あの夏に僕がここへ来た理由
便葉
第1話 出会い
最近の僕は、ぼんやりとある光景を思い浮かべることで癒しを求めている
この窮屈な洞窟の中。
僕の人生は一体どうなってしまうのだろう。
…幸せになりたい…
人間の根源にある密かな願いさえ、今の僕達には儚い夢なんだ。
愛する人と出会い、恋に落ち、結婚する。
切ない僕の夢はきっと叶う事はないだろう…
◇◇
夏休みになると、ひまわりは必ず訪れる。
大好きな祖父母が住んでいた小さな一軒家。
今年は初めて一人で訪れた。
3年前、離婚により女手一つでひまわりを育てることになった娘の好子を案じながら、先に天国で待つ祖母の元へ旅立った祖父。
一人っ子だった好子と、一人っ子の好子の娘ひまわりは、祖父母の思い出が詰まったこの家を手放すことができずにいた。
そして、そこは好子とひまわりの癒しの場所になった。
ひまわりはここへ来ると、必ず最初に庭の手入れにとりかかる。
庭の手入れは、いつも心を軽くしてくれた。
内向的なひまわりは、小さい時から忙しい母に気を遣う日々だった。
父と母が別れを決めた朝も、ひまわりは何も言わずにうなずいた。
本当は父の事が大好きだったけれど、別れてほしくないという気持ちは胸の奥に押し込み封印した。
そして、ひまわりは祖父の家を季節に応じてささやかな模様替えをする。
夏には風鈴をかけリビングにはござの敷物を敷き涼しさを演出した。
穏やかに過ぎて行く時間。
19歳のひまわりは、年の割には落ち着いて見られる事が多かった。
可愛いというより綺麗で端整な顔立ちがより一層そういう雰囲気を醸し出した。
性格も大人しい上に人見知りでもあり、自分の殻に閉じこもる事に居心地の良さを感じていた。
大学に通ってはいるけれどこれといって仲の良い友達もいない。
母との二人暮らしのせいで一人でいることには慣れている。
自分のペースでいられることが唯一の楽しみ。
彼氏?
今のところ必要ない。
必要ないというところで本気で人を愛したことがない事が分かる。
本気で人を愛すること。
そんな時が私に訪れるとは考えられない。
でも、少しは憧れる。
何もかも投げ捨てて人を愛するってどういう感じなんだろう…
その日は、蝉の声が倍に聞こえるほどの暑さだった。
いつもの海岸沿いの道への散歩を珍しく変更したひまわりは、小さい頃によく祖父と一緒に出掛けた小高い丘の上にある公園まで行くことにした。
夕方前に出発し夏特有のスコールを想定して折り畳みの傘は忘れずに持った。
古びた階段の近くまで辿り着いたところで、案の定空の色が変わってきた。
ひまわりは階段を上った先に東屋風のベンチがあったことを思い出した。
一目散に階段を駆け上り、大粒の雨がポツポツ降り出すと同時にベンチに滑り込むことができたが、建物の中のベンチは想像していた以上に小さくカビくさい。
空はあっという間に暗くなり、遠くに雷の音が聞こえる。
ひまわりは不気味さの中で何故か心臓の高鳴りに戸惑っていた。
薄気味悪い空気がひまわりを取り囲み、雨の音が誰かの声に聞こえてくる。
その中で携帯の明かりだけが、ひまわりを落ち着かせ勇気づけてくれた。
その時、急に外が真っ赤に光った。
◇◇
今、僕は、どこまでも続く大海原を背にして立っている。
あの日、海人は母と畑仕事に精を出していた。
そしてその日、届くはずはないと思っていた召集令状は父親のいない海人の家にも容赦なく訪れた。
夫に先立たれた母は僕の成長を何よりも楽しみにし、幼い妹達にとっては僕は兄であり父親のような存在でもあった。
終わりの見えない戦争で僕達家族は身も心も限界にきていた。
そんな中で僕の存在はこの家族の唯一の支えだった。
それなのに・・・
