第2話 行方不明の女神

「それで、何かわかりましたか」

 執務室として宛がわれている自室に、屋外での調査を終えて入ってきたホルターとライエンを通すなり、彼は無機質な癇に障る言い方で切り出した。彼ら二人の前には白いティーカップが置かれ、白い磁器の器には温めの紅茶が注がれている。味は薄く、砂糖無しでも飲めるほど渋みすら感じなかった。

 広く豪奢な調度品に囲まれている割りには簡素な机に着いたまま、客用の椅子に座った二人を交互に見比べる。彼は副学長で、クレオと名乗った。学長は現在塔への出向中で、不在らしい。そもそもは塔へ定例会議に来た際、学長が今回の騒動を塔の長に泣きついたのが事の始まりで、副学長にとっては彼らは招かざる客であるらしかった。

 副学長は額に深い皺を刻み、年齢と辛苦の表れである白い糸を幾筋も黒髪に交ぜた、厳格な雰囲気のある人物だった。

「はっきりした事は何も。なにしろ、我々は庭を歩いたぐらいでして」

 身に纏った権威を圧力として発するようなクレオ副学長に居丈高に訊かれ、ライエンは頬を竦めた。

 実際、彼らは門を潜った途端、中庭に直行させられ、ここデッラエルロに来て初めて関係者と話らしい話をしているのだ。

「判断を下すには情報が足りません」

 そう言うライエンに、副学長は何でもお見通しだとでも言うように片眉を上げた。

「では、面会をご希望で?」

「早い話が」

 両方の肘掛けに突いていた手を広げてお手上げだと示してみせると、副学長は丁寧な口調で断ってきた。

「修練生との面会はお認めできません。それが規則ですので」

「規則、ねぇ。目撃者の所感というかですね、詳しい状況をですね」

 食い下がろうとするライエンに、あくまでも決まりだと突っぱねる。

「証言は報告書に纏めてある通りです。それ以上でもそれ以下でもありません。あなた方は修練生たちの三年間を無駄にしようというのですか」

「そんな大袈裟な話ではないですよ」

 軽口で相槌を打つライエンを、厳しくぴしゃりと撥ね付ける。

「いいえ。この修練の三年間は親兄弟といえども会えないのが規則です。文字通り俗世との縁を切り、この学び舎での自給自足の集団生活を通して互いに助け合うことを学び、そうして一片の魚として女神の御許で働くよう、彼らは生まれ変わるのです。その大事な時期を、こんなことで台無しにしようだなんて。大体、学長が事を大袈裟にして報告などしなくても、時が経てば本人達とて忘れて平穏な日々を過ごしていくでしょうに」

「本人達……というのは?」

 初めて口を利いたホルターに、はっとしたように副学長が答える。

「……目撃したと騒いでいる者たちですよ、勿論」

 目を瞬かせて頷く副学長に、何やら自分にも言い聞かせるようなそんな様子を見て取ったホルターが、間を空けずに問う。

「ところで副学長、いくら自給自足が基本のデッラエルロとはいえ、外部の者が出入りすることはあるでしょうね? 例えば、……肉屋とか」

「そうか、我々の暮らす塔にも出入りの業者はいるものな。獣を扱えない我々にとって、そこはどうしても他に頼らざるを得ない」

 成る程と、出された茶を黙って啜っていたライエンが突然手にしたカップでホルターを指した。

 戒律とは不便で理不尽なものである。だが、その自由を制限することこそが規律の肝であり、それが人を従順にさせるのだ。

 命を屠る事、獣を身近に置くこと。それから、魚は女神の使いであるので、食することは出来ない。他にもあるが、具体的に生活に関わってくるのはそのあたりの戒律だ。

 ホルターの質問に、副学長は深く頷いた。

「育ち盛りの者たちを預かっている手前、栄養面で健康の維持に気を配るのは当然ですから」

 つまり十七から二十歳までの青少年を預かっているのだ、食べる量もさることながら、その質と豊富さも欠かすわけにいかない。そうなれば、自給自足だけでは足りず、自ずと外部からの供給も必要になる。

「肉屋、野菜、洗濯屋、万屋、最低それらはこの敷地に入るわけですよね?」

「裏門から。ですが、彼らが会うのは門主と当番の給仕係だけで、用が済めば速やかに立ち去るはずです」

「ええ。問題は誰ではなく、可能性です」

 滞在時間の問題では無く、門が開かれる機会があることが肝要なのだと切って捨てるホルターに、副学長が目を剥いたのがわかって、ライエンは笑いを堪えきれずに下を向いて破顔を隠した。

「彼らは何曜日にここへ来るんですか?」

「肉屋は月曜日に。八百屋と牛乳屋は毎日暁鐘の鐘の前に。洗濯屋は火曜日と金曜日です。万屋というか、小間物屋は隔月程度で、滅多に来ません。紙やその他はできうる限りここで手作りしますので」

「そうでした。デッラエルロの紙は、貴重な収入源でしたね。我々も使わせて戴いてますよ。特に上質紙の品質は素晴らしい。丈夫で破れ難くインク載りが良くて滲まない。歴史書の写しに打って付けです」

