武器も持たずにババアになる気? 勇気あるわね。ある意味勇者ね。武器を持たないババアなんて、私みたいな賢いババアに踏んづけられてお終いよ。

 アナタには服飾の土台がある。中国でそれを磨いて武器にするのは、悪い事ではないと思うけど」


 馬場添は、ただ単に嫌がらせがしたくて今川さんを中国に行かせようとしたわけではないらしい。


 「…そんな突拍子もない事、今の私に考えられるわけないじゃないですか」


 今川さんが泣きながら馬場添に言い返す。


 「じゃあ、家に帰ってじっくり考えなさいよ。かなり重要な事よ。女は死なない限り、必ずババアになるんだから。一度ババアになったら一生ババアなの。

 若さや美に頼っていた女はね、ババアになると人生が楽しくなくなりがちなのよ。でも、自分に納得しているババアの人生は、割と楽しいわよ。

 武器がなくても生きていけるわよ。子どもを生きがいにしたり、趣味に没頭したりもいいと思うわよ。でも、子どもは何年かすれば自分の手を離れていくし、趣味はそれが仕事にでもならない限り、自己満足に過ぎないわ。

 武器を得て、戦えるババアの人生は、ただのババアの人生より遥かに豊かなものになる。絶対に」


 馬場添は、力強くそう言うと『今日はもう帰っていいわよ。疲れた頭で考えても優れた答えなんか出てこないわ』と今川さんの背中を押した。


 馬場添に帰る様に促された今川さんは、文乃に頭を下げると一人でホテルを出て行った。


 「待って」


 文乃の旦那が愛人の後を追いかけようとした。


 「彼女、『山岸さんとはもう会わない』って誓約書にしっかりサインしていますけど、呼び止めますか? ますます彼女、不利になりますけど」


 馬場添の言葉に、文乃の旦那の足が止まる。


 「アナタは、彼女の足を引っ張るだけで、武器にも盾にも何にもならない、ただのオッサンね。まぁ、お金を持っているだけマシだったか」


 馬場添は、立ち止まった文乃の旦那の正面に移動すると、胸のあたりで腕組みをしながら、尚も嫌味を言い続ける。


 「だから、金を払うから離婚するって言っているだろうが‼」


 愛人と引き裂かれた文乃の旦那の怒りが爆発した。


 「さっき離婚しないって言っただろうが‼ アンタみたいな居直って反省しない人間は、とことん後悔すればいいのよ‼ 一回言っても分からない様な単細胞みたいだけど、しっかり覚えておきなさいよ。アンタの思い通りになんか、絶対にさせないわよ。

 若い女と戯れて甘い蜜を吸いまくってきた分、ギッタギタにいたぶってやるわよ。干からびそうになるくらい喉が渇いたところで、舌痺れるくらいの苦水1滴垂らしてやる程度だから覚悟しなさいよ。それが嫌ならそこら辺の泥水でも舐めてろ‼

 返り討ちに遭うという事がどういう事なのか、思い知るがいいわ。

 私はねぇ、人を舐めくさる馬鹿が勘違いババア以上に大嫌いなのよ‼」


 相手がどんなに怒っていようとお構いなしに、馬場添が更なる怒りを被せた。なんか、最後の一言におかしな私情も盛り込まれているし。


 「ロクな弁護士じゃないな。暴言と大口」


 馬場添の勢いに押されながらも、引こうとしない文乃の旦那。


 「アンタは人としてロクでもないけどね。不倫はするし、愛人には捨てられるし。今川さん、『嫌だ‼ 別れたくない‼』って一切言わなかったわね。それくらい、今川さんにとってアンタはロクでもなかったって事よ」


 俺が言われたら泣いちゃうだろうなという台詞を、これでもかと浴びせる馬場添。


 隣では『きっつい事言うなー、馬場添先輩』と、何故か倉田くんが目頭を押さえていた。どうした、倉田くん。


 「これ以上話しても無駄だ。私も失礼する」


 文乃の旦那が言い返す事をやめ、立ち去ろうとした。


 「オイ、逃げんのか、コラ」


 あれだけ喋って、まだ言い足りないのか、文乃の旦那を追いかけようとする馬場添。


 そんな馬場添を『どうどうどう』と言いながら、倉田くんが取り押さえた。


 倉田くんに押さえつけられながら『ふんふん』と鼻息を荒くする馬場添。猛獣。


 そんな馬場添越しに倉田くんが俺に『山岸さんを逃がして‼ 早く早く‼』と口パクで訴えかけてきた。


 倉田くんの様子から、これは切実にヤバイパターンなのだろうと判断し、

 

 「どうぞお帰り下さい。どうぞどうぞどうぞ‼」


 『さっさと全力で走って帰れよ』とばかりに、文乃の旦那をホテルから押し出し、避難させた。このままここにいたら、また馬場添が噛みつきかかってきてしまう。


 文乃の旦那の姿が見えなくなったところで、倉田くんが馬場添を解放した。


 「くーらーたー‼ 何してくれてんだ、貴様‼」


 馬場添の怒りは倉田くんへシフトチェンジ。


 「すみませんすみません。だって辛くて見てられなかったんですよー。それに怖かったんですって。馬場添先輩、ちょくちょく僕の名前呼ぶから、呼ばれる度にあの旦那さんに睨まれてたんですよ。帰り道で刺されるとか嫌ですもんー。ごめんなさいー」


