第2話 過去――[明]
かつてこれほど緊張したことがあっただろうか。
過去に、アプリの出会い系サイトで知り合った女性と会ったことがあるが、その時の心境と似ているかもしれない。しかし今回は四人同時である。やはりあの日の比ではない。しかも『ラクエンノート』のときと人格が違うかもしれない、且つ顔すら知らないとくれば、康介の口の異常な乾燥も無理からぬというものだろう。
康介はミネラルウォーターで何度も口を湿らせながら、待ち合わせ場所の池袋駅東口『いけふくろう像』の前で待つ。折り紙で作った黄色い輪っかを手首に嵌めながら。それが五人で決めた待ち合わせの際の取り決めだった。
何かの宗教団体に思われそうだな。
失笑する康介――ペンネーム、エルリックはやがて四人と出会った。
◇
「いやぁ、でも全員が南関東に住んでいるなんて奇跡じゃないですか? まるで会えといわんばかりのご近所さん。しかもネナベもネカマも別人格もいなくて、おっさん一安心。だはは」
駅の近くにあるファミレスに入って一通り注文を終えたあと、今回のオフ会の主催者、れれれの
基本的に今日集まった五人は彼の『ラクエンノート』を中心に談話をしているのだが、それもこれも彼の『ラクエンノート』の更新が早く、且つその内容が興趣に満ちているからにほかならない。
「そうっスね。こういうオフ会ってそれが怖いんスよ。女性の口調のマドモワゼルさんが、平然と男でしたーなんて現れたらどうしようかと思ったんスけど、良かったです、女性で」
くだけた口調の
「こらこら、“若い”が抜けてるわよ。あたし、こう見えてまだ二十八だから。でも蒼騎士君から見たらおばさんか。くー、
自分でこう見えてというところからして、おそらくよく年上に間違われるのだろう。実際、マドモワゼルの風貌は三十代前半に見える。化粧にもファッションにも頓着していないからなのかもしれないが。
「え、そうですか。でもマドモワゼルさんも十分瑞々しいですよ。――そうですよね? エルリックさん」
康介に微笑みかける女性、花音。いきなり振られた康介は「うん、二十代前半に見える」と適当に述べると、喜ぶマドモワゼルを横目にしながら水を飲む。動揺を悟られないためだった。
眼前の花音を意識していることによって発露した心の揺らぎを。
花音はとても綺麗だった。
歳の頃は二十二、三。一見して
柔らかく洗練された文章、そして女性を主人公とした恋愛ファンタジーを書いていることから、康介の中では花音は女性とほぼ確定していたのだが、まさかこんなに魅力的だとは思わなかった。
これは一目惚れというやつなのだろうか。一目惚れなど惚れやすい性格の人間にしか起こりえない、安っぽい性衝動かと思っていたがどうやら違うらしい。康介は今日という日に感謝した。
「エルリッ君も予想以上にイケメンだよ。旦那に内緒で愛人にしちゃおっかな」
以外にも既婚者だったマドモワゼルが、とんでもないことを口にする。
そして皆は笑い――康介達五人はこうして打ち解けた。
ふと視線が交わる康介と花音。
花音が微笑む。それは康介だけに向けられたもの。
ものにしたい。
康介は本気でそう思った。
◇
その後、五人の談笑は四時間に渡って続いた。話の内容は当然というべきか、『モジノラクエン』に関することであり、まずはお互いの公開している小説についてだった。
全員がメインとしてファンタジー小説を書いているのだが、皆が皆の作品をレビューの如く褒めちぎり、正直な感想は出てこない。『ラクエンノート』の馴れ合いから発展したオフ会ゆえの弊害なのだろう、誰もが“嫌われたくない”という心理には正直になっているようだった。
本音を言えないもどかしさからくるストレスは、やがてルール無視の作者を批難することなどで発散されることとなるのだが、ここで大活躍したのがマドモワゼルであり、その
「いやー楽しかった。でも久しぶりですよ、こんなに他人と話をしたのは。施設警備員なんてやってると丸一日誰とも喋らないなんてザラだからね。今日だけで一年分喋ったかな。だはは」
「俺も似たようなもんスよ。ベルトコンベアの前に突っ立ってるだけっスから。ま、おかげで小説のことをずっと考えられるんっスけどね」
「御二方、羨ましい環境じゃん。こっちは生まれたての息子がギャーギャーうるさくて、最近は執筆どころじゃないからさ。あーあ、何で子供っていちいち泣くんだろうね」
「マドモワゼルさんって子供がいたんですね……。でも今日は本当に皆さんに会えてよかった。これからも花音と仲良くしてくださいね」
これが解散の合図となったのだろう、皆が最後の挨拶をして名残惜しそうに去っていく。まだ動いていないのは康介と花音。そしてこれは最大のチャンスとして康介の背中を後押しした。しかし逡巡して声を出せないのは最悪の結果を想定しているからだ。
