第7話 光と影
僕は、あの時、半ば当然のように彼女を抱き寄せたけれど、僕達の行く末を考えたら、僕のあの行動は軽率だったのかもしれない…
翌日、さくらは、朝早くにここへ来た。
昨夜、海人は、ひまわりからさくらに嘘をついていると打ち明けられた。僕達はつきあっていて、なおかつ、僕は一過性の記憶喪失になっているということだった。
海人もさくらに自分のことをどう説明すればいいか思い悩んでいたし、ひまわりがそれでいいのなら、それに合わせることにした。
しかし、二人が恋人同士という設定は、これから先の海人を苦しめることになる。
ひまわりは、朝食をとった後、図書館へ出かけた。借りている本を返しに行く日だった。
「さくらが来たら、蚊にさされないように、この上着を着るように言ってね」
そう言い残し、ひまわりは、お気に入りの帽子をかぶり出て行った。
海人は庭へ出て、空を見上げ、太陽が高くなる前に仕事を始めた。さくらはここに来たのはいいけれど、庭いじりをするには見合わない恰好をしている。
「ひまわりさんが、そこの上着を着るようにって言ってたよ」
海人はそう言ったが、さくらはその上着を見もせずに庭へ降りてきた。
「ひまちゃんは出かけたの?」
「本を返しに、図書館へ行くって」
「ふ~ん、そうなんだ。
そういえば、昨日のひまちゃん、少し様子が変だったよね。なんかちょっと怖かった」
海人は、何も言わずに黙っていた。
「海人さん、ひまちゃんは聞いちゃだめって言ってたんだけど、本当に記憶喪失なの?」
海人は黙り続けた。嘘はついているけれど、あながち海人の状況は嘘ではない。
今の事を何も知らない、それが今の僕の現実だ…
「私は記憶喪失がどういうものか全く分からないから、これからも、海人さんに失礼なこと聞いちゃうかもしれない」
さくらは、海人に気を遣ってくれていた。
「全然、大丈夫だよ。分かる範囲でしか、僕も答えられないけど」
さくらは少し笑みを浮かべた。
「ひまちゃんが、海人さんを好きになるのが分かる気がする」
さくらは続けた。
「一緒に居たらなんだか安心するし、そういう包容力を感じる。
ひまちゃんは両親が離婚してから、ますます笑わなくなっちゃったんだよね。もともと大人しい子だったのが、さらにひどくなっちゃって…
ひまちゃんはお父さんっ子だったから、本当はすごく傷ついてたんだと思う。
それ以来、お父さんのことは全然話さなくなっちゃたし…」
海人は、この話を初めて聞いた。
「ひまわりさんからお父さんの話はたまに聞いたりしてたけど、離婚したっていうのは知らなかった」
さくらは、慌てて海人に言った。
「私から聞いたって、絶対言わないでね。ひまちゃんにとってお父さんのことは、触れてはいけないことなのかもしれないから」
ひまわりは、海人の前ではいつも笑っている。だから、さくらから聞いた話は海人にとって衝撃的だった。
「ひまわりさんは、きっと寂しかったんじゃないのかな…」
「だから、海人さんが今近くにいるんでしょ。
いいな~、ひまちゃん。私も海人さんみたいな彼氏がほしいな~」
「さくらさん、彼はいないの?」
海人は、さりげなくさくらに聞いてみた。
「いないんです…
ねえ、ひまちゃんから海人さんを奪っちゃってもいい?」
さくらは真剣な眼差しで、海人に聞いてきた。
海人が言葉を失っていると、さくらは笑いながらこう言った。
「半分冗談、半分本気だよ」
ひまわりは、図書館で、他にもタイムトラベルの本がないか探していた。
歴史の本や小説やタイムトラベルを扱っている本は数多くあるが、ひまわりが納得できる内容のものには、中々出会えなかった。今日は何も借りずに図書館を出た。
ひまわりはこれから先の海人のことを考えると、また過去へ戻れる可能性はないのではないかと思っていた。今の二人にとって、過去へ戻る術を見つけることは、並大抵ではない。
もし、海人がこのままここに留まるのなら、私はそれで構わないと思っている。そして、心の奥底で、ひまわりはそれを願っていた。
ひまわりは図書館の帰りに近所のパン屋に寄り、昼食に食べるパンを何個か買った。そして、今日は、昨日のような振る舞いはしないと心に決めていた。
さくらにとって私と海人は恋人同士なのに、私が初恋を知ったばかりの少女のようにドギマギしている姿は、不自然にもほどがある。
ひまわりは、昨日とは違う余裕のある自分でいれるように、大きく深呼吸をして家に入った。
「ただいま」
ひまわりがそう言うと、居間の方からさくらの声がした。
「おかえり」
さくらは庭仕事に飽きたのか、ソファに座ってテレビを観ていた。
「海人さんは?」
ひまわりがそう聞くと、さくらは庭を指さした。ひまわりは少しホッとして「お昼にしよう」とさくらに言った後、まだ庭にいる海人を呼んだ。
ひまわりが買ってきたパンを三人で食べていると、さくらが思い出したようにこう言った。
