美和子の前を辞去し、太郎は男爵の部屋へ引き返した。

 ドアを細めに開き、中をのぞきこむ。

 木戸はいない。男爵がひとり、ぼんやりと窓の外を眺めているだけだ。

 太郎はドアをノックした。

 おはいり……という返事に太郎はドアを開け一礼して中へ入った。

 男爵は太郎の顔を認めてちょっと驚いた顔になった。

「どうした、太郎君。わしは君を呼んだかな?」

 いいえ、と太郎は首をふった。

「さきほど木戸がまいりまして、あたらしい書類を男爵さまにお持ちしたようですが、それは郵便袋に入れておきましょうか?」

 男爵は手をふった。

「ああ、あれはわしがサインしてすぐに木戸がじぶんで郵送するといって外出したよ。なんでも急ぐ書類らしいな」

 じわり……とした不安が太郎の胸にわき上がってきた。

 

 失礼します……と、男爵の前を引き下がると、太郎は廊下に出て外を眺めた。

 広々とした男爵邸の庭園に、ひとりのひょろ長い痩身の男がせかせかとした歩き方で通用口へ向かっている。木戸である。

 木戸は通用口につくと、あたりを気にするようにしてきょろきょろと見回し、ドアを開けた。ほどなく郵便局さしまわしの配送車がやってきた。木戸は局員になにかを手渡し、話し掛ける。郵便局員ははいはいと頷き、木戸から一通の封筒を受け取った。

 あれだ!

 太郎は窓ガラスに顔を押し付けた。

 局員は木戸から受け取ると、一礼して配送車に戻った。木戸はそれを見送り、用心深くぐるりと周囲を見渡した。

 見咎められないよう、太郎はあわてて窓から離れた。

 間違いない……あれはなにか、木戸にとって大事な書類なのだ。

 太郎は走り出した。

 たたたた……と全力で走る太郎は、ひそとも足音をたてない。執事学校で習った、特殊な速歩術である。

 裏口にまわると、庭をつっきる。

 すぐ男爵邸の塀が見えてくる。

 ぶつかる寸前、太郎は飛び上がった。

 たった一度の跳躍で、太郎の両手は塀の上に達していた。

 たん、と塀の上へ這い登ると待つ。

 ほどなく郵便局の車が角をまがり、視界に見えてきた。太郎は息を吸い込むとふわりと宙に浮かび、配送車の天井へ舞い降りた。

 気配を殺しているので、配送車の運転手には気づかれていないはずだ。天井から太郎は配送車の後部にとりつき、ドアを開け内部へ忍び込んだ。

 これまでにかかった時間は二十秒たらず、だれにも見咎められていない。

 やがて配送車は信号で停車した。

 配送車の後部が開き、太郎が姿をあらわした。ドアを閉めると、配送車は走り出した。

 それを見送り、太郎はほっと息を吐き出した。

 ゆっくりと男爵邸へ戻っていく。

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