このあと御茶に誘ってもし断られたら、そこでゲームオーバーだと。
大した繋がりでもないモジノラクエン仲間の縁など、あっけなく切れてしまうだろう。このままモニター上での薄い関係を続けるのか、或いは玉砕覚悟で次のステップへと進むのか。康介の鼓動が必要以上に胸を打つ。
しかし康介の抱き始めた覚悟は、想像し得ない形で霧散した。
「皆行っちゃいましたね。……あ、あの、エルリックさんはこのあとすぐに帰られますか。あ、その……エルリックさんにお時間があれば、もう少しお話したいなって思って……」
「えぇ?」
照れているのか、花音は顔を赤らめて視線を斜め下に向けている。しかしこんな展開になるとは思ってもみなかった。歓喜に声も上ずるというものだ。しかも花音の態度を見る限り、康介に対して好意を抱いているようにも見える。
ああ、神よ。
このとき康介は、信じてもいない神に心の底から感謝した。
◇
花音と二人のティータイムは、駅から少し離れた『カフェ・フラミンゴ』という店で行われた。花音と二人。しかもモダンで落ち着いた雰囲気がまるでデートをしているという錯覚を康介に与える。
「なんかデートしてるみたいですね」
どうやら花音も同じことを思っていたらしい。敢えて口にする心理を読み解くならば、“そうなってもいい”だろうか。都合のいい解釈かもしれないが、康介はもう後ろに引くという選択肢はなかった。
二人の間の話は『モジノラクエン』を離れての話題に終始した。好きな小説、映画、アニメ、マンガなどなど。特に映画に関しては、お互いファンタジー映画の傑作『ラビリンス魔王の迷宮』が好きということで大いに盛り上がった。それこそ時間を忘れるほどに――。
◇
時刻は二十一時を超えている。『カフェ・フラミンゴ』を退店したら当然、夜の
「池袋って私、初めてなんです。なんかとても賑やかな街ですよね」
「あれ? でも目黒に住んでなかったっけ。凄い近いじゃん」
花音は三歳年下の二十二歳ということで、すでにため口になっていた康介。ちなみに康介の住まいは埼玉の大宮市。池袋ならJR埼京線快速(川越行)で、乗り換え無しの一本で行ける距離にある。つまり花音はそれこそご近所さんだった。
「私、実は人込みが苦手なんです。大勢の人を見てると酔ってきちゃって。だからずっと避けてたんですけど……少しは慣れたかな」
「人酔いなら俺も昔あったよ。そんな俺からの酔わないためのアドバイスだけど、人を人として意識しないほうがいい。
「案山子が動いている、ですか。ふふ、想像したら笑っちゃいました。だって案山子ですよ。へのへのもへじの顔した一本足の案山子さんがピョンピョンって。ふふ」
「それは笑えるというよりかは怖いな。そうなったら蒼騎士君の書いてる小説の主人公、優斗のチート能力『
「いいですね、それ。あのチート能力は世界に終焉をもたらすくらいですから」
「はは、なんでもありだよな、ほんと。別に異世界テンプレは嫌いじゃないけど、もうちょっとどうにかしてほしいよな。蒼騎士君の場合は特にあのご都合主義的な展開をさ」
「そう――ですね……」
急に声のトーンが落ちる花音。どうしたのだろうと見ると花音は瞳を揺動させていた。まるで目の前の何かから避けるように。一体何があるのかと、康介は眼前を注視する。
『
特に目的もなく
行き着いたと言っても通り過ぎるのだから、そこまで平静さを失う必要もない。なのに、傍目にも動揺と分かる仕草をするということは過度に意識しているのだろう。
ならばその意識は、針がどちらに振れることによって発露しているのだろうか。
まさかな。
淡い期待とも言えない、お遊び感覚で康介は口を開く。決して本気とは思わせない軽い感じで。
「どぎついネオンかと思ったらラブホか。最近はプロジェクターとかもあるらしいし、良かったら映画でも見てく? なんてね」
俯いている花音は言葉を発しない。康介は焦る。今更なのだが、もし針が振れたほうが思っているのと逆なら、冗談では済まないかもしれないからだ。いや、普通に考えて逆に振れているだろう。いくら話が合うからといっても、付き合ってもいない今日あったばかりの男にいきなり体を許すとは到底思えない。
「……はい。エルリックさんが、いいなら……」
しかも花音は
「え? な、なんて言ったの今」
絶対に聞き違いだ。あり得ない。そう思いつつも、確かに聞いた花音の言葉が脳内で再生される。そしてそれが正しいことが、その花音自身によって証明された。
花音のやけに潤いを帯びた口が動く。
「エルリックさんさえよければ、私は構いません」
康介の理性の
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