「あ、今日、お兄ちゃんが大阪から帰ってくるんだ」
「え、今日?」
「うん、今日。それで、そのままここへ来るって言ってた。お友達も一緒だって」
さくらはジュースを飲みながら、海人を見てこう言った。
「海人さん、お兄ちゃんが来たら、ちょっと面倒くさいかもしれないよ。
だって、お兄ちゃんは、ひまちゃんの事大好きなんだから」
「そんなことないよ。さくらと一緒で、妹感覚なの。
それにそれは小さい時の話でしょ」
ひまわりは少しむきになって、そう言った。。
「さくら、余計な事を言わないで。海人さんが、変に意識しちゃうじゃない」
「ふふ、お兄ちゃんはね、小さい時は、大人になったらひまと結婚するって言ってたんだよ。今は分かんないけど、でも、まだそう思ってるような気がする。
ひまちゃんだって海人さんと結婚するわけじゃないんだから、もしかしたら、海人さんは私と結婚しちゃうかもしれないし…ね」
ひまわりは冷静を装いながらも、かなり動揺していた。
さくらは何を言ってるの?
張りつめたひまわりの様々な決意がしぼんでいくのが分かる。そして、ひまわりは無意識に下をうつむいていた。
「ひまわりさん、ここへ来て」
海人は、ひまわりを庭へと連れ出した。二人で庭へ降りると、海人は綺麗になった花壇の中を見せてくれた。前に二人で買ったひまわりの苗が、添え木に縛られて空へ向かって伸びている。
「僕は誰とも結婚しない。
でも、もし自分が結婚することを許されるのなら、その時は迷わずにひまわりさんと結婚する」
海人はひまわりの耳元で、やるせない笑みを浮かべながら、そうささやいた。
しばらくすると、外の駐車場に車を停める音がした。そして、賑やかな声が近づいてくる。
「ひま~、さくら~、いる~?」
玄関先で大きな声がすると、さくらは嬉しそうにそこへ向かって走って行った。
「ひまわりさんは、行かなくていいの?」
海人が聞くと、ひまわりは首を横に振った。
「早く帰ってもらうから、海人さんは心配しないでいいからね」
ひまわりは気丈にそう言った。
さくらと並んで入ってきたのが、良平だった。良平は、海人を一瞥しただけで、すぐにひまわりの方を見た。
「ひま、久しぶり。なんかまた大人っぽくなったじゃん。
あ、こいつは俺の大学の後輩で、山田浩太っていうんだ」
良平は、後ろに隠れている髪を金色に染めた男を前に突き出した。
海人は部屋の隅で静かにしていた。何事もなくひまわりが傷つくこともなく、これからの三日が過ぎてくれればと、それだけを願いながら。
「はじめまして。山田と言います。今回は、青木先輩の家に遊びにきました。
よろしくお願いします」
浩太は、丁寧にひまわりと海人に挨拶をした。
「先輩から聞いてたんだけど、想像してた以上にひまわりさんが綺麗なので、ちょっとドキドキしてます」
浩太がそう言うと、ひまわりは照れて俯いた。
「さくらは~?」
さくらは少しむくれたふりをして聞いた。
「さくらさんも、めっちゃ可愛いです」
浩太は人懐っこい笑顔で、そう言った。
良平は、さくらと顔がよく似ていた。背が高く、細見ですらっとしている。海人は居心地の悪さを感じながら黙っていると、ひまわりが隣に座ってきた。まるで、子供を守る母親のように。
「この人は、木内海人さんって言います。今、わけあってここに一緒に居るの」
「二人はつき合ってま~す」
ひまわりが海人を紹介した後に、さくらが冷やかすように言った。
「そう、私達はつき合ってます。そして、海人さんは私の大切な人です」
海人は、思いがけず、ひまわりのその言葉にときめいてしまった。
「き、木内海人です。よろしくお願いします」
海人は、良平と浩太の顔を見てから、深々と頭を下げた。良平は、あきらかに、海人に対して不快感を抱いているのが分かる。
「木内さんも東京の人? ひまとは大学が一緒だった? 二人の馴れ初めを聞きたいな~」
良平は海人から目をそらさずに、そう聞いてきた。
「実は、海人さんは、部分的な記憶喪失の病気なんだ。だから、あまり質問しないでもらいたいの」
ひまわりは、悪びれずことなくそう言った。
「記憶喪失?? それっていつから?ひま、大丈夫なのか?」
良平は二人の嘘を見抜いているかのように、質問を浴びせてくる。
「大丈夫だから。
この海の近くでゆっくりすれば、少しは良くなるかなって私が来させたの」
ひまわりは、必死に海人を守ろうとしている。
良平は、きっと、ひまわりのことが好きなのだろう。良平のひまわりを見る眼差しは、それを物語っている。
この時代に僕の過去はない。僕は、この間生まれたといっても過言じゃない。
でも、僕は20歳の青年であり、今の僕は、ひまわりの事を真剣に想っている。
だけど、この時代に生きる今の僕は、良平に、何か勝っているものがあるのだろうか?
