第5話 過去


 朝方に見る夢は、願望の現れだと聞いたことがある。

 僕は、毎朝、同じ夢を見る。

 母と妹達が暮らす家に向かって、ただひたすら走る夢を…


 海人が過去からここへきて三日が経った。まずは、ひまわりとの約束を思い出し、荒れてしまった庭を一から作り直す事にした。

 煉瓦で小さな花壇が作られているが、長い間、誰も手を入れずにいたのだろう。雑草は伸びて、煉瓦の囲いまでも隠している。所狭しと生い茂る雑草は、想像していた以上にやっかいだった。

 それでも海人は仕事に専念した。精を出すことで心が幾分軽くなる気がしたから。夏の日差しの中、海人は時間も忘れ、夢中で働いた。


「海人さん、休憩しませんか? 雲行きも怪しくなってきてるみたいだし」


 居間へ行ってみると、甘いスイカの匂いがした。食べやすいように小さく切って皿に載せてある。海人はひまわりがテーブルについてから、一つを口に放り込んだ。


「すごく甘くて美味しい」


 海人がそう言うと、ひまわりも一つほおばってみた。


「本当だ、めちゃくちゃ美味しい。

 これは、荒れ放題の庭を片づけてくれている海人さんへのご褒美です。

 甘くて良かった~」


 海人はひまわりを見て微笑んだ。ひまわりの笑顔はいつでも僕を癒してくれる。

 夕方近くになると、雲が低く垂れこみあたりを覆ってきた。真っ黒い雨雲が、空を埋めつくす。外をぼんやりと見ていると、三日前の雷雨を思い出した。海人がここへ来た時、外は雷が光り大粒の雨が降っていた。

 そして今、外はあの時のような異様な暗闇が襲ってきている。

 家に帰れるかもしれない…

 一瞬そう思った海人はいても立ってもいられなくなり、ひまわりの家を飛び出してしまった。

 公園までの道のりはまだ覚えていた。

 ポツポツと雨が落ちてきているのも気づかずに、海人はただひたすら走った。階段が見えてきた時にはかなりずぶぬれになっていたが、それでも空を覆う真っ黒い雨雲は、先へ先へと海人を焦らせた。

 やっとベンチへ辿り着き、腰を下ろしたと同時に空が光った。海人は心の中で何度もつぶやいた。


「母さんと妹達の元へ帰してください」


 海人は、しばらくそこに座っていた。空は明るさを取り戻し、雨は小雨に変わっている。海人はやりきれない思いに体が震えた。


 僕は未来へ来てしまった。それは幸せなことなのかもしれない。親切で可愛らしいひまわりさんが、いつも側にいてくれる。それに僕は、戦争も飢餓もないこんな未来をずっと夢に見ていた。

 だけど、でも、僕は家族の元へ帰らなければならない。

 飢えを耐えて僕の帰りを待っている家族の元へ…


 ◇◇


 ひまわりは玄関のドアがバタンと閉まる音を聞き、居間を覗いた時にはもう海人の姿はなかった。玄関から外へ出てみると、傘もささずに慌てて走る海人がいた。

 ひまわりは海人の後をついて行くと、途中で、海人が公園へ向かっていることに気付いた。

 ひまわりは雨に濡れて走る海人の後姿を見ながら、これ以上尾行することをやめた。

 何らかの事情があるに違いない。それを知る勇気が私にはない。

 海人に渡すために持ってきた傘を見つめ、ひまわりは家へと引き返すことにした。すると、雷が光り雨足が激しくなった。ひまわりは海人と出会った三日前を、ぼんやりと思い出した。

 あの時、海人はどこからやって来たのだろう…

 でも、今のひまわりにはそんなことはどうでもよかった。海人が、無事に自分のもとへ帰ってきてくれることだけを祈りながら、家路についた。

 外は雨が上がり、涼しい夜風が吹いていた。

 ひまわりはクーラーを消して窓を開け、そして、縁側に座り、海人が帰ってくるのをずっと待っていた。すると、誰かがこちらへ歩いてくる足音が聞こえる。ひまわりは、待ちきれずに外へ飛び出した。


