第三章
と、まあ単に初仕事というだけなのだが。
「時に中佐、霊的事件に関わった事は?」
千代紙に記された通り、司令本部――千宮邸へと向かった
声の主はこちらに目を向ける事も無く、執務机に軽く腰掛け書類に目を通している。
「……咎が憑いた時、後、士官学校に入る前に二回程、親父に引っ張り出された事なら」
行儀が悪いから机に座るなだの、人と話す時は目を合わせろだの言いたい事は山ほどあったが、それを全部飲み下して問いに答えると、
「万が一霊的事件に関わった事が無いのなら、別の仕事にしてやろうかとも思ったのだがな」
書類をざっと斜め読みした橙介はその内容に露骨に嫌そうな顔をする。
「出発は半刻後。少々手強い相手だ、準備は万全にしておけよ」
こんなことなら関わった事はないと
橙介は大きな溜息を吐き、窓から入ってきた西日によって床に伸びる自分の影をちらりと
◆◆◆
――
しかしながら、それをただの
「百年も語り継がれれば、其れは具現し真実となる。ただの化け猫ならば鍋島の再来程度で流せたのだがな」
横浜は
日も暮れ、花街が活気付いて来る頃。
何も春を買おうという訳ではなく、暇を潰すように壁にもたれ、先程のような与太話をしているだけなのだが。
「化け猫如き、ただの軍人でも斬れるだろうがよ。
なんでわざわざ
客待ちの男娼か何かと勘違いしているのか、ちらちらと二人を値踏みするように見る通行人達を不機嫌そうにねめつけながら、橙介は隣へ立つ玻璃へ問う。
性的なそれを孕んだ不躾な視線に、軍装な時点で気付かないものかと舌を打つが、実際致し方あるまい。
片や白銀の髪を持った長身の
この組み合わせが廓に立っていて、まさか
「ただの化け猫だったら良かったのだが」
玻璃はそう呟き、懐から取り出した懐中時計を見ると、「そろそろ時間だ」 と壁から背を離す。
「どういう事だよ……っと」
「じきにわかる、じきにな」
橙介も大きく背を伸ばし、その呟きの真意を問うが、さらりとはぐらかされる。
そのままどこかへ向かおうとする背を追い、一等気色の悪い視線を玻璃へと向ける中年男の
表通りの喧騒から遠ざかり裏路地を何本か抜けると、古びた
今は寂れて見る影もないが、建物の外観から昔は賑わった貸座敷であっただろうことが推測できる。
「なんだ、ここ」
長らく放置された廃屋には、
「『
昔は中々人気があったらしいが、今では見ての通りだな」
「
五年前、港崎遊郭の女郎が突如失踪する事件が相次いだ。
何れも
駆け落ちとも思えないこの不可解な事件には軍まで出動していて、当時橙介が所属していた憲兵隊も、どこか慌ただしい雰囲気だったのをなんとなく覚えている。
玻璃は流石に知っていたか、と頷いて廃屋へと歩を進める。
「失踪した女郎は、実に九割がこの鸞葉楼の者だったらしく、経営が立ち行かなくなって廃業、とのことだ。
お前も指令書を見て知っていると思うが、現在港崎遊郭では五年前と同じ失踪事件が数件起きている」
扉は既に朽ちてしまったらしく、入り口を遮るものは何もない。
腐ってぎしぎしと音を立てる床板を土足で踏みつけながら、二人は奥へと進んでいく。
「それだけならば憲兵にでも任せておけばよかったのだが……少し気になる噂を聞いてな」
「噂?」
奥へ奥へと進む毎に、腐った肉と獣の体臭を混ぜ合わせたような生臭い匂いが強くなり、同時に艶やかな琴の音色が流れてくる。
「ああ、なんでも『かつて鸞葉楼にいた女の霊が、琴の音で
「……成程ね」
言って橙介は腰の軍刀を荒っぽく抜く。
その様子を一瞥して、玻璃も腰に
廊下は行き止まり。二人の目の前には
「襖が劣化していないのは霊気の強烈さ故。
幽霊は人を喰わないが、化けた猫は人を喰うからな。
大方、五年前に人の味を覚えて、腹が減ったからもう一度、というところだろう」
「だから
「その通り。私は後ろから援護をする。『影鬼』の
そう言って玻璃は腰を低く落とし、居合の要領で襖を寸断する。
ひぅん、という風切り音と同時に、襖だったものは幾つもの破片となり床に落ちる。
途端、むせ返るような血の匂いと共に、巨大な影が玻璃へと飛び掛かった。
それを見越していた玻璃は一足飛びで後方へと下がり、代わりに躍り出た橙介が、影の振り下ろした爪を軍刀で弾き返す。
一瞬揺らいだ態勢を空中で整え、影はたん、と座敷の床へ降り立つ。
破れた障子から月光が差し込み、その姿が露わになった。
猫というよりも虎のような巨躯に、女郎の人面。血で固まった毛並みを逆立てながら、女の顔はにたにたと笑う。
「ああ、馬鹿な人間が二人も。噂を聞いてわざわざ喰われに来たのかえ?」
見れば、化け猫の足元では人骨や腐りかけた臓物があちこちに散らばっている。
「畜生風情が言うじゃねえか。首出しな。手っ取り早く処分してやるよ」
橙介は軍刀を構え、わざと化け猫を挑発する。
普段ならば怪異相手に挑発など死んでもしないが、今は違う。
後ろで控えるのは天下の
「……そんなに死にたいのならば、まずはお前から喰ってやろうかねえ!」
読み通り、結局は畜生並みの理性だ。
不敵な笑みを浮かべながら、橙介は迫る爪を避けて横へと跳ぶ。
――――瞬間。
「
凛とした声で紡がれる
霊符は空中で幾つもの光の筋に分かれ、化け猫の動きを止めるように床に突き刺さった。
「……これが噂に聞く『
自らに向けられたものではないとわかっていても背筋がぞくりとする程の強力な言霊に、橙介は感嘆の息を漏らす。
神道の祝詞を媒介として日本古来の神々を『使役』する千桜神呪。
並の術者ならば霊符に触れるだけで霧散するような高等術を難無く使えるとは、成程麒麟児と呼ばれるだけはある。
「……ただの術者だと思っていたら、まさかの
にたにたと笑いながら
「何人喰ったかは私の
これで仕舞いかと安堵すると同時に、何かがおかしい、と
余りにもあっけないのだ、簡単な
幾ら人喰いとはいえ、この程度の
玻璃もそれを感じているのか、完全に王手をかけた状態であるにもかかわらず未だ緊迫した気を纏っている。
「――おい、下だッ!」
急いでそう叫ぶも、一瞬遅い。
「お前を喰えば、さぞ大きな力が得られるんだろうねぇ!」
化け猫の
宵闇に鮮やかな真紅の華が咲いた。
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