今、海人が抱いてるひまわりへの恋心は、最後まで全うできるものではないと分かっている。海人はこの時代の人間ではないし、いつ、また、過去へ戻されるかも分からない。
そういう僕が、良平と張り合えるわけがない。
それは、痛いほどよく分かっている。
でも、海人は、自分の存在が邪魔なだけで、ひまわりを困らせる良平が許せなかった。そして、保護本能がむき出しになっている今の海人は、ひまわりへの想いがもう恋心ではないことに、はっきりと気づいた。
僕はひまわりを愛している。誰にも奪われたくない…
ひまわりは良平達が早く帰ってくれないかと、心の底から思っていた。
良平の事は、さくらのように上手く騙せないことは分かっていたので、ひまわりが上手にかわしていくしか方法はない。それでも、しつこく、海人に質問を浴びせる良平が、疎ましく思えてならなかった。
「良ちゃん達は、いつまでここに居るの?」
「三日くらいかな。今日はこの後、ちょっと観光して、明日からはずっと海三昧の計画」
良平は、縁側から庭を眺めていた。
「あれ? 庭が綺麗になってんじゃん」
「海人さんが、ずっと片づけてくれてるの。きっと、ひまちゃんのおじいちゃんも喜んでるよね。あ、それと、今日はさくらもちょっと手伝ったんだ」
さくらは、楽しそうに海人を見て言った。
「なんで、お前が手伝うの? さくらも、もうこいつと友達になっちゃたわけ?」
良平は呆れたように、さくらに言った。
「お兄ちゃん、なんで海人さんのことをそんな風に言うの?ひまちゃんの彼氏っていうだけで、気に入らないんでしょ」
さくらはひまわりと海人の味方のように見える。良平にたてつくさくらが、ひまわりは頼もしかった。
「ひま、明日は一緒に海に行こう。ここからちょっと先の海岸に行く予定だから」
良平はさくらの話は無視して、ひまわりにそう話した。
「うん、じゃ、海人さんも一緒に行く」
「あ、ごめん。車が4人乗りだから無理だわ」
良平は、切り捨てるようにそう言った。
「じゃ、私も行かない。三人で行ってきて」
「ひま、毎年、俺たちと海に行くの楽しみにしてるじゃん。せっかく、久しぶりに会ったんだから一緒に行こうよ。明日、9時に迎えにくるからさ」
そう言うと、良平はさくらと浩太を見た。
「そろそろ、行くぞ」
良平は大阪のお土産をテーブルに置き、三人で帰って行った。
そして、ひまわりは海人を見て苦笑いをした。
「海人さん、ごめんね。なんか嫌な気分になっちゃったね」
海人は、さっきからずっと庭の向こうを見ている。海人の事を見下したように話していた良平も浩太も、海人とさほど年齢は変わらない。ひまわりは、海人に何て言葉をかけていいのか分からなかった。
「ひまわりさん、僕は良平さんに何も言えなかった。本当は、僕が、ひまわりさんの事を守ってあげなきゃいけないのに。
でも、よくよく考えたら、もし、僕の妹達が僕のようなわけの分からない人間とつき合ってたとしたら、きっと、僕も良平さんと同じような態度をとったかもしれない」
海人は、遠い過去に思いを馳せているような目でそう言った。
「海人さん、そんなことを思わないで。だって、海人さんは、何も悪くない」
「本当は、はらわたが煮えくりかえるほどむかついてるんだ。それが何になのか、自分でも分からない。良平さん達になのか、自分自身になのか。
でも、きっと、正々堂々と胸を張って生きていけない今の自分が許せないんだ。故郷もない、家族もない、住む所も、お金もない自分自身が。
僕は、いつになったら、ひまわりさんに見合う男になれるのかな」
海人は立ち上がり、散歩に行くと一言残して出て行った。
海人にとって、自分のこの運命を受け入れるにはまだ時間が短すぎた。そして、戦時中を生き抜いてきた海人は、のんびりと悠悠自適に暮らしているこの時代の若者を、羨ましい反面幻滅もしていた。
しかし、海人はこの時代で、今を生きている。自分が生きてきた時代に戻ることが叶わなければ、この場所で、この時を、生きていかなければならない。
海人は、半分は、覚悟を決めた。この時代の人間にならなくてはいけないと…