「海人さん、おかえりなさい」


 海人はハッとした顔をした後、ばつが悪そうに下を向いた。


「ひまわりさん、ごめんなさい。突然出て行って。そして、こんなに濡れて帰ってきてしまって…」


 ひまわりは、突然いなくなった海人を心配しながら、でも、帰って来てくれた事にホッとして、何も言わずに笑顔で迎え入れた。


 もう、きっと、僕は家族の元へは戻れない…

 もう、僕にはひまわりしかいないのかもしれない…


 ひまわりは優しく海人の手を取り、まつ毛についている水滴をそっと拭きとった。


「早くお風呂に入らないと、風邪をひいちゃう。私は全然気にしてないから大丈夫よ」


 すると、海人はそう言うひまわりの顔を自分に向け、真剣な表情でこう言った。



「実は、僕はひまわりさんに話さなきゃいけないことがあるんだ。

 僕の本当の過去の話を…

 ひまわりさんには、ちゃんと話しておきたいんです。

 驚かないで聞いてもらえますか?」


 ひまわりは不安げな面持ちでうなづいた。お風呂に入る海人を待つ間、本当の過去の話とは何だろうと、ひまわりはずっと考えた。

 海人がもたらす大きな告白は、これからのひまわりの人生を大きく変えてしまうことになるということを、この時のひまわりは何も気づくはずもなかった。


 公園からの帰り道、海人はずっと考えていた。今日のような僕の行動は、これから先もあるかもしれない。しかし、その前に、やはりひまわりには真実を話したかった。これ以上、自分自身に嘘はつけないし、ひまわりには特にそうでありたいと思ったから。

 ひまわりは、こんな僕のことを受け入れてくれるだろうか…

 お風呂を済ませた海人は意を決して、ソファに座っているひまわりの隣に、少し距離を置いて腰かけた。戸惑いを隠せないひまわりの笑顔が、海人の胸を突く。


「ひまわりさん、あの…僕は…」


 すると、ひまわりは急に立ち上がり台所へ行き、コップへ注いだ冷たい麦茶を持ってきてくれた。


「まずは飲んで。海人さん、今日は疲れてるはずだから」


「ありがとう」


 海人は、それを一気に飲み干した。こんな時にも、海人を気遣ってくれるひまわりの優しさに背中を押され、海人はもう一度話すことを始めた。


「ひまわりさん、僕と初めて会った時のことを覚えてる?」


 海人がそう聞くと、ひまわりは小さく頷いた。


「僕は、その、きっと驚くと思うけど…

 僕はひまわりさんに会う前は、実は、全く違う時代で生きていたんだ」


「違う時代?」


 ひまわりはやはり混乱している。


「そう違う時代…

 僕はここに来る少し前まで、1944年の激動の時代を過ごしていた。

 硫黄島という場所で敵と戦っていたんだ。日本軍は窮地に追い込まれてたけど、僕は国家や仲間を信じて必死に戦ってた。その時、真っ赤な光が僕を包んで、僕はどこかに飛ばされた感じがしたんだ。

 一瞬、頭が真っ白になって、そして、目を開けたらひまわりさんが僕を覗き込んでた」


「本当なの?信じられない…」


 ひまわりの頭の中には、あの日の光景が走馬灯のように甦っていた。


「僕も信じられなかったよ。混乱して気がおかしくなりそうだった。

 何が何だか分からなくて、夢を見てるのかと思ったくらい…

 でもあの時、僕の近くにひまわりさんがいてくれた。

 ひまわりさんだけが、僕にとってのただ一つの現実で救いだったんだ」


 海人はひまわりの目を見つめて、そう言った。


「戦争で生きるか死ぬかの生活をしていた僕に、天使が舞い降りたと思ったくらいだった…」


 海人は今でもそう思っている。


「僕のことを、頭がおかしくなったって思ったろ?」


 すると、ひまわりは大きく深呼吸をしてからこう言った。


「ううん…

 実は、本当は、私もずっと変だと思ってた。だってあの日、誰も居なかったはずのベンチに大きな轟音と稲光がして、そしたらそこにあなたがいたんだもの。

 一瞬の出来事で、あまりの驚きに声も出なかった。

 あの日、あの屋根付きのベンチは嵐のような天気のせいで薄暗かったから、本当は私が気がつかなかっただけで、最初から海人さんは座ってたって…

 そう、座ってたって思い込むようにしたの」


 ひまわりの声は震えていた。


「ひまわりさん、違うんだ。僕は過去からやって来た人間なんだ。

 どうやったら戻れるのかも、このままここに居れるのかも何も分からない。

 ひまわりさんを巻き込んでしまって、本当に申し訳ないと思ってる…」


 海人はひまわりの目を見るのが怖かった。

 こんな僕のことを怖がるに違いないと思ったから…


 ひまわりは、海人の告白にかなり動揺していた。何かがあるとは思ってはいたものの、過去から来たなんて想像すらできない。

 でも、ひまわりは軍服をまとっていた海人を思い出した。

 真っ黒に汚れていて、目はうつろだった。思い返せば思い返すほど、海人の告白は真実味を帯びている。

 記憶喪失の方がどんなにかよかっただろう…


「私は時空を超えるとか、過去から来たとか、そういうのはあまり信じない人間なんだけど、でも、やっぱり考えれば考えるだけそうなんじゃないかって思ってしまう自分がいるの。

