第2話 始まり
しばらく無言の二人だった。
ひまわりはとりあえずもう一度ベンチに腰かけて、横目で海人を観察してみた。
下を向いているが明らかに顔は笑っている。ひまわりは背筋がゾッとした。
すぐにこの場所から退散した方がいいのかもしれない。
ひまわりは外に目をやり雨が上がりつつあるのを確かめると、隣に座っている海人に軽くお辞儀をした。
「私はこれで…」
すると、急に海人は立ち上がりすがるような目でひまわりにこう聞いた。
「すみません、一つだけ質問させて下さい」
「あ、はい…」
「今は西暦何年ですか?」
「え?…」
ひまわりは、もう一度海人の表情を見て悟ってしまった。
もしかしたら、この人記憶をなくしてしまっているのかもしれない。前にテレビで見たことがある。着の身着のままで放浪している人がいた。ある日突然記憶が消える。名前も生年月日も故郷さえも。自分のルーツを思い出せず施設に身を寄せている人もいた。
そんな、可愛そう…
「2014年です。大丈夫ですか?」
恋愛には奥手のはずのひまわりは、このどこから来たかも分からない男の人を放っておけなかった。
ひまわりは自分の中で新しい発見をした。自分に持ち合わせているなんて思ってもいなかった保護本能が、ゆっくりとむっくりと目を覚ましたから。
「2014年?」
海人は大きな声で聞き返した。
僕が硫黄島で戦火にさらされていたのは確か1944年だ。
とすると、70年先の未来に僕はやって来た?
なぜ? どうやって?
海人は何度も自分の記憶を辿ってみた。硫黄島の戦場にいたのが夢なのかこの未来にやってきた今が夢なのか、何度考えても答えがでない。
「あー、いや、えー?」
混乱している海人にひまわりが優しく聞いてきた。
「もしかして記憶をなくしてる?」
「記憶?」
むしろそうでありたい。
「でも、名前は言えたから重症ってわけではないのかも…」
海人は改めてこのひまわりという女性をじっと見つめた。
夕方から夜に変わる一日の中で一番美しい時間が、まるで彼女を引きたてるために訪れたと思わせるくらいに、ひまわりはとても美しく眩しすぎた。
ひまわりはホッとしたせいか笑みがこぼれた。
すると、ひまわりの様子を見て安心した海人はまた質問を投げかけた。
「あの、ここは北関東ですか?」
地元に近ければ何か手がかりを探せるかもしれない。
「ここは九州の南の方です」
小さな声でひまわりはそう答えた。
九州…
地図でしか見たことのない遠い場所。
外は雨が上がり夕焼けが周りの景色をオレンジ色に染めていた。
外へ出ると涼しい夜の風が海人とひまわりを優しく包んでくれる。
久しぶりに味わう穏やかなひと時は、海人を戦争を知る前のあの平和な日々に導いてくれた。
気がつくと、海人は涙が溢れて止まらなかった。
ひまわりは胸が締め付けられる思いをしていた。海人に事情を聞いたわけでもないのに胸が切なくて苦しい。ひまわりはいつもの癖で大きく手を伸ばし深呼吸する。
平常心を保つこと。
それは小さい時からのひまわりのおまじないだった。
時間は確実に流れている。
いつの間にか夕焼けが橙から紫に変わっていく。
必死に声を殺しのどをつまらせて泣く海人の姿は、あまりに切なすぎた。
ひまわりはもう一度大きく手を上げて深呼吸をした。悲しみが吐息と一緒に出ていくような気がするから…
すると、下をうつむいていた海人は、ひまわりの動きを見てちょっと笑った。
「深呼吸をするとすっきりするんです」
「そうなんですね」
そう言うと、海人も大きく深呼吸をした。胸一杯にたくさんの空気を吸い込んで大きく吐き出した。そして、海人は満面の笑みを浮かべてひまわりを見た。
この人は僕に不思議な力を与えてくれる…
「もうそろそろ帰った方がいいかもしれません。暗くなってきたし…」
海人は暗くなり始めた空を見ながら、ひまわりにそう言った。
「あなたはどうするんですか?」
私の事より自分の心配が先なはずなのに…
「僕は今日はここで過ごします。水道もあるしベンチもあるので」
ひまわりはそう言う海人をじっくり見てみた。とても汚れた衣服をまとっている。それはテレビや映画で観たことがあった。戦時中に、若い男の人が身に着けている軍服に似ていた。
ひまわりは不思議な感覚を覚えながら、後ろ髪をひかれつつ家路についた。
◇◇◇◇
ひまわりを見送った後、海人は水道を探し冷たい水で顔を洗った。ずっと脱ぎ捨てたかった軍服を上着だけ脱いでみた。海人は泥と汗と仲間の血がしみ込んでいる上着をきつく丸めて水道台の上に置いた。
そして、持っていた手ぬぐいをしっかり洗い、きつく絞って体中をふきまくった。
この星空の下、誰も僕を知らない。
何かの拍子に時間をまたいできてしまった僕は、今のこの幸運を神に感謝をするだけだ。
もう戦地には戻りたくない…
高台の公園から見える街の明かりがとても美しく、海人はしばらくずっと眺めていた。
これから、僕はどうすればいいのだろう?