◇◇
海人が散歩から帰ると、ひまわりは夕飯の支度をしていた。海人の姿を見て、ひまわりはホッとした顔をした。
「良かった…すぐにご飯にするからね」
料理好きなひまわりは、海人のためにたくさんのご馳走を準備してくれていた。
海人は、台所に立つひまわりの後ろ立つ。
「今日はごめん、僕は全てにおいて自信をなくしてたみたいで。
僕が育った時代は、男が、女性や子供達を守るように教えられてきた。実際、僕の家は父親が居なかったから、僕は人一倍その気持ちが強かった。だけど、今、一文無しの僕はひまわりさんがいないと生きていけない。その事実が、今日、大きく重く僕にのしかかってきたんだ。
僕は過去へ戻ることだけをずっと考えてたけど、でも、今の僕はこの時代を生きている。その事を今日、良平さん達に会って痛感した。
ひまわりさん、僕、働くよ。僕みたいな人間でもできる仕事があると思うんだ。
そして、早く自立してひまわりさんの彼氏だって、堂々と言えるようになりたい」
ひまわりは手を止めて、海人の話をじっと聞いていた。そして、振り返り、海人を見た。
「海人さん、私は、別に海人さんが働かなきゃいけないなんて思ってない。ただこうして私の側に居てくれてるだけで、幸せを感じてちゃだめなのかな。
このまま、ここに居ていいんだからね、この時代にいる間は、ここにずっいて…」
海人の目には、ひまわりの顔は泣くまいと必死に堪えているのが分かった。ひまわりの手を握り「ありがとう」と言うことしかできない。海人は、そんなひまわりをどう扱っていいのか分からずにいた。
ひまわりを愛している気持ちに偽りはない。でも、簡単にひまわりを抱きしめたりする事は、いづれ彼女を苦しめる。そして、僕自身も…
すると、ひまわりの方から、海人の首に手をまわしてしがみついてきた。
海人は、そんなひまわりを抱き寄せて、キスをしたいと思った。でも、まだ、自分に自信がない海人は、ただ優しく抱きしめることしかできない。
海人はこの時代に留まりたいと思う自分を許し、そして、家族への思いを胸にしまって、更に強くひまわりを抱きしめた。
「ひまわりさん、明日は、良平さん達と海へ遊びに行っていいよ。
僕は、ひまわりさんの日常を、壊したくないんだ。僕は、その間、庭の仕事を終わらせる。だって、早く片づけて働かなきゃならないからね」
そして、ひまわりの耳元で「分かった?」とささやくと、ひまわりは海人の胸の中で小さくうなづいた。
◇◇
ひまわりは、小さい頃から海が大好きだった。夏になれば祖父の家に遊びに行き、さくら達と必ず海水浴へ出掛けた。ひまわりはいつも砂浜に寝転がり、寄せては返す小さな波に体をあずけ、耳元でチャプチャプ聞こえる波の音が大好きだった。
良平達と海水浴場に来たひまわりは、いつもと変わらない海に挨拶をした。
でも、今の私はもう去年の私ではない。大好きな海に来ていても、心を占めているのは海人のことだけだから。
さくらと更衣室で水着に着替え外へ出ると、浩太が浮き輪に必死に空気を入れていた。
「ひまちゃん、昨日、海人さん大丈夫だった?」
「うん」
ひまわりは小さな声で答えた。
「私は、海人さんのこと好きだよ。ひまちゃんの彼だけどね」
さくらはいつも正直だった。それゆえ、人を傷つけることも多々あった。
ひまわりは黙っていた。
「ひまちゃん、今日は楽しもう。お兄ちゃん達も、もうすぐ帰っちゃうし。ね?」
「うん」
ひまわりはまた小さくうなづいた。
浮輪が2つしかなかったため、さくらと浩太、ひまわりと良平で使うことになった。さくら達は浮輪の取り合いをしたり、きゃっきゃっと遠くで騒いでいる。
ひまわりと良平は、浮き輪に肘をのせて向かい合い、波に揺られて楽しんだ。
良平はずっとひまわりを見ていた。高校生の時、ひまわりに「好きだ」と告白したことがある。その時、ひまわりは良平の事は兄のような感情しか抱けないと、その告白を軽く受け流した。大人しくて、すぐに自分の殻に閉じこもってしまうひまわりを、良平は子供の頃からいつも気にかけていた。いつも寂しげなひまわりを、良平の愛で温かく包み込みたいと、そう思っていた。
