第四章

 糸が切れたようにその場にくずおれる玻璃はり

 息せき切って飛び出した橙介とうすけは、今にも玻璃を喰らわんとする化け猫に軍刀を投げつける。

 化け猫が怯んだ隙をついて玻璃を抱き上げ、投擲とうてきの勢いを殺さぬままに後方へ下がった。

 未だぐったりと動かない玻璃を床に下ろそうとして、その体の軽さに面食らう。

 自分より小柄だから、というだけでは済まない。そもそも意識を失った人間というものはそれなりに重量がある。同性の、ましてや軍人を片腕で拾い上げられるのは明らかにおかしいだろう。

 まさか、と思うが、今確かめている時間はない。

 玻璃の周りに結界陣を展開し、化け猫へと向き直る。

「おのれ……咎憑とがつき風情ふぜい小癪こしゃくな真似を……」

「……そりゃこっちの台詞だ。畜生ちくしょう風情が、よくもうちの上司に手ぇ出してくれたな」

 顔面に軍刀が刺さったまま血走った眼でこちらを睨む化け猫から目を離さず、橙介は月光に照らされた自らの影を指先で撫でる。

「この落とし前は、きっちりつけてもらうぞ」

 指が触れた先から影が仄蒼い光を放ち、橙介の周りで渦を巻く。

おきかがみ かがみ つかのつるぎ いくたま まかるがえしのたま がえしのたま おろちの 高天原たかまがはらかむづまり織津おりつひめのみこと つみつみ とがとがを砕きたもよしきこせと畏み畏みも白す」

 橙介自身の声と重なるように男とも女ともつかない禍々しい声が祝詞を唱える。祝詞が紡がれていくごとに轟々と大気が吠え、橙介の影は急速に個をかたどっていく。

 それは巨狼のように、長大な角をもつにょのように揺らぎ、遂には地獄の窯のようにぱっくりとその口を化け猫へと向ける。

 これこそが咎憑、柊城 橙介が『影鬼』と呼ばれる所以ゆえん。代償は影、黒は白に、茶は金に。孕みし咎は歴史より排斥された非業の女神。

 黒を喰わせて影に住まわす、それこそは――。

咎……!?そんな、神が矮小な人間如きに手を貸す筈が……」

 先程までの怒りが一転、恐怖におののあと退ずさる化け猫。逃げ出そうとあしを踏み出すがもう遅い。

「喰い殺せ、かげはしひめっ!」

 怒気を孕んだ声が弾け、影が化け猫に飛び掛かる。

 断末魔を上げる間も無い。一瞬ののちに化け猫は影に呑まれ霧散した。


 ◆◆◆


 まだ夜も明けきらぬ早朝、血塗まみれの玻璃を背負ったまま、橙介は千宮邸の扉を荒々しく叩く。

 すぐに開いた扉の先に立っていた相馬そうまは意識の無い玻璃の様子を見て蒼褪あおざめ、橙介に玻璃の私室の場所を伝えると馴染みの医者へ連絡すると言って慌てて邸の中へと戻る。

 落ち着いた色の遮光幕カーテンに机と少しの収納調度。殺風景な部屋の寝台に玻璃を寝かせ、橙介はずるずるとその場に座り込んだ。

 微かに聞こえる寝息に心底安堵する。玻璃はまだ生きている。生きているのだ。その事実が今の橙介にとって唯一の心の支えだった。

 数分後、慌ただしく部屋に飛び込んできた医者らしき女に面会謝絶だと怒鳴りつけられ廊下に蹴り出されたが、動く気力も無くそのまま廊下の端で胡坐あぐらをかく。

 玻璃は無事だろうか。あの綺麗な顔に傷は残ってしまわないだろうか。それよりも、自身の立てた予測が正しいならば玻璃は……。

 橙介の頭の中をぐるぐると思考が回り、まとまらないままに立ち消えていく。その纏まらない思考のまま、深い溜息を吐いて目を閉じる。

 相当疲れていたのだろうか、数秒も経たない内に橙介はふつりと眠りに落ちた。

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