2
ふたたび長い廊下を太郎は歩いた。
木戸は男爵の車椅子を裏口へと押していく。裏口をぬけると、目の前にその道場らしき建物が見えた。洋風の屋敷とは違い、木造の瓦屋根の建物である。
建物には舗装された道がつづいている。気がつくと、建物には段差というのがない。男爵の足が悪いことを考慮して設計されているのだろう。道場の建物に近づいてくると、内部から「やあーっ」という細い叫び声が聞こえてきた。
ついでどたん、となにかが床を打つ音が響く。扉を開け、中にはいるとひろびろとした板敷きの道場に、数人の男女が白い稽古着と、袴を身につけ、正座している。道場にはひとりの少女と、師範代らしき壮年の男性が向かい合っていた。
すらりとした背の高い少女は、色白の頬をほのかに赤らめ、長い髪を後頭部でまとめて背中にたらしている。きりっとした美貌の、真剣な眼差しがまぶしい。
道場の様子と、服装から、どうやらここは、合気道かなにかの武道を練習する場所らしい。
はっ、と男性がかけ声をかけ、少女を誘う。
少女は身構え、男性に立ち向かった。
さっとふたりの手が組み合う。男性が少女の勢いを受け流し、足もとを崩す。倒れこむと思った瞬間、少女はじぶんからくるりと宙を回転して男性の肩をつかみ、投げ飛ばした。
だん、と男性は手を床に叩きつけ、受け身をとった。
「お見事!」
師範代は苦笑いをうかべすぐ立ち上がり、声をかけた。頭をふり、言葉を続けた。
「お嬢さまは上達されました。このわたしが、三本に一本はとられるとは……」
ふっ、と息を吸い込み、少女は定位置に戻ると力をぬいた。
「ご指導ありがとうございます」
さっと少女は正座し、深々と頭を下げた。師範代も正座し、答礼を返した。
そのとき少女の目が入ってきた真行寺男爵の姿を捉えた。
「お父さま、いらしてたのを気がつかなかったわ!」
額に垂れかけた数本の髪の毛をかきあげ、少女はにっこりとほほ笑んだ。興奮が残っているのか、頬の赤みはまだそのままだ。
師範代は道場でひかえている男女に声をかけた。
「今日はこれまで!」
男女はうなずき、立ち上がるとぞろぞろと道場を出て行った。師範代もそれに続く。男爵はかれらにいちいち挨拶をしていた。
「あいかわらず稽古に夢中なようだな」
男爵の言葉に少女は肩をすくめ、舌を出した。男爵は太郎に声をかけた。
「これが、わしの娘で美和子という。この娘はどういうわけか武道が好きでね、それでわたしが彼女のためにこの道場を建てたというわけだよ。美和子、かれが今度新しく奉公にあがった只野太郎という召し使いだ」
美和子の瞳はまっすぐ太郎を向いた。太郎は初めて美和子という娘の顔を見ることになった。
卵形の顔に、はっとするほど大きな瞳が輝いている。彼女の瞳はやや薄い茶色をしていて、髪の毛もまた同じような亜麻色をしていた。染めたのではなく、もともとそのような色をしているらしい。肌の白さが髪の毛の色と調和している。背後からのひかりに後れ毛が金色のひかりをはなっていた。
彼女は立ち上がり、太郎のもとに近づいた。
すらりとした、背の高い女の子だ。向かい合うと、太郎より頭半分は高い。長い手足をまるで男の子のようにふって歩くのが印象的である。
「よろしく、太郎さん──と呼ばせてもらうわね! あたし美和子です。よければ、お友達になってね!」
そう言うといきなりしろい腕をのばし、手を差し出した。
太郎は戸惑いを隠せず、木戸を見上げた。木戸は眉をあげて見せただけだ。
おずおずと太郎は彼女の手を握る。美和子は太郎の手を握り返し、にっこりとほほ笑んだ。
ふたりの手がはなれた。
太郎は美和子の手をもっと握りたい衝動を押さえてその手を離した。
男爵が口を開いた。
「そこでだ、本来はわしがこの太郎と『忠誠の誓い』をせねばならんのだが、なにしろこの年だ。それはお前と交わすのがいいと思って連れてきたのだよ」
美和子の目が見開かれた。
「忠誠の誓い……それをあたしと?」
「そうだ。やってくれるか?」
ゆっくりと美和子は太郎に向き直りうなずいた。じわじわと口もとが笑いの形をつくった。勢い良く美和子はうなずいた。
「ええ、よろしくてよ!」
そう言うと、わざとらしくつんと顎をあげて見せた。
太郎は彼女の前に進み出て跪いた。執事学校で習い憶えた「忠誠の誓い」の文句を一句一語もたがえず口にする。
「只野太郎でございます。どうかわたしをお嬢さまのしもべとしてご下命くださいますよう伏してお願いいたしたします。召し使いとなっては、一生忠実にお仕えすることを誓います!」
くすり、と美和子は笑いをこらえている。手をのばし、頭を垂れている太郎のひたいにちょん、と触れるとすぐに引っ込めた。
「これで『忠誠の誓い』は成立した! 只野太郎は正式にわが真行寺家の召し使いとして奉公することを認める!」
男爵が宣言し、太郎と美和子の「忠誠の誓い」は完了した。これにより、太郎はこの日から屋敷に奉公することになったのである。
太郎は召し使いになったのだ。
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