 思わぬ頃合いで褒められて、さすがの副学長も気を削がれたのか礼を言った。

「有り難うございます。幸い、この学び舎は森に囲まれているお陰で材料の確保には事欠きませんので」

「木の皮を剥ぐんですか?」

 興味津々に割って入ってきたライエンに向かい、副学長は慇懃な態度を崩さぬまま説明した。

「ええ。ご存じの通り紙の原料は木の皮を砕いて作られます。ですが、剥ぎすぎると木そのものを痛めてしまいます。それを調整するため学園の厳しい管理の下、計画的に運用しています」

「貴方の管理は完璧に行われていそうですね」

「何ですか?」

 多分に敵意の含まれたライエンの呟きを耳聡く拾って訊き返す副学長に、当の本人は目を逸らして誤魔化す。

「数年前、紙の供給が途絶えたことがありましたね」

 まるで千里眼でもあるかのように話題を振るホルターに、デッラエルロ産の紙の供給情報など何故知っているのか、その情報源を問い質してみたくなったが、恐らく非常に記憶力が良いのだろうという結論に達するのは目に見えていたので、ライエンはここは黙ることにした。

 耳に入ったこと全て、情報として処理できるという能力が人間にはある。それが抜きんでて得意な人間。たとえ自分に面と向かって話されたものでなく、すれ違いざまに噂話を耳にした程度でも、情報として自分の中に取り入れる事が出来る存在。ホルターはそういう類の人間なのだったと、長い付き合いであるライエンは改めて思い出していた。

 何気ない会話から始めまっていく展開に、ライエンは事の成り行きをじっと目守る。ホルターのある種はったりめいた発言にも、クレオ副学長は老練な剣士のように揺らがず、心外だと目を細めただけだった。

「途絶えてはいません。ただ、北の森の一帯が原因不明の立ち枯れを起こしまして。それ以来、紙の生産量を減らし今日に至ったところです」

「減産……それでは修練生達の生活に支障は出ませんでしたか?」

 自給自足を基本とする方針の学び舎では、修練生の労働はその維持にも充てられる。それは建物だけで無く、衣服やその他必要な物の購入に充てられるのだ。

「いえ、元々学び舎での生活は信者達からの布施と寄進で賄われておりますので、贅沢を申さなければ充分立ち行くのです」

「では、何故紙の生産を?」

 言わずもがなの質問に、少し苛立ちを露わにした副学長はそれでも重々しく一言一句を含んで聞かせるように二人の訪問者に語った。

「労働も女神に捧げる尊い日課の一つですので。それに、聖堂やその他施設の修復にはどうしても必要な支出を工面せねばなりません。また、希望者が多くなればそれに応じて居住棟の増築も必要です。経営とは今だけでなく明日もその先も考えて営んでいかねばならないものなのですよ」

 言い終えた副学長の額に、威厳以外に深い憂いが垂れているのを、ホルターは見逃さなかった。

「聖堂といえば、ここの女神像は以前盗難に遭いましたよね」

「残念なことに」

「確か、純金製だったとか」

「何を仰りたいのですか」

 僅かに気色ばむ副学長の追撃に、ホルターは身を退いて躱す。

「いえ、今はどうしていらっしゃるのかな、と思いまして」

「現在は修練生の中に達者な者が居りまして、その者に彫らせた木の女神を安置しております。それに、女神像は盗難に遭ったのではなく、私欲に塗れた我々に悟らせるためにお隠れになったのだと思っております」

「私欲、ですか?」

「先程お褒めにあずかった通り、我が学園で生産される上質紙は方々で最高級品としての評価を戴いております。為に学園には豊かな蓄えがありまして、それを用いて黄金の女神像を建立いたしました。……小さな物でしたが。ですが、其れが為に奢りが我々の心に生まれ、それを戒めるために女神は自ら聖堂を去られたのです」

「では、まだ行方知れずで?」

 女神の行方について興味津々のライエンが割って入った。

「我々の心が正しい姿になった時、自らお戻りになるでしょう」

「ほう、自ら」

「どのような形であれ、お姿をお隠しになったのが女神の御意志ならば、お戻りになるのもまた然りです」

「はぁ」

 堂々巡りの答えに生返事をするライエンには構わず、ホルターが話を進める。

「収入源ということは、業者に卸しているわけですよね」

「ええ。我々は直接に俗世と関わる事は出来ませんので、仲介を近くの村の者に託しております」

「では、その者はいつ来るのですか?」

「毎月十日と決まっております」

「そうですか」

 一息入れて、置いて行かれまいとライエンが質問する。

「因みに、副学長殿は今回の怪現象をどうみておられるのですか?」

「どう、とは」

「盗人の仕業で無いとしたら、女神はご自分の意志で聖堂を出たことになります。動かぬ物に精神が宿るとは、奇蹟でしょう。副学長は霊的な物の存在を、信じて居られるのですか」

「女神が自ら姿をお隠しになったのであれば、そのようなこともあるのでは、と」

 表情も声音も動かない言葉が、空々しく暗い執務室の中に響いた。

「では、女神のお戻りはいつ頃になると思われますか」

「我々が、女神の御心に適いますれば」

 副学長が同じ言葉を繰り返したのを切り上げの頃合いだと感じた彼らは立ち上がり、連れだって出口のドアへ向かう。と、ホルターが足を止めて背後を振り向いた。

「そういえば副学長。例の木の枝ですが、切り口の新しい跡がありましたが、最近枝打ちをされたんですか?」

「ええ。枝が腐って落ちそうになっていたので」

 不意の質問に驚いたようだが、返事は淀みなく返ってきた。

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