第3話 憧れの先生1

 出版社を出た後は黒田さんとタクシーで横浜に向かった。隣の席の黒田さんはちょっと失礼しますと言ってから、どこかに電話し始める。


 車窓から外を眺めると、夕方と夜の境目のような空が広がっていた。いつもだったら夕飯を作る時間帯だ。でも、一人分の夕飯なら、作らなくてもいいんだ。純ちゃんがいないから。


 純ちゃん、どんなに遅くなっても私のご飯は食べてくれたな。

 上海でちゃんとご飯食べているかな。もう日本を発ってから三日経つのに電話くれないな。忙しいのかな。


「お待たせしました」

 黒田さんの声に現実に引き戻された。


「それで話の続きなんですが」

 スマホをしまいながら、黒田さんが私を見た。


「は、はい」


 純ちゃんの事から望月先生に意識を戻した。今から望月先生の所に連れて行ってもらうのだ。しっかりしないと。


「基本的には先生の食事を作ったり、掃除をしたり、洗濯をしたりと、先生が執筆しやすいように家事をしてもらう事になります。実は先生の家でずっと働いてくれてた家政婦さんが腰を痛めて今入院してまして。新しい家政婦を探してる所ですが、中々先生と相性の合う方がいなくて」


 先生はもしかしたら少し気難しい人なのかな。芸術家だもんね。多少はそういう所あるよね。ちょっとぐらい厳しくたって全然許容範囲。会えるだけで光栄なんだもん。

「葉月さんには家政婦さんみたいな事をさせてしまいますが、その分、お給料も払うので」

「大丈夫ですよ。私、家事好きなんです。専業主婦は天職だって思ってるんです」

「そう言っていただけるとこちらも助かります。とりあえずお給料はこのぐらいで」

 黒田さんが五本の指を広げる。

「五万円?」

「いえ、月給五十万円です」

「五十万円ですか」


 口にしてみてその響きに心臓が爆発しそうになった。ご、ご、50万! 月給って事は3ヶ月で150万円! 純ちゃんのお給料よりも多い額に卒倒しそうになる。


「少なかったですか?」

 私の反応が薄かったのか黒田さんが心配そうな顔をした。


「い、いえ、そんな、勿体ない。望月先生の側にいられるだけで幸せなのに、そんなに頂いていいんですか?」

 はははと黒田さんが笑う。


「住み込みで働いてもらうんですから、これぐらい当然ですよ。三ヶ月望月先生の側にいて頂きます」


 ああ、三ヶ月もあの望月かおる先生と一緒にいられるなんて。お給料がなくてもいいぐらいなのに月に五十万円も頂けるなんて。幸せ過ぎて夢なんじゃないかって思う。


「私、とっても幸せです」

 思わず本音が出た。

 黒田さんの眼鏡の奥の瞳が少しだけ不安そうに見えた気がした。

 それから一時間弱で先生の住む横浜の山手に着いた。山手は江戸時代末期には外国人が住む事を許された土地で、今でも洋風の館が多く残っている高級住宅街である事を黒田さんが説明してくれた。坂の上の望月先生の家もまさに洋館だった。


 立派な鉄製の門扉の先にあるお庭は広く、公園のよう。綺麗に切りそろえられた木々もよく手入れされているのがわかる。そして、木々に囲まれるようにして、イギリス風の白い洋館が建っていた。


 素敵過ぎてため息が出ちゃう。

 なんかおとぎ話の中に入ったみたい。


 洋館って物凄く望月先生のイメージに合っている。

 きっと気品のある女性なんだろうな。


「どうされました?」

 玄関前で佇む私を黒田さんが不思議そうに見た。


「こういう豪邸、テレビでしか見た事なかったから」


「初めて来る人は驚きますよね。元々は望月先生のおじいさんが建てた家らしいですよ」


「じゃあ、先生は子供の頃からこの家に出入りしてたんですか?」


「十歳の時から住んでるって聞きました。先生は祖父母に育てられたって言ってました」


 それって先生のご両親が不在だったって事? どうしてなんだろう? 質問したいけど、ズケズケと先生のプライバシーを聞くのは失礼だよね。


「さあ、どうぞこちらです」


 ステンドガラスがハメられた両開きの玄関ドアを黒田さんが開けてくれた。

 ホールの正面には階段があって、ホールの周りには焦げ茶色のドアが四つもある。


 ドアの奥もやっぱりお城みたいな感じなのかな。想像するだけでわくわくする。


「こっちですよ」


 黒田さんが正面の階段の方を指した。


「はい」


 黒田さんに続いて階段を上った。三人横並びで歩いても余裕がありそうなぐらい広い。赤絨毯が敷かれていたらお姫様が歩いていそう。


 うわっ、階段の途中に大きな窓がある。お庭に咲いているライトアップされた薔薇が見える。素敵だな。本当、お姫様の生活って感じがする。


 望月先生って、やっぱりお姫様みたいな人なのかな?

 2階に行くと、長い廊下があった。

 そして廊下にはドアがいくつもあってホテルみたい。


 部屋数は一体どれくらいあるんだろう。


「葉月さん、こっちです。突き当りが先生の部屋です」

 黒田さんについていきながら、胸が張り裂けそうなぐらい高鳴っている。


 この家に望月先生がいるんだ。

 もう少しで会えるんだ。


 そう思った途端に嬉しくて泣きたいような気持ちでいっぱいになる。こんなにドキドキしたのはいつぶりだろう。


 純ちゃんと教会で挙げた結婚式を思い出した。

 純白のウェディングドレスに身を包んで、父と歩いたバージーンロードは心臓が壊れそうな程ドキドキでいっぱいだった。


 今もあの時と同じぐらいドキドキしている。


「先生、アシスタントの方をお連れしました」

 黒田さんが部屋のドアを開けた。


 黒田さんに続いて中に入ると本棚だらけの部屋に驚いた。全ての壁面に床から天井までの高さの本棚が並び、その中にはぎっしりと本が詰まっている。やっぱり作家さんは沢山、本を読むんだな。


 広い部屋の中央にはソファとテーブル。窓際には立派な机と椅子があった。

 ここで数々の名作が生まれたのかと思うと感動で胸が震える。


「望月先生?」

 返事のない事に不審に思った黒田さんが、先生の机に近づく。私の位置からは椅子の大きな背もたれしか見えない。


「あっ、いない」

 黒田さんが椅子を覗き込み困ったように頭をかいた。

 

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