でも、それ以来、良平は一切その事に触れなくなった。
「ひま、あいつの事なんだけど…」
「海人さん?」
ひまわりが聞くと、良平はうなづいた。
「本当は、記憶喪失なんかじゃないんだろ?」
良平の目は真剣だった。
「俺はひまのお父さんがいなくなって、その後、おじいちゃんまで亡くなった時に、もし、ひまが路頭に迷うような事があれば絶対守ってやるって心に決めたんだ。
今のひまはまともじゃないよ。あいつに騙されてるとしか思えない」
「なんでそんなこと言うの?」
ひまわりの声は波の音に消されるくらいに小さかった。
「ひま、もうあいつとは別れた方がいい。
なんか、聞いた話では着るものもおじいちゃんのを借りてるらしいじゃないか。
何なんだ?あいつは?」
ひまわりは、浮き輪越しに見える小さな波から目を離さずに、ため息をついた。
「良ちゃん、やめて。海人さんの事、何も知らないくせに。
私が、好きでやってるの。海人さんの力になりたいだけなの」
ひまわりは、良平に真実を話したい衝動にかられたがグッと堪えた。
きっと、誰一人、信じてはくれないだろう、時代を超えてきたなんて…
「あいつの事がそんなに好きなのか?」
「うん」
良平の顔は険しく、今まで見たことがない表情を浮かべている。
「ひま、俺はやっぱりやめた方がいいと思う。
あいつから離れなきゃダメだ。ひまが言えないのなら、俺が言ってやる」
「良ちゃん、いいかげんにして。もう、私達の事はほっといて」
ひまわりは浮き輪から離れて、岸の方へ泳いで行った。
話したいけど、話せない。分かってもらいたいけど、分かってもらえない。
海人の存在を守ってあげられるのは、私しかいない。
海人の心情を思うと、ひまわりは涙がこみ上げた。
そして、ひまわりは、これ以上ここに居る気になれなかった。更衣室に向かい、外の水道で足を洗っていると、良平が走ってきた。
「ひま、いい加減にしろよ」
良平の声は聞こえたが、ひまわりは返事もせずに更衣室に入った。帰る準備をして外へ出ると、さくらに浩太までひまわりを待っていた。良平は、遠くで誰かと電話で話している。
「ひまちゃん、これから、かき氷食べようよ」
「さくら、悪いけど私先に帰るね」
「どうやって? お兄ちゃんに送ってもらわないと、帰れないよ。バスも通ってないんだから」
「バス停があるところまで歩いて行くから、大丈夫だよ」
ひまわりが笑顔を見せてそう言うと、電話を終えた良平が、ひまわり達がいる場所へ歩いてきた。
「ひま、さっきは言い過ぎた。ごめん。
今からひまの家に行って、あいつをここに連れてくるから。ひまはここでさくら達と、かき氷を食べときな。今夜は、ここでバーベキューをするって言ったろ」
そう言うと良平は車に乗り、海人を迎えに駐車場を後にした。
◇◇
海人は、ひまわりの家の庭に小さなベンチを作った。そのベンチは廃材を再利用したため、お洒落とは言えないが手作りにしてはいい出来だった。
すると、玄関前の駐車場に車が止まる音がした。海人はひまわり達が早めに帰ってきたのだと思い、手を洗い居間の方へ行ってみた。
しかし、そこにいたのは、良平一人だった。
「ひまわりさん達は?」
「俺一人なんだ。実は、あんたに話があって来た」
良平は持っていた缶コーヒーを飲みほして、ドカッとソファに腰掛けた。海人は良平の前に座り「何でしょうか?」と聞いてみた。
「こんなことは言いたくないけど、俺はあんたを信用してない。
ひまわりのおじいさんの家に居座って、詳しいことは、記憶喪失かなんだか知らないけど、何も話そうとしないし。知ってると思うけど、ひまわりの家族は、今はお母さんしかいないんだ。
きっと、こういう事を俺があんたに話してるって知ったらひまは怒ると思うけど、でも俺の気持ちも分かってくれるよな?」
良平は男としてより、保護者としての気持ちをぶつけてきた。
海人は、何も言えずに黙っていた。というより、何も言えなかった。
「もし、本当に記憶喪失だとしたら、記憶が戻ったら一体どうするつもりなんだ?