 あの時の海人さんの格好や、自動車に驚く海人さん、コンビニで困惑している海人さんとか、思い起こせば、全部それにつながってる」


 海人は黙って聞いていた。そして、こんな想像もつかない話を聞いてひまわりが怯えていないか、それだけが怖かった。


「私はなんで海人さんを放っておけないんだろう。海人さんが嘘をついてるとは思えない。私は、たぶん、海人さんに会ったその時から不思議と信用したの。

 離しちゃいけないって、勝手に思った」


 海人はずっとひまわりを見つめている。


 あの時、ひまわりは心から海人を守りたいと強く思った。そして、今の私は全く知らない世界に放り出された海人を、もっと守りたいと心から思っている。


「私は、海人さんが、過去から来たという話を信じます。

 信じなきゃ前へ進めないもの。だから、私には何でも話して…


 そして、海人さんが帰りたいのなら、また過去へ戻れる方法を一緒にさがそう」


「ありがとう、本当にありがとう」


 海人は、こみ上げてくる安堵の涙を堪えきれずに、ひとしきり泣いた。


 ひまわりはそうは言ったものの、まだ半信半疑の自分がいた。


「海人さんは戦地にいたの?」


「うん」


 海人はこわばった顔で、短くそう答えた。

 ひまわりは、海人が戦争の話には触れてほしくないのだと思い、海人の家族の話を聞くことにした。


「海人さんの家族は?」


 海人は少しだけ笑顔になり、ソファに寄りかかった。


「僕の家族は、母と妹二人の四人家族です。父は、下の妹が生まれる前に死んだんだ。僕が13歳の時だった」


 それから、海人は自分の家族の話をたくさんしてくれた。一見、幸せな表情を浮かべているように見える海人の顔に、時折、寂しさがにじみ出る。


 私はふと思った。

 海人のお母さんや妹さんたちは、何も知らずに海人の帰りを待っているはずだと。

 海人を家族の元へ帰してあげなければならない…


 海人はひまわりからの質問に正直に答えた。

 ひまわりが海人の告白を真剣に考えて、受け入れてくれたことに心から感謝していたし、海人の話に一喜一憂しているひまわりがとても可愛くもあった。

 海人は母や妹の事をひまわりに話す時、色々なエピソードを面白おかしく話した。

 貧しい生活だったけれど、いつも笑いが絶えなかったことや、母と妹達が、僕をどれだけ頼りにして愛してくれていたかとか…

 時代は違えど、家族への愛情は何も変わらない。海人はひまわりに話すことによって、母や妹達の顔が鮮明に記憶として甦ってきて、息が詰まりそうだった。

 母さん達は、無事に生きているだろうか…

 かなりの長い時間、海人は自分の話ばかりしていた。そして、ひまわりは納得してこう言った。


「明日から一緒に図書館へ行こう。

 このタイムトラベルについて色々調べなくっちゃ」


 そして、海人は、最後にどうしても知っておかなければならないことがあった。


「ひまわりさん、今度は僕が質問していいですか?


 あの、戦争のことなんだけど…

 1944年当時、僕達日本軍はまだアメリカと戦っていた。

 その時の戦争の結末を教えてほしいんだ。

 これからこの未来で生きていく上で、それだけは知っておきたいって思って…」


 ひまわりは下を向き、そして、一息ついてから話し始めた。


「日本は…

 日本は負けました。

 終戦を迎えたのは1945年の8月…」


 ひまわりの声は震えていた。


「日本は負けたんだ…それも1年後に…」


 海人はあまりの衝撃に呆然とした。


 戦争で見た無残な光景が、走馬灯のように頭を駆け巡る。

 僕はあの戦争でたくさんのものを失った。70年後の今を生きている人々は、あの戦争をもう忘れているのだろうか?

 海人は、この時代で、生きていく自信をなくしてしまいそうだった。

 僕の家族は、故郷は、どうなったのだろう…

 その質問だけは、怖くて、どうしても口に出来なかった。


 今、僕がこうして生活しているこの時代が本物だとすれば、この間まで必死に戦って生きてきた僕や、僕の仲間達の苦しみや絶望は、きっと無意味ではなかったんだ。そう思わなきゃ、この胸の苦しみは、一生癒えることはない。


 でも、なんで僕達が、あんな目に遭わなきゃならなかったんだろう…


 海人は、それ以来、戦争のことは心の奥底に封印した。





























































































































  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る