勇作

 どたん、とおおきな音を響かせ美和子は道場の板敷きに倒れこんだ。

 師範が叫ぶ。

「いかがなされた? いまのお嬢さまには迷いがございますぞ! そのような迷いがあっては、技を出すどころかまともに仕合すらできませんな」

 言われて美和子はうつむいた。

 呼吸がはやく、せわしなく肩が上下している。師範は首をふってしかたがない、というように眉をしかめた。

「よろしい……今日はここまでにいたしましょう。いまのお嬢さまのこころの状態では、おもわぬ怪我をしそうですな」

 ばた、と美和子は道場に膝をつき両手を板敷きについて頭を下げて謝った。

「申し訳ございません!」

 師範の言うとおり、美和子の動きにはいつもの切れがない。

 ケン太の登場がそうさせたのか?

 太郎は道場のかたすみで美和子の稽古を見守っていた。

 師範が道場を立ち去ると、美和子は手ぬぐいで汗をぬぐい、立ち上がった。出口へと向かう彼女に、太郎がつき従う。

 

 袴をさばきながら美和子は屋敷へとはいり、自分の部屋へと戻っていく。太郎も一緒である。

 このところ、太郎は美和子が屋敷にいるときはほとんど付き従っている。まるで美和子の影のようだ。

 彼女の部屋にはシャワー・ルームが完備されている。

 美和子はすぐに中へ飛び込むと身につけた稽古着を脱ぎ捨て、シャワーの音を響かせ始めた。太郎はドアの外で待っている。手にはすでに彼女の着替えを用意していた。

 やがてシャワーの音がとまり、ドアの隙間から美和子のほそい腕が伸びてきた。太郎はその手に着替えを渡す。

 着替えが終わって、美和子は出てきた。

 今日の彼女は薄いレモン・イエローのブラウスにぴっちりとしたパンツといういでたちだ。髪の毛は後頭部でまとめてポニー・テールにしている。

 美和子はすとん、といった感じで寝具に腰をおろし手に顎をのせた。あまり機嫌がよくないことは歴然だ。

 いきなり太郎に話しかけた。

「太郎さん、あたし迷いがあるかしら?」

「と申しますと?」

 太郎は聞き返した。この場合、黙っているのは彼女の機嫌をさらに悪くさせる。

 美和子は返事をせず「あーあ!」と叫ぶと、両手をあげそのまま上半身を倒れこませた。

 あげた両手は首の後ろにまわし、ぼんやりと天井を見上げている。

「あたしね……どういうわけか子供のころからお転婆で、身体を動かすのが好きだったの。武道を始めたのも、小学生のころからだったわ……。最初は技を身につけるのが楽しくて、毎日夢中だった。でも、なんだかちかごろ違う気持ちが出てきて──うまく説明できないけど、物足りないのよ」

 太郎は彼女の言葉の中に、あるいらだちを感じとっていた。おそらく、ずばり一言であらわせば、美和子はじぶんの実力を試して見たいという欲望に駆られているのだ。

 他流試合──。

 美和子は太郎の知る限り、子供のころから同じ師範、おなじ練習仲間とともに鍛錬を重ねてきた。その結果、師範すら凌駕するほどの腕前を身につけたが、それは他の人間と手合わせしなくては実感できないのだろう。しかしそれは彼女にとっては出来ない相談だった。また、美和子の語彙に他流試合という概念はないはずだ。

 まだ見ぬ、見知らぬ他人との腕試しを美和子は無意識に欲求していることが、いまの言葉となって口を出たにちがいない。

 だが太郎にとって、それを指摘することは美和子の欲求不満の問題を意識させることになり、さらなる苛々を嵩じさせることにつながる。

 だから太郎は黙っているだけだった。

 その時、美和子のドアをこつこつと叩く音がする。

 振り返った太郎はドアに歩み寄り、開いた。

 きょとんとした目の、美和子の世話をしているメイドの一人が立っている。彼女は太郎を目にして、なにか言いかけた。

「なあに? あたしに何か用なの?」

 美和子が頭をあげ、メイドに話しかける。メイドは恥ずかしさに真っ赤になってうつむいた。

「あ、あの……只野太郎さんにお客さまです!」

 ぼくに? と、太郎は驚いた。

 メイドはひとつうなずくと、スカートの裾を翻してばたばたと足音をたてて駈けて行った。

 なんだろう、と太郎は首をかしげた。

 この大京市に太郎の知り合いは洋子ひとりしかいない。その洋子も、いまは高倉家のメイドであるから、そう勝手に出歩くとことはできないはずだ。

 美和子をふりかえると、彼女は上半身を起こしてうなずいた。

「失礼いたします。どうやらぼくに来客らしいので……」

 うん、とうなずいて美和子はまたぱたりと寝具に身体をあおむかせた。すこし、お嬢さまらしくはないはしたなさだ。もっとも、こんなことをするのは、太郎の前にかぎられるが。

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