第2話 面接
午後4時55分。
神田神保町の集学館の二十階建てのビルの前で足を止め、立派なガラス張りのビルを見上げた。
結婚前に何度か望月かおる先生に会えるかもしれないと、出版社前をうろうろした事があったけど、あの時はさすがに入る勇気がなくて、自動ドアを越える事はできなかった。でも、今回は面接という正当な理由がある。
背筋を正し、ショルダーバッグをかけ直してから自動ドアの前に立った。
よし。いざ勝負。
パンプスを履いた右足を一歩踏み出すと自動ドアが勢いよく開く。それは私の運命を変えるドアのよう。先に進むのが怖い。でも、臆病な自分を少しでも変えたい。どうか幸せな運命が待っていてくれますように。そう願いながら思い切ってビルの中に入った。
案内された応接室は高級感ある焦げ茶色の家具で統一されていて威圧感が半端ない。革張りのソファに身を沈めながら緊張でお腹が痛くなってくる。今なら逃げてもいいかな、なんて、また弱気になる。
作品のほとんどが映画化ドラマ化され、本を読まない人でも名前だけは知られている超有名作家の望月かるお先生のアシスタントに応募してしまうなんて、本当に思い切った事をしてしまった。
勢いでここまで来たけど、ただの主婦の私に望月先生のアシスタントなんて勤まるんだろうか。なんか、とんでもない事をしちゃったかも。
とりあえず気を落ち着ける為、出されたコーヒーに口をつけた。普段口にするものよりも苦い。うげっと思わず眉を潜めた。そのタイミングでドアが開いた。
「お待たせしました」
バタバタと忙しそうに小太りの男性が入って来た。
「いやーどうも、どうも、お待たせしてすみません」
男性の弾んだ声が響いた。灰色のスーツとメタルフレームの眼鏡が真面目そうな感じ。年齢は私より明らかに上だ。多分40代ぐらい。
私はソファから立ち上がり、男性にお辞儀をした。男性は舐めるような視線でじーっとこっちを見てくる。初対面の人にいきなり無遠慮に見られ居心地が悪い。もしかして、私の顔に何かついてる?
「あの、私の顔、何かついてます?」
「あ、いえ。失礼しました。私、望月かおるの担当をしております。黒田です」
差し出された名刺を受け取ると【小説
小説海晴は望月かおる先生の小説が以前、連載されていた。小説は終わってしまったけど、今は望月先生のエッセイが読めるから愛読している。
黒田さんって、海晴を作っている人なんだ。うわぁ。こうして面と向かって会えるなんて嬉しい。頂いた名刺が宝物のように見えてくる。
「どうぞお座り下さい」
立ったままの私に黒田さんがソファをすすめてくれる。私は一礼してから黒田さんの正面にさっきより浅く腰かけた。
「では、履歴書の方いいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
履歴書の入った白い封筒を黒田さんに渡した。
「拝見します」と丁寧な仕草で黒田さんは受け取り、真剣な目で履歴書を見ていく。
「えーと、
「はい。結婚して5年になります」
「アシスタントの条件は住み込みになるのですが大丈夫でしょうか?」
「主人が10月まで上海に出張中でして。丁度アシスタントとして働く三ヶ月間はいないんです」
純ちゃんが上海に行っている間、何かしていたかったのも応募の動機だった。
結婚を期に仕事は辞めていた。
「そうですかー。大変ですね。あ、お子さんは?」
「いません」
胸がズキッと痛む。乗り越えなきゃいけない事だとわかっているけど、子供の事を聞かれるのはまだ辛い。はぁーと嫌な気持ちを吐き出すようにため息をつくと、黒田さんに「どうかされましたか?」と聞かれた。
「ちょっと緊張して。面接なんて久しぶりだから」
「そうですよねー。緊張しますよねー。私も緊張します」
黒田さんが場の空気を和ませるような笑顔を浮かべる。その笑顔につられて私も笑った。この人、いい人だ。直観的にそう思えた。
「えーと、質問に戻ります」
黒田さんに家事能力とピアノの事を聞かれ、料理も掃除も一応主婦として五年間やって来た事と、音大を出た後は大手楽器店直営のピアノ教室で講師をしていた事を話した。
「じゃあ、合格です」
黒田さんの言葉にびっくり。
えっ、こんなに簡単に決まるの?
「い、いいんですか?身長と体重だって一年前の健康診断で測定したきりなんですが」
身長は変わってなくても、体重は2キロ、いや、3キロぐらい増えているかも。ここ2、3日純ちゃんがいない事を忘れて、ついご飯を作りて過ぎて、2人分食べちゃってたんだよね。今日から夕飯は少なめにしないと。
目が合うと、盛大に黒田さんが笑い出した。
私、何か変なこと言った?
「あなたは正直な人ですねー。大丈夫ですよ。見た目に問題ありませんから。私はこれでも百人以上の方と面接して来たんですよ」
「ひゃ、百人も?そんなに応募があったんですか?」
「ええ。先生は売れっ子の作家ですから、それなりに反響はあったんですけど、でも、残念ながら見た目と年齢でほとんどの方がアウトでした。あと、ピアノですね」
「ピアノ?」
「最後に望月先生の前で弾いてもらうんですけど、皆さん子供の時に習った程度なので望月先生が求めてるレベルじゃなくて」
「え! 望月先生の前で弾くんですか!」
急に緊張してきた。家にピアノはあるけど仕事を辞めてから大してピアノを弾いていない。どうしよう。先生を満足させるレベルの演奏ができるだろうか。手の平がじっとりと汗で濡れて来た。
「大丈夫ですよ。葉月さんは音大出てるじゃないですかー」
「いやーでも、何も準備はしてこなかったので」
「心配しないで下さい。私は何があってもあなたで押します。だいたい望月先生は厳しいんですよ。音大まで出ていてピアノ講師をしてた方なんですから、もう、文句は言わせません!」
黒田さんが意を決したように私を見る。
「とりあえず、契約書にサインして下さい」
背広の内ポケットから折りたたまれていた書類とペンを黒田さんが取り出して、私の前に置いた。
「まだ望月先生の前でピアノ弾いてないのにいいんですか?」
「大丈夫です」と黒田さんは言い切った。
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