考えれば考えるだけ不安が波のように押し寄せてくる。
海人はもう一度水道の蛇口をひねり冷たい水を口に含み、そして更に蛇口を全開にひねり流れ落ちる水の中に頭をつっこんだ。
ひとしきり水に打たれた海人は、ようやく頭をあげて顔を拭いた。水の中で呼吸を整えながら何も考えずにいたせいで、少しは元気を取り戻せた気がする。
海人は丸めた上着をわきに挟み、頭や顔を手ぬぐいでこすりながらベンチへ向かうと、息をきらしながら階段を駆け上るひまわりが遠くに見えた。
海人はまだ会って間もないこの女性が、これからの自分の運命を握っている大きな存在であることを、少なからず感じていた。
ひまわりは海人と別れてからずっと早歩きで帰った。
ほっといて帰っていいの?と心配する自分と、関わっちゃダメと突き放す自分が、頭の中で言い合いをしてる。
国道の交差する三叉路で信号待ちをしている時に、ひまわりはやっと自分の気持ちに素直になれた。
気になってしょうがない…
ひまわりにとってそれは記憶喪失かもしれない海人を案じての気持ちなのか、海人の屈託のない笑顔が忘れられないだけなのか、考えても考えても出てくる答は一つしかない。
もう一度会いたい。
まだ、あの公園にいればいいのだけれど…
ひまわりは焦る気持ちを抑えながらただひたすら走った。小さい時から走るのは大の苦手なはずなのに、1分でも1秒でも早くあの公園に戻りたかった。
私が守ってあげる…
なぜだか分からないけれど、心の底からそう思える事が不思議で心地よかった。
「ハァ、ハァ、ハァ…」
ひまわりがやっと階段を上り終えて前を向くと、そこにはびしょ濡れの海人が立っていた。
「よかった、まだここにいてくれて。
ハァ、ハァ…」
ひまわりはとうとう座り込んでしまっていた。
「大丈夫ですか?」
走り寄って手を差し伸べてくれた海人は、顔を洗ったせいかひまわりには別人のように見えた。
「僕を心配して戻ってきてくれたんですね?」
海人はひまわりをベンチまで運んでくれた。濡れた雫が海人の丸刈りの頭からポトポトと垂れている。公園の灯りによって照らし出された海人の顔は、ただただ美しかった。
ひまわりは高鳴る鼓動にとまどいながら、とうとう言ってしまった。
「よかったら家に来ませんか?」
恋に落ちるというものがどういうものなのか私は知らない。
それはきっと過ぎ去ってしまった後に思い返すことなのだろう。
海人に知り会えたこの日を私は決して忘れない。
神様は幸せと苦しみと試練を同時に私に与えた。
でも、初めて愛する人が海人でよかった…
ううん、海人じゃなきゃ私はきっと誰も愛さなかった。
私の静かな日常がここから変わる…
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