5
ごおっ!
強い風が勝の足もとをすくうように吹き付ける。風は高倉邸の複雑な形状で思いがけない方向にそれ、ときには真正面から、ときには背後から吹き付ける。
やっかいなのは降り出した雨だ。
慎重に、じりっ、じりっと勝は前へ進んでいった。気がつくと橋の表面が雨で濡れ始めている。気をつけていないと滑りそうだ。
そら滑った!
あやうく立ち直り、勝は目を閉じ立ち止まった。心臓が爆発しそうだ。
ケン太の笑い声が響いた。
「ははははは! そうか、きみは高所恐怖症なんだ! 知らなかったよ。悪かったな、そんなところを渡らせて」
てやんでえ……。
勝は不敵に胸のうちで思った。
こんなところ、高所恐怖症でなくとも渡るのは怖ろしい。出来るだけ足元を見まいと思うのだが、それでもつい下に視線がいく。
怒りだけが勝の推進力であるようだ。
歯を食い縛り、がくがくする膝をこらえながら、勝は一歩、一歩前へと進んでいく。
ようやく半分まで進んだとき、ケン太がふいに動き出した。
「まったく、待ちくたびれたよ! きみがさっさと来ないなら、こっちから行くぞ!」
大股で歩き出し、橋を渡りだした。
凍りつく勝の目の前に、ケン太は恐れもせず近づき、立ち止まった。
「な、な、なにを……?」
勝の叫びは悲鳴ににていた。
「ここで一丁、勝負するってのは、どうだい? 面白いんじゃないのかい」
ケン太はにやにや笑いを浮かべていた。それはひどく嗜虐的で、頭ひとつ背が高い勝を完全になめきっている。
「う、う、う、う……!」
勝は完全に動顛していた。
こんなところで?
勝負?
「どうした、怖いのか」
「怖い? おれが──」
勝の怒りに火がついた。無意識に拳がかためられ、ケン太に殴りかかる。
ひょい、とケン太はそれをよけ、沈み込むとどすんと勝の胸に頭突きをくらわす。
わっ、と勝はおおきく両腕をふりまわした。
とっ、とっ、とっと小刻みにあとじさる。つい視線が足もとにいってしまった。
数十メートルもの高みにある自分が痛いほど意識された。すとんと内臓が落ち込むような恐怖が喉元にせりあがる。
ひいーっと、声にならない悲鳴がこみあげた。
ついに座り込んだ。両手が必死に板の端をつかむ。
もう動けなかった。がくがくと両腕が勝手に震え、青ざめた顔で立ちはだかるケン太を見上げていた。
「やれやれ……まったくがっかりだ。こんなところまでやってくるから、もうすこし歯ごたえがあるものと思っていたが、ぼくの買いかぶりだったな!」
ケン太はちっ、ちっと指先を左右にふった。
くるりと背を向けた。背中の〝男〟の刺繍がきらめいた。
「ま、待て……っ!」
勝は必死に声をふりしぼった。
ケン太は立ち止まり、首だけねじむける。
「どうした? まだやるのか」
くそう……と勝は足掻くが、足はまるで自分のもののようではなく、へろへろとまるで力がはいらない。それでも四つん這いになって、橋をわたっていく。
ほう──と、ケン太は感心したようなため息をついた。
「その意気は買ってやる。しかしこれまでだな」
はっ、と声をかけると足先を旋回させた。
がつん、とケン太の爪先が勝の顎をとらえる。げっ、と勝は痛みに気が遠くなった。
とんとんと踊るような足取りで、ケン太は四つん這いの勝を足先で攻撃していた。容赦なく、残酷に。
ぶん、とうなりをあげ、ケン太の回し蹴りが勝の首根っこをとらえた。この痛打に、勝はがくりと腕からちからがぬけ、指先が離れてしまう。
わっ、と勝は橋にしがみついた。足がぶらぶらと揺れている! ケン太の攻撃で、かれは橋から身体を半分、落としてしまっていた。しゃにむに掴む、片方の指先だけが命の綱となっている。
必死に足先が足がかりをさがすが、むろんそんなものはない。
「やめてーっ!」
茜の叫び声が勝の頭のうえを通過した。彼女のスカートの端っこが勝の視界を一瞬、かすめた。
うおっ、とケン太のくぐもった声がする。
なんだ、と勝はようやく顔だけあげた。
ケン太がよろよろと胸をおさえていた。痛みに、眉間に皺がよっていた。
「貴様……」
ものすごい形相である。
「茜!」
勝は叫んだ。
なんと、茜が橋の上に立っていた。板一本の橋を彼女は駆け抜け、勝の身体を飛び越えてケン太の胸めがけ、とび蹴りをくらわしたのだった。蹴られたケン太は、切妻屋根の屋上へ位置を変えている。
ようやくのことで勝は橋に這い上がった。茜はケン太に向かって、さらに攻撃を加えようと橋を渡りきっていた。
がくがくする手足で、必死になって向こう側の屋上へたどりつく。その時、ケン太は怒りのあまり茜に襲いかかっていた。両腕を伸ばし、彼女の細い首にまきつけている。茜は顔を真っ赤にさせ、必死になって振りほどこうとするが、ケン太の腕は万力のように彼女の首を締め上げていた。
うおおっ、と雄たけびを上げて勝はケン太に体当たりを食らわした。
わっ、とケン太はたたらを踏み、茜の首から腕を離していた。茜はけほけほと咳き込み、しきりと首筋をなでている。
「茜、おめえ……」
勝は絶句した。
じぶんが半死半生の思いで、やっとのことで渡りきったあの橋を、彼女は軽々と駆け抜けたのである。兄貴の面目丸つぶれ!
咳き込みながらも、茜は兄の言葉の意味を悟って弱々しくほほ笑んだ。
と、その目が見開かれた。
「お兄ちゃん、うしろ!」
はっ、と勝がふり返る。
ケン太が肩から勝に体当たりをしてきた。
どすん、とケン太の肩が勝の胸板を突き上げ、かれの両足が一瞬、屋上の床から持ち上がる。背中から勝は倒れこんだ。
「てめえら! 殺してやる!」
ケン太は荒々しく叫んだ。いままでの冷ややかな態度は豹変していた。いや、いまのかれが本来なのかもしれなかった。顔は真っ赤に染まり、ひくひくと唇がめくれあがった。
「だれを殺すというの?」
ふいの女の声に、ケン太はぎくりと身をこわばらせた。
勝、茜もその声の方向に顔をねじむけた。
美和子が立っていた。
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