急に訪れた別れにも母の次子は気丈にふるまいいつものように日常を過ごし、海人の前では一度も泣かなかった。海人の一番下の妹は、どこに行くにも海人の後をついてきた。まるでもう永遠に会えないと分かっているかのように、海人にまとわりつきおんぶをせがんだ。
海人も少しでも皆に心配をかけないよう冗談を言って妹達を笑わせ、そしてその幼い妹達にたくさんの話をした。戦争のない日々が必ずやってくること、幸せになる権利があること、たくさん本を読んで勉強して自分自身を高めること。小さな妹達にどれくらいの事が伝わっているのかは分からないが、それでも海人は時間を見つけては話して聞かせた。
海人は学校へはほとんど行けなかった。たまに行ける日があると人一倍勉強し図書館でたくさんの本を借りた。毎日学校へ行ける友達が羨ましかったが、でも自分の父親のいない運命を嘆くことはせず素直に受け入れた。
海人は自分が毎日夢に見ている平和な未来は必ず訪れると信じていた。そして、出征する前日まで、母や妹達にその日が来るまで頑張ろうと前向きに笑顔で声をかけた。「僕もその頃には必ず帰って来るから」と不確かな約束をして。
出征する日は晴天だった。それだけで気分がよかった。
海人は大きな声で母の次子にお礼を言い、そして妹達に笑顔を見せ、集まってくれた近所の人達に丁寧に頭を下げると、振り向きもせずに歩き出した。
後ろで妹達が泣いているのが分かったけれど前に進むしかなかった。
しばらく歩いていると母の声が聞こえたような気がして、海人は振り返り道の向こうに目をやると、やはりそこに母の姿があった。
ずっと僕を追いかけてきたのだろうか?
遠くに見える母は肩を震わせ泣いているようだ。
「お母さん、僕は必ず生きて帰ってきます」
言ってはならない言葉を、海人は何度も心の中でつぶやいた。
今、海人がいる本土から遠く離れたこの島は地獄絵図のような戦場と化していた。
そして海人は相次ぐアメリカ軍の容赦ない攻撃に、心がくじけそうになる毎日を送っていた。
とてつもない恐怖に追い込まれ叫びたくなる日々に早く終止符を打ちたい自分がいる。でも、それでも僕は戦わなければならない。
それが僕の運命なのだから…
すると、空に稲妻が走ったかのごとく耳元で轟音が鳴り響いた。
するどい光に目を奪われ辺りが真っ暗になった。
僕は死んでしまったんだ…
◇◇
僕の思考回路が正しければ、ここは天国ではないし、僕は死んでいない。
そして、隣でぽかんとしているこの女性は、一体誰なのだろう?
ここは防空壕なのだろうか?
でも、ひとつだけ確信できることがある。
僕は生きている、生きているんだ。
嬉しくて立ち上がった海人に、ひまわりは驚いて一緒に立ち上がった。
「初めまして、僕は木内海人と申します」
声が出る喜びに、海人はつい彼女の手を握ってしまう。
「は、はじめまして、田中ひまわりです」
海人はその時ぽかんとした顔で固まっているこの女性は、もしかしたら天使なのかもしれないと真剣に思った。
でも急に海人の頭に戦場の光景が浮かんできた。さっきまで死に物狂いで戦っていたあの地獄が。
僕は頭がおかしくなったのか?
でも仮に僕が生きているのだとすれば一体ここはどこなんだ?
そしてこの綺麗な女性はなぜ僕の近くにいるのだろう?
ひまわりは驚きのあまり声も出なかった。
「……」
とっさに自己紹介はしたけれど、この人は誰?
雷が落ちたかと思って目を閉じた間にやってきた?
ひまわりは直立不動のままで謎の男をじっと見ていた。何やら挙動不審のようにも見える。大きな目を見開いて不思議な顔であたりを窺っているこの人も、きっと何が起こったのか分かっていないに違いない。
雷が落ちると思った瞬間、轟音とともに建物が大きく揺れた。
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