歌棄 ウタスツ

佐々木タマミ

第1話

 歌を捨てられる町があると、月に一度の歌会の帰り道に、ある年配の先輩歌人がそっと教えてくれました。

 私の歌が行き詰っていることはだれの目にも明らかでした。私は若いときに分不相応な注目を浴びて、ずいぶんちやほやされもしましたが、今となっては花と思っていたものは