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建物の出口に張り出しているひさしの下で、太郎の母親は待っていた。今日の母親は、和服を身につけている。彼女はこの執事学校のホテル部門に勤める従業員のひとりである。いつもはホテルのお仕着せであるが、今日だけは特別だった。彼女は太郎の顔を認めるとその表情をやわらげた。
「卒業おめでとう、太郎」
うん、と太郎はうなずいた。それだけの会話をかわすと、ふたりは歩き出した。ふりしきる雪に、母親は傘をひろげ、息子にさしかける。ふたりは傘に肩をよせあい雪のなかを歩いていく。
太郎と母親はホテルの敷地内にある、従業員宿舎へとむかった。雪はまだ残っていて、宿舎に通じる道だけは除雪されているものの、夜明けから降った雪がつもり、歩きにくい。
宿舎はいくつもの部屋がつながった、平屋の建物だった。昔風に言えば長屋である。
一家族に割り当てられているのは四畳半と六畳の和室、それにキッチン、トイレなどで、風呂はホテルの従業員用のものを使用する。
じぶんたちの部屋にもどると、ふたりは四畳半の和室に正座して向かい合った。
窓際に太郎の勉強机があり、ちいさな箪笥、押入れ、それに母親の化粧台があるだけの、簡素な室内である。灯油ストーブがあるが、火は入れていない。室内の気温は零度ちかくであるが、ふたりは平気だった。召し使いとしての訓練で、暑さ寒さに耐えることは当たり前で、零度以下にならないと暖房を入れる習慣はなかった。母と息子の口もとからは、しきりに白い息が吐き出されていた。
母親は卓袱台をひろげ、息子のためにお茶を入れていた。四畳半の室内に、ほうじ茶の馥郁たる香りが漂っていた。
「とうとう卒業ね……」
湯呑みを手に、母親がぽつりとつぶやいた。
短い独白だが、万感の思いがこもっていた。
太郎も湯呑みを手にうなずいた。
「お屋敷についたら、手紙を出すよ」
ええ、と母親はうなずいた。
太郎は母親を見つめた。
「ねえ、母さん……」
はっ、と母親は顔を上げた。表情が厳しいものに一変していた。息子が言い出すことを予感している顔つきである。
「お父さんのことだけど」
彼女は目を伏せ、表情を隠した。
「今日、校長先生に呼ばれてすこし話しをしたんだ。校長先生は、ぼくのお父さん、つまり只野五郎は最高の召し使いだったと言っていたけど……ぼくは一度だってお母さんからお父さんのこと聞いたことなかったね。男爵のお屋敷に行くと、お父さんのことを聞かれると思うんだ。だからお母さんから、お父さんのこと聞いておきたい」
母親はため息をついた。
唇がかすかに開く。
「お前のお父さんはね……」
言いかけ、唇をつぐむ。
「お父さんはね……」
ふたたび言葉を継いでまた黙り込んだ。
ふたりの間に沈黙が流れた。太郎は黙ってその沈黙に耐えていた。
とうとう耐え切れなくなったのか、母親は顔を上げた。遠くを見る目つきで、なにかを思い出しているようだ。
「お母さんとお父さんが出会ったのは真行寺男爵のお屋敷だったの」
母親の言葉に太郎は驚いた。
いままで父親のことについて、母親から話されることはなかった。子供のころ、父親のいないことが不思議で、母親にまとわりつくようにして聞いたこともしばしばだったが、そのたび母親は言を左右にして話してくれることはなかった。それが、今日にかぎって話しだすということは、やはり卒業という特別な日であるからだろうか?
「校長先生の言うとおり、お前が男爵様のお屋敷に奉公するようになったら、いろいろ聞かれることもあるかもしれないから、話しておこうと思うの」
太郎は膝の上においたこぶしをぎゅっと握り締めた。握りしめた手の平が汗で湿っている。
「そのころお父さんは伝説の召し使いと言われていてね、あたしはただのメイドだった。だからお父さんと付き合い始めたころは忙しくて、なかなかゆっくりと話すこともなかったわ。それでもお屋敷のお部屋をもらって、一緒に暮らし始めることになったの。お前が生まれたのは、そのころだったわ」
ぼうぜんと目を瞠る太郎に、母親はうなずいた。
「そう、お前は真行寺男爵のお屋敷内で生まれたのよ」
母親はふたたびじぶんの膝に目を落とした。
「ところがお前が生まれて半年もしないうちにお父さんは……」
そう言うと、彼女はなにか決意を秘めたように息を吸い込んだ。
「死んだのよ!」
え、と太郎は身を乗り出した。
「そうよ、お前の父親、只野五郎は死にました。わたしはお父さんの思い出すことが辛くて、写真はすべて焼き捨てたの。だからお父さんの写真は一枚もないわ。ただ、お前が成長するにつれ、お父さんに似てきたわ。いまのお前は、お母さんと出会ったころのあの人そのものだわ……」
早口でそれだけ一気に言い終わると、母親は顔を伏せ、肩を震わせた。
お父さんが死んでいた……。
意外な母親の言葉に、太郎はそれ以上尋ねることができなくなっていた。父親の死の状況はどうだったのか、墓はどこにあるのか、そういうことを聞きたかったのだが、母親はそれらの問いを拒否しているようだった。
その夜、太郎は翌日の出立にそなえ、荷造りをしていた。着替えとそれまで使っていた教科書、さまざまな身の回りの品をトランクに詰め込む。教科書を手にすると、執事学校の三年間の暮らしが思い起こされる。
太郎の手にした教科書の背表紙を読むと、執事学校の授業がおおよそ把握できる。
礼儀作法の教科書は当然だが、経営学、医学などの教科書がまじっているのが目を引く。
経営学は、いずれ筆頭執事となった場合、主家の経済活動をまかされることを考えてのことだ。執事はあらゆることに通じていることを期待されているのである。医学の教科書も同じで、すくなくとも研修医くらいの医学知識を身につけることを義務付けられている。その他、執事が学ばなければならないことは幅広い。おいおい太郎がどのような知識を身につけていることになるか、判明することだろうが、執事は万能人であることを証明するだろう。
明日の用意をすべて整え、上着とズボンをハンガーにきちんとかけると、太郎は寝床に身体をすべりこませた。
天井の木目を見つめるうち、太郎は眠りに落ちていく。
きっと世界一の執事になる……太郎はその誓いをあらたに夢路についていた。
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