第4話 友達



 ひまわりの作ったカレーはとても美味しかった。そして、食事の間、二人は色々な話をした。ひまわりの中では、海人は、記憶をなくしていることになっている。海人はそれを利用してたくさんの質問をした。質問の多くは、他愛もない普段の生活のことだった。部屋の中を涼しく保ってくれている天井の近くで動いてる機械は何?とか、彼女が肌身離さず持っている手のひらサイズの電話のようなものは?とか、聞き出したら止まらないほどの数多くの質問にも、ひまわりは快く丁寧に答えてくれた。何も知らない海人の事を馬鹿にすることもなく、海人に分かりやすく、時には身振り手振りも交え、細やかな気遣いの中に優しい笑みを浮かべ、ひまわりは色々な事を教えてくれた。


「ひまわりさんは何歳になりますか?

 女性に年齢を聞くのはいつの時代も失礼なことだとは思うのですが…」


 ひまわりの顔から笑みがこぼれた。


「19歳になります。大学2年生です。

 友達は上手にお化粧とかして大人っぽいんだけど、私はまだお化粧は苦手で、だから年より幼く見られがちなんです」


 はにかんだ笑顔で話すひまわりから、海人は目が離せなかった。


「海人さんは?」


 ひまわりは聞いたと同時に顔を曇らせた。


「ごめんなさい」


 そんなひまわりを見て、海人はおどけたふりをして首を横に振った。


「たぶん、二十歳くらいかな。そんな気がします」


 記憶をなくしてる僕を気遣うひまわりが、気の毒であり愛おしかった。


 こんなに平穏な時間を過ごしたのはどれくらいぶりだろう…

 あまりにも突然の出来事に僕は時間を超えたと思っているけれど、もしかすると僕は死んでしまっていて、彼女がいるこの世界は天国なのかもしれない。


 食後に出された冷たいゼリーというものをほおばりながら、海人は太ももの裏を思いっきりつねってみた。

 痛い…

 ここは本当に現実なんだ…


 かなり夜も更けてきた。


「僕はそろそろ帰らないと。ひまわりさんも疲れたでしょう?」


「え、でも、海人さん、帰るところはないんじゃ…」


 ひまわりは、海人が帰ろうとしていることに、寂しさが一気にあふれ出した。


「海人さんさえ嫌でなければ今日はうちに泊まって下さい。

 奥にある客間はいつもガランとしてて、海人さんがそこに寝てくれれば部屋も喜んでくれると思うんです」


「え、でも…」


 海人がそう言いかけると同時に、ひまわりは奥の部屋へ走っていった。


「海人さ~ん、お布団準備しておきますね~」


 ひまわりの親切な申し出をそのまま受け入れてよいものだろうか?

 そう思うことと相反して、まだ彼女と一緒にいたいと心が叫んでいる。海人は考えたあげく、彼女の言葉に甘えることにして奥の部屋へ行ってみた。真っ白い敷き布団にふかふかの枕、薄手の掛け布団は半分に折り畳んであり、ひまわりのおもてなしに胸を打たれた。

 ひまわりのそばにずっといたい、僕は心からそう思った。


 ひまわりは海人が客間に入るのを見送ってから、リビングに戻りソファに腰かけた。自分の大胆な行動に困惑しつつ、海人がまだここに居てくれることに満足していた。

 さっき知り会ったばかりの男の人を家に泊める私は、きっとどうかしている。

 でも、今の私に理性は働かない。何もかもが本能で動いている。そして、こういう気持ちにどう対処していいのかすら全く分からない。


 ひまわりはホッと一息ついてから、テーブルの上をきれいに片づけた。そして、シャワーを浴びベッドに横になった時は、もう深夜の12時を回っていた。

 しかし、目を閉じてみても、海人の笑顔しか浮かんでこない。


 砂漠と化したひまわりの荒んだ心に、海人は小さな種をまいてくれた。

 その種が芽を出して、つぼみになって、花を咲かせるのはいつのことだろう。

 そして、私の心にその花が咲いた時、私と海人は結ばれているのだろうか?…


 ひまわりはこのまま朝を迎えてしまいそうな状況に戸惑いながら、必死に眠りについた。


 その日の朝は、二人とも早起きだった。ひまわりと海人は一緒に朝食の準備をし、食事をすませ、そのあと海沿いまで散歩に行くことにした。とても天気がよかったので、ひまわりは髪をおろして大きめの帽子をかぶった。


「ひまわりさんは、長い髪がよく似合う。それにお化粧っ気がないことを気にしてたけど、僕は、僕はそのままのひまわりさんがいいと思います。

 いいというか、そのままでもとても綺麗で、今まで僕が見てきた女性の中で一番素敵です…」


 海人はそう言いながら照れくさくなった。

 きっとひまわりのような綺麗な女性は、褒められることに慣れているのだろう。海人は、20歳になっても恋愛経験のない自分を情けなく思った。

 今のこの時代の若者は、きっと僕のようではないはずだから…


 ひまわりは心臓がトクトク高鳴っていた。


「ありがとう…

 そんなことをあまり言われたことがないから、ちょっとびっくりしちゃって。でも、すごく嬉しい」


 顔の緩みが止まらないひまわりを見て、海人はホッとしたような嬉しそうな複雑な顔をして笑った。

 すると、ひまわりは祖父が愛用していた麦わら帽子を海人にかぶせた。鏡に映った海人は、まるで案山子のようだ。ひまわりがくすっと笑うと、海人は怒ったふりをしながら優しく微笑んだ。


 海人の一つ一つの仕草や声にこんなにもときめいている私…

 もっともっと彼を見ていたい。こんな気持ちになるなんて夢にも思わなかった。

 ただ通りすがりに出会った二人なのに…


 朝の散歩は、海人にとって何もかもが刺激的だった。

 国道沿いの街並みや、流線型になった自動車や、人々の装いなど、海人の生まれた時代には想像がつかないほどに未来は進んでいた。そして、こんな平和な時代が訪れることを、自分の家族に教えてあげたいと思った。毎日ひもじい生活をしている妹達は、きっと目を丸くして驚くことだろう。

 妹達は元気にしているだろうか…


「海人さん、海の匂いがしてきたのが分かる?」


 ひまわりの声に、海人は現実へと呼び戻された。


「もう少し歩いたら右側に海が見えてくるの。急に景色か変わるから驚かないでね」


 ひまわりは潮風を大きく吸い込んでそう言った。


 僕の海の記憶は戦争で見た海しかない。真っ青な海を見て、一度も綺麗だと思わなかった。

 孤独で苦しみに満ちた灰色の海…


 海人は関東の山奥で生まれたせいで、海に行ったことがなかった。母の次子は妹達の世話に忙しかったため、海人は小さい時から畑仕事を任されていた。裕福な友達から海水浴へ行ったという話を聞いては、海というものを想像して楽しむほどに憧れていた。

 しかし、今の僕は変わってしまった。海への憧れなどは全くなくなり、幻滅に近い嫌悪感すら抱いている。


 街並みが途切れた先に、腰ほどのブロック塀が見えてきた。ひまわりは、歩道から海へと続く階段を駆け下りていた。


「海人さ~ん、早く~~」


 ひまわりの声は弾んでいる。海人は階段を下り白い砂浜に足をついた時、目の前に広がる光景に思わず息を飲んでしまった。

 平和な世界に広がるこの海は、小さな頃に憧れていたあの海に似ていた。

 戦地で毎日眺めていたあの灰色の暗い海ではない。

 もう死の淵で苦しまなくてもいい、醜くてむごい戦いから解放されたのか?

 目の前に広がる海は、まるで自分の未来を暗示しているかのような、明るい真っ青な海だった。

 海人は裸足になってひまわりを追いかけた。ひまわりは砂浜に腰を下ろして波を見ている。波打ち際まできた海人はひまわりを呼んだ。


「気持ちいい~~、最高ですよ~」


 海人はひまわりの方へ手を伸ばした。ひまわりはズボンに付いた砂を払い、そろりそろりと海へ入る。そして、差し伸べている海人の手をとると、うつむき気恥ずかしそうに笑った。

 僕達は手を繋いだまま、寄せては返す波をずっと見ていた。


 日差しが強くなってきたため、二人は岩場にある日陰で休んだ。ひまわりは麦茶の入った水筒を海人に差し出す。


「ひまわりさんは?」


「私はそんなに喉は渇いてないから、お先にどうぞ」


 海人は一瞬ためらったが、軽く会釈をして喉の渇きを潤した。そして、下をうつむき、小さくため息をついた。


「僕は、ひまわりさんに何もしてあげられない。

 昨日からひまわりさんが僕にしてくれたことを考えると、何十回お礼を言っても足りないくらいなのに。

 僕はあの公園でひまわりさんと会えてすごく幸運だったと思えるけど、ひまわりさんはあの状況で僕のことを置いて行けなかったんだと思うんだ。それなのにこんなに親切にしてくれる。

 僕は自分自身が歯がゆくてしょうがないよ」


 海人は水筒を強く握りしめて、そう言った。


「僕は、以前の僕は、ちゃんと働いていて、裕福ではなかったけど妹や母を養っていた。

 父は早くに死んだんだ。だから僕は一家の主だった。」


「海人さん、思い出してきたの?」


「うん、少しだけど」


 ひまわりはゆっくりと待った。海人が話せるまで焦らずに…

 海人はじっと足元を見つめている。


「僕は、ひまわりさんに何もしてあげられない。僕はこれからどうすればいいんだろう…」


 今、僕が頼れる人は、ひまわりしかいないのは分かっている。

 でも、これ以上、学生のひまわりに迷惑をかけるわけにはいかない。

 じゃ、一人で何ができる?

 海人は途方に暮れていた。


「私は、きっと、海人さんの記憶が戻るまでは放っておけないと思うの。

 だから、海人さんが嫌じゃなければ、私の家でしばらく過ごしてほしいなと思ってる」


「………」


「じゃあ、そうだ。私と海人さんは昨日から友達になった。

 友達だったら、もしその人が住む所がなかったら必ず手を差し伸べるでしょ。お金がなかったら、貸してあげるし、苦しんでたら助けてあげる。


 だって友達だもん。私達は昨日あの公園で親友になった。友達なら、そうだ、海人さんには働いてもらおうかな。

 あの家は祖父が亡くなってから色んなところにがたがきてるの。庭ももっと綺麗にしたいし、雨どいは壊れてるし」


 海人はまだ下を向いている。

 少しの間の沈黙のあとに、ひまわりは海人に見えるように、砂浜に大きく“友達”と書いた。

 海人は驚いた顔でひまわりを見て、しばらくの間、ひまわりが書いた友達という文字をずっと見ていた。そして、海人もひまわりの足元に大きく“友達”と書いた。


 いつか必ずこの恩は返すから。

 僕達の間に何が起ころうとも…






























































































































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