もしかしたら彼女がいるかもしれないし、最悪、奥さんがいることだってあり得る。もっと最悪を考えると、犯罪者で逃げ回ってるのかもしれない。
そんな男かもしれない奴を、俺は到底受け入れられないよ」
良平が言うことは最もすぎて、海人はますます何も言えなかった。
僕は、突然、過去からやってきた人間だ。これから先も僕の身に何が起こるか見当もつかない。僕の中で、ここに留まりたいという気持ちが高まっているのは事実だが、僕の意思が反映されるかどうかも全く分からない。
海人は下を向いて、唇を噛みしめるしかなかった。
「何も話さないのは卑怯だぞ。
ひまわりはあんたに心底惚れてるみたいだし、何を言ってもほっといての一点張り。だから、今日、俺は、あんたの話を聞きにきたんだ。
これからどうしたいのか…」
良平は、実を言うと、海人の心配もしていた。
「僕は…」
悔しくて、涙がこみ上げてくる。
良平はなんとなく気づいていた。この海人という男は、何か大きな事情を抱えていて、決して悪い男ではないという事を。
でも、やはりひまわりを近づけるわけにはいかない。ひまわりが傷つくのはもう見たくなかった。
「僕は、絶対にひまわりさんを騙してなんかいません。
それだけは、分かって下さい。
ひまわりさんは、何も分からない僕に、親切に一つ一つ色んな事を教えてくれました。そして、僕は、そんな優しいひまわりさんに甘えてしまった。そんな自分が、本当に情けなくて仕方ありません。これからの僕だって、良平さんの言う通り、どういう風になってしまうのか見当がつかない。
馬鹿みたいな話だと思うかもしれませんが、これが今の僕の現実なんです」
海人は、また黙ってしまった。
今の僕は影の中で生きているのと一緒だ。堂々と胸を張れない僕は、何を言っても誰も認めてはくれない。
しばらく、沈黙が続いた。
「働こうとは思わないのか?」
突然、良平が聞いてきた。
「働きたい、働きたいです。」
海人は切実にそう答えた。
「一つ、提案があるんだ。とにかく、ここから出ていくこと。そのかわり、働き口と住む所を紹介してやる。
昨日、ここから5キロほど離れた海沿いの町で、小さな民宿が、アルバイト募集住み込み可って書いた紙を貼ってあるのを見かけたんだ。
なんとなくその名前が頭に残ってて、さっき電話してまだ募集してるか確認してみた」
「それで?」
「まだ、募集しているってさ。若い男、大歓迎だって。
で、どうする?」
「働きたいです。僕みたいな男でも雇ってくれるのなら」
「でも、もうひとつだけ約束してほしい。
ひまわりとは、もう二度と会わないこと。
ひまわりも夏休みが終われば、東京に帰らなきゃならないのは分かってるだろ。どっちみち、別れなきゃならないんだ。
あんたも自分で稼いで生活していくうちに、記憶が戻るかもしれないし」
海人はひまわりに会えなくなるとは、夢にも思っていなかった。
しかし、僕達には、いつか、必ず別れがやってくる。そして、その懸念は、いつも僕を苦しめていた。
「僕をそこに紹介して下さい」
海人は一生懸命働いて一人前になったら、必ずひまわりを迎えに行くと心に誓った。それをひまわりに伝えれば、きっと分かってくれるはず…
「じゃ、今から車で行こう。俺は車で待ってる。支度ができたら出発しよう」
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