第8話 振り回されています。

――好きだ。


 先生の声が頭の中で何度もリピートする。

 普段の先生よりも、柔らかくて優しい声だった。


 ただの寝言なのに頭から離れない。

 おかげであまり眠れなかった。

 あんな風に優しい声で好きだって純ちゃんにも言ってもらった事はない。なんか、ちょっぴり寂しい。


 ひなこさんって望月先生の恋人なのかな? いいな。あんな風に先生に好きだって言ってもらえて。


――好きだ。


 甘い声だったな。


「ガリ子、聞いてるのか?」

 キッチンのシンクをクレンザーで磨いていると、先生の苛立ったような声がした。


「昼飯だと言っているだろうが。突っ立ってないでさっさと用意しろ」

 ダイニングルームの方を見ると、水色の襟のあるシャツにジーパン姿の先生が新聞を脇に抱えて、こっちを睨んでいた。


 なんか不機嫌そう。もしかして寝起き?

 先生、寝起きは不機嫌なんだよね。そういう所、子どもみたいで面白いけどさ。


 もう12時か。先生、メモ通りお昼だから起きたんだ。


「今、用意します」


 ちらっとキッチンからダイニングの先生を覗くと、椅子に座った先生は新聞を広げていた。新聞を読んでいる鼻筋の通った横顔が今日も麗しい。


 先生って性格は悪いけど顔だけはいいんだよね。

 毎日イケメンと一緒って目の保養にはなるな。先生の年は40歳だから美中年というのかな。

 

 そう言えば先生、顔出ししてないのはなんでだろう?

 絶対に女性ファンが増えると思うんだけどな。


「何だ? 俺の顔に見惚れてるのか?」

 新聞の方に視線向けたまま先生が言った。

 やばっ。こっそり見てた事、気づかれた。


「見惚れてなんていませんから! お昼、何かリクエストありますか?」

 キッチンから言い返した。

 なんか恥ずかしくて、ちょっと怒ったような言い方になってしまった。


「何でもいいよ。ガリ子の料理、美味いから」

 サラッと口にした先生の言葉がキュンっと胸に響く。

 美味いって言葉が嬉しい。


 口は悪いけど、いい所もあるんだよね。


「そうですか。じゃあ、オムライスと玉ねぎのコンソメスープはどうです?」

「うん。それでいい」

 先生が新聞から視線をこっちに向けた。

 思いがけず目が合って、心臓が飛び跳ねた。


 ガッシャ―ン!


 持っていたお皿が落ちて、床にお皿が砕け散った。


 やっちゃった。高そうなお皿なのに。先生に叱られる。


「す、すみません。本当にすみません」

 あたふたと、しゃがんで破片を拾い集めていると、チクッ。

 痛っ。右手人さし指に破片が刺さった。血がどんどん出てくる。


 血を見るのは苦手。

 気が遠くなる。


 止血しなきゃ。でも、お皿も片付けなきゃ。

 先生のお昼も……。


 一度にいろんな事をしようとして、頭の中がパニック。


「ガリ子、大丈夫か」

 おろおろしていると、先生に右手を掴まれた。


「指切ってるじゃないか。こっちこい」


 先生が右手を掴んだまま、シンクの所に私を連れて行き、真っ赤になっている人差し指を洗ってくれた。それから、キッチンの引き出しから輪ゴムを取り出すと第一関節の辺りに巻いた。おかげでどくどくと流れていた血が止まった。


「救急箱はえーと、ダイニングの引き出しにあったな」

「先生、ごめんなさい。お皿割っちゃった」

「バカ。皿よりピアニストの指の方が大事だ」

 え、ピアニスト……。

 先生、そんな風に私を見てくれているの?

「私、そんな大そうな者じゃありませんから」

「いいから、こっち来い」

 先生に支えられて、ダイニングに行った。距離が近い。ふと夜中に抱きしめられた事がよぎる。あ、こら、心臓。ドキドキするな。こんなの何でもないんだから。先生からいい匂いがするとか思っちゃダメ。


「どうかしたか?」

 先生の大きな目が不思議そうにこっちを向いた。


「な、何でもないです」

 ドキドキしているなんて絶対に知られたくない。いや、これはドキドキしているんじゃなくて、ただ緊張しているだけ。そう自分に言い聞かせて緩く息をついた。


「そうか。ここに座れ」

 ダイニングテーブルの椅子を引いて、先生が座らせてくれた。

 それから先生はサイドボードの扉から救急箱を取り出した。


「ちょっとしみるぞ」

 コットンに消毒液を付けて傷口にポンポンと優しく塗ってくれる。少しだけヒリヒリと滲みる。


「これでおしまい」

 先生が丁寧な動作で私の右人差し指に絆創膏を貼った。

 まさか先生に手当てをされるとは。


「なんだ?」

 じっと先生を見ていると大きな黒い目と合う。

 ちょっとだけ脈が速くなる。先生に見つめられるのは何だか苦手だ。


「あ、いえ。先生が傷の手当てをしてくれたのが意外で」

「人として当たり前だろう。目の前で怪我人が出たんだから」

「人として当たり前ですか……」

 純ちゃんは一緒にいる時に指を切ると、血を見るのは苦手だと言って逃げ出していたっけな。


「そんなに不安そうな顔をするな。深い傷じゃないから、傷跡は残らないぞ」

 先生は微笑むと、励ますように私の頭を二度撫でた。なんか子ども扱いされているみたいで、居心地悪い。


 でも、先生は純ちゃんより優しいかも。


 ……って、なんで純ちゃんと比べてるんだろう。純ちゃんだって優しいもん。血を見るのがちょっと苦手なだけで。


「痛いか?」

 小さく息をつくと、先生が心配そうに眉を寄せた。


「大丈夫です」

「そうか」

 さらに微笑んだ先生の顔が優しく見えて困る。

 優しくしないで欲しい。純ちゃんと比べてしまうから。


 逃げるように先生に背を向けてキッチンに行き、砕けたお皿を片付けた。先生はやらないでいいと言ったけど、片付けた。強情な奴だと笑われたのがちょっと恥ずかしかった。


 その後は先生の書斎を掃除した。そして優しいと思った事を後悔した。先生の部屋には小さな冷蔵庫があって、そこの掃除も頼まれた。開けてみると、この一週間、私がお使いで買って来た深夜のスイーツが並んでいた。その中には賞味期限が切れているものも何個かあった。


 食べずにしまってあるってどういう事?

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