 両手を合わせ、必死に謝る倉田くん。心優しい倉田くんは、敵であろうとも責め立てられている人間を見るのは辛いらしい。かわいいな、コイツ。


 「ごめんなさいじゃねぇわ、ど阿呆が‼ わざと倉田を巻き込んだに決まってるだろうが。二人から馬鹿にされた方がダメージでデカイからだろうが。刺す事さえ出来なくなるくらいに狼狽させておけばいいだろうが、あんなクソ男」


 キレ散らかす馬場添から、血も涙もない言葉が飛び出す。


 「クソ男って、ダメですよ馬場添先輩‼ その奥様がいらっしゃるのに」


 馬場添を制止しようとする倉田くんは、なんだかもう失礼な感じになっちゃってるし。


 「なんでそのクソ男と『離婚致しません』なんだよ」


 クソだと分かっていながら、どうして馬場添は文乃と旦那を別れさせないのか、俺には理解が出来なかった。


 俺の問いかけに、倉田くんと揉めていた馬場添が、呆れながら大きなため息を俺に向かって吐いた。


 「今離婚するのは得策じゃないからに決まてるでしょうが」


 馬場添は当たり前の様に答えるけれど、俺には何が得策なのか分からず、首を傾げた。


 「アンタ、見たでしょ? 『離婚する』って言われて泣きそうになったセレブの顔。全くの他人の私らからしたらさぁ、『何がそんなに悲しいの? アイツ、浮気しやがったじゃん』って思うけど、何故かセレブには未練があるわけよ」


 馬場添が右手の人差し指を立てながら説明を始めた。


 馬場添のぞんざいな言い方に、文乃の左眉がピクピクしているのが見えた。


「離婚しないのは、セレブに気持ちの整理をさせる為の時間稼ぎと、旦那を泳がせて墓穴掘らせる為よ。

 セレブと旦那の関係修復が不可能とは言わないけど、限りなく難しいと思う。旦那、一回も『ごめん』って言わなかったじゃない。私は、あの男はまた浮気をすると思う。二度目の浮気が発覚して、セレブも決心が出来たなら、その時セレブの納得する離婚条件を突きつければいい。二回も浮気がバレる様な奴なんか、弁護士雇ったところで、弁護士も弁護しきれないはずよ。今より更に旦那の形勢は不利になるから、条件を呑ませ易くなる。

 セレブは他人の倍男好きだし、性欲も強めだけど、離婚を成立させるまで我慢しなさいよ。セレブまで同じ事をしたら、全部が台無し。

 浮気なんて、理性が性欲に負けるしょうもない奴がするものよ。そのくせ『好きになってしまったものは、しょうがない』とか『どうしようもなかったの』とか、自分を悲劇の主人公に仕立て上げたりしやがるじゃない。

 なんだ、その言い訳って思わない? じゃあ、嫌いな奴を殺しても、嫌いだったから仕方ないで済むのかよって話でしょ。誰かを理不尽に傷つける行為に、仕方のない事なんか一つもない。よく他人の不幸の上にしか幸せはないとか言うけどさ、それと浮気は全くの別物よ。浮気はただの不誠実」


 馬場添は文乃の為に尽力してくれたのに、ちょいちょい文乃の悪口を挟むから、どうもいい話に聞こえない。


 「その、人をコケにした様な言い方、腹が立って仕方ないけど、最悪離婚って事になったら、雇ってあげるから馬場添が責任持って私の弁護をしなさいよ」


 だから文乃も素直に馬場添にお願いが出来ない。


 「雇って頂かなくて結構です。まぁ、そこら辺でひれ伏しながら『馬場添先生、どうか宜しくお願いします』って懇願するのなら、考えてあげなくもないけど?」


 容赦のない馬場添は、文乃のお願いを突っぱね、底意地の悪い条件を提示した。


 悔しさで顔を真っ赤にしながら、目に涙を滲ませる文乃。


 「…馬場添先生、どうか宜しくお願いします。…これで満足⁉」


 でも、馬場添なら必ず助けてくれると確信しただろう文乃は、ひれ伏しはしなかったけれど、しぶしぶ感を放出しながら頭を下げた。


 「そこまで言うなら仕方ないわね。その案件、しっかり受け賜りましたので、どうぞご安心下さい」


 半強制的に言わせたくせに、頭を下げる文乃の姿に満足したのか、馬場添は文乃の依頼を快諾すると、


 「私、明日大事な仕事があるから帰るわ」


 と、一人さっさと帰って行った。



 それから一週間後。


 文乃からLINEメッセージが届いた。今川さんが、自宅まで文乃に謝罪をしに来たとの事。


 そして中国への異動願いが受理されたと報告されたらしい。今川さんは、自ら中国行きを志願した。


 私も武器を手に入れて、ババアになったら馬場添さんの様にそれを振り回してみたい』と言っていたとか。今川さんに伝える術がないからどうにも出来ないけれど、それは本当にやめて欲しい。武器なんかなくてもいいじゃないか。戦わなくてもいいじゃん。平和に暮らせば良いではないか。


 慰謝料も文乃の旦那ではなく、毎月自分の給料から支払うと約束したという。


 今川さんは文乃を傷つけた人だけど、頑張って欲しいと思った。応援したいと思った。


 文乃の旦那と愛人に罰を下し、その愛人に目的を与えつつ文乃の前から消した馬場添。


 馬場添は、倉田くんの言っていた通り、優秀な弁護士なのかもしれないと思った。

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