第3話 暮らす



 僕はそれまでひまわりのことをちゃんと見ていなかったのかもしれない…


 ひまわりの温かい手に触れた時、海人はこの時代に来てしまった理由がなんとなく分かった気がした。この奇妙な胸騒ぎと心奪われるひまわりの柔らかい笑顔は、海人の心の根底にある熱い何かを突き上げる。それは、とてつもない大きな力で。


 肩で息をしているひまわりは、必死で呼吸を整えながら海人の様子をうかがっていた。


「こんな僕があなたの家に行くことになったら、家族の人たちが驚いてしまう」


 海人はひまわりの突拍子もない申し出を有り難く思ったが、でも甘えるわけにはいかなかった。


「家族はいません。この夏は、祖父の家に一人で暮らしてるの」


 ひまわりは本当に海人の事が心配だった。

 昨日までの私だったら、きっとこういう事を言っている自分を恥ずかしいと思うだろう。でも、今の私は素直に正直に海人に家にきてもらいたいだけ。


 海人はひまわりの顔をじっと眺めた。

 長い髪は後ろで束ねて、前髪は眉の上でまっすぐに切りそろえている。大きな瞳はすこしたれ目がちで、笑うと口元に小さなえくぼが見えた。


「あの、よかったら一緒に食事しませんか?こんな時間だし走ったらお腹すいちゃった」


 ひまわりはまだ迷って返事をしない海人に、おもてなしの心で提案をした。

 海人は笑顔で和ませてくれるひまわりを見ると、胸が高ぶり、何か見つけていた大切な物を探したような気分になる。

 自分がここへ来た理由、さっきの疑念が確信に変わるのが分かった。


 僕はひまわりに会いにここへやって来たんだ…


 ◇◇


 結局、海人はひまわりの家で夕食をご馳走してもらうことになった。

 ひまわりは海人が不安にならないように、家までの道中一人で喋り続けた。

 海人は公園の階段を下りて、森の中の小道を抜け大きな道路に入った途端、呆然と立ち尽くしてしまった。

 国道に沿って立ち並ぶビルディング。明るく点滅する信号機に、鈴なりになって走る自動車。

 ひまわりにとって見慣れた光景は、海人をただただ驚愕させた。

 しばらく考え込んだ海人は、徐々に落ち着きを取り戻し、ひまわりより先を歩き始めた。

 記憶をなくした人の心情は、ひまわりにはうかがい知ることはできない。


「こんなに素晴らしい世界になっているんですね…」


 海人は小さな声でつぶやいた。

 何の因果があってこんな未来に来てしまったのか?

 起こり得ない現実に海人は身をすくめていた。


 夢ならもう覚めてくれ…

 こんなに素敵で魅力的なひまわりに、心を持っていかれる前に…


 ひまわりは家に帰る前にコンビニに寄った。海人は店には入らず外で待っていた。

 ひまわりは男物のTシャツと下着を買い、リュックにしまってから外へ出た。

 すると、海人は少年のような表情で、コンビニの中を興味津々に覗いている。ひまわりは優しく海人を呼んだ。


「中に入ってみる?」


 ひまわりの問いかけに、海人は恥ずかしそうに首を横に振った。


「僕は汚過ぎです。

 あんなに明るい店の中ではきっと目立ってしまう」


 ひまわりはうんともすんとも言わず、柔らかい笑みを浮かべて、また家へ向かって歩き出した。


 家に着くと、海人は本当に家族はいないのかとひまわりに聞いた。ひまわりは玄関の鍵を開け、真っ暗な家の中を海人に見せた。


「本当に一人なんですよ。祖父母はもう他界しています。

 この家は私と母で大切に守ってるんです。あ、母は今回はいないですけど」


 そう言いながら玄関と廊下の電気をつけ、まだ玄関先で戸惑っている海人に「どうぞ」と入るように促した。海人は玄関先で、何かを思い定めたように背筋を伸ばしてから大きな声で言った。


「お邪魔します」


 海人はそうは言ったものの、まだ家に入る事をためらっていた。

 彼女が抱いている僕への見解は、記憶をなくし名前以外は思い出せない記憶喪失者というところらしい。普通の人間ならば、過去からやってきたなんて想像することさえ皆無だろう。

 海人はひまわりの考えに合わせることに決めた。

 僕がこの先この時代で暮らしていくのなら、それが最善の策なのかもしれない。


 ひまわりの家は整然と片付いていた。

 海人は汚れた靴を脱ぎ、自分の足を見た途端に入るのをためらってしまった。想像していた以上に汚れている。海人はさっきの公園できれいに洗った手ぬぐいを取り出し、ひまわりが見ていない隙に足の裏を丁寧に拭き、靴の中に靴下と手ぬぐいを詰め込んで、それを玄関の隅にひっそりと置いた。

 海人が廊下を抜けて入った居間には、大きなテレビが置いてあった。海人はひまわりの目をはばかることもなく、テレビに電話に珍しい物全てを一心に手で触った。


「これは何ですか?

 電話はなんて言えばいいんだろう。かっこいい…」


 海人はあまりの衝撃に、次々と出てくる言葉を抑えられずにいた。


「それはテレビです。もうかなり古い型なんですよ。祖父母が使っていたものなので」


「テレビ?」


 海人は山ほどある質問を飲み込んだ。知らな過ぎるのも、ひまわりを不安にさせるだけだから。

 ひまわりは不思議そうな顔をしながら海人を手招きして、ソファに座るように促した。でも、海人はおどおどするだけで、中々座ろうとしない。ひまわりは、まずは自分がそこに腰かけて見せた。

 海人はひまわりの心遣いだけで十分だった。


「あ、僕はすごく汚れていて、ここの廊下に座るの大丈夫です」


 ひまわりは遠慮している海人が不憫でならなかった。


「あの…

 お風呂に入りませんか?

 あ、全然遠慮しないでください。さっきお風呂の準備をしたとこなので、もう入れると思います。着替えは、祖父のものでよければ男物は揃っているので心配ないし…」


 そう言って、ひまわりはお風呂場へ走って行った。


「どうぞ~~」


 ひまわりは海人の返事も聞かずに、急かすように海人に声をかけた。

 海人は言われるがまま後をついて行き、ひまわりからタオルはこれでとか石鹸はそこにとか、慌ただしく説明を聞いた。


「ごゆっくり」


 ひまわりは海人にそう言うと、満足気に微笑んでそこからいなくなった。

 その場に残された海人は風呂場をのぞいて見た。

 彼女のためにも綺麗になりたい。自分の体と心にこびりついた過酷で無残な汚れを、ひまわりが洗い流す機会を与えてくれたのだから…


 ちょっと強引だったかも…

 ひまわりは、目をぱちくりさせながら、あれよあれよという間にお風呂に入った海人を思い出していた。汚れているのを気にする海人がとても可哀そうだった。さっき、コンビニで男物の下着を買った時から、もうこの計画は敢行していたのだ。


 海人がお風呂に入っている間に、ひまわりは夕飯の支度をした。今朝作っておいたカレーがあったので、サラダを手際よく準備して冷蔵庫にそれを入れておいた。

 料理好きなひまわりにとって、お客様をもてなすということは何よりも嬉しく幸せなことだ。

 しばらく静かな時間が流れた。

 そして、別人になった海人がひまわりの前に現れた。祖父のバミューダパンツをはきコンビニで買った白いTシャツをきて。


 そして私は…

 胸の高鳴りが止まらない。こんなに素敵な男の人を今まで見た事がない。

 経験したことのないときめきや胸キュンが、一度に全部やってきた。

 これって一目ぼれ??


 海人の色黒の肌は涼しげな目元によく似合っていた。よく見ると片目だけが二重のようだ。鼻筋は通っていて、笑うと口元から八重歯が顔を出す。


「お風呂はとても気持ち良かったです。

 おじいさんの衣類まで貸していただいて本当にありがとう」


「いえ、どういたしまして…」


 こんなにドキドキしている私は、本当に馬鹿みたいだ。


「あ、あの、ご飯食べましょ。作っておいたカレーがあるんです。

 どうぞここへ座ってくださいね」


 そう言いながら、ひまわりは慌てて台所へ行った。そして冷たい水を飲んで心のときめきを押さえ込んだ。今となれば、ときめきの意味が痛い程よく分かる。

 あ~、心臓が破裂しそう・・・


 ひまわりは二人分のカレーとサラダをお盆にのせ、海人の待つテーブルへ行くと、海人はソファの上で恐縮して座っていた。

 もしかしたら正座の方がいいのかな…


「下に座ります?」


 ひまわりは優しく聞いてみた。


「はい」


 海人は笑顔になって、食卓の前まで降りてきた。


「美味しそう…」


 海人はそうつぶやくと、ひまわりに向かって姿勢を正した。


「今日はこんなにもたくさんの親切を、本当にありがとうございます。

 ひまわりさん…

 ひまわりってとても素敵な名前ですね。これからひまわりさんって呼んでもいいですか?」


 海人はひまわりを見つめて照れくさそうに尋ねた。


「はい、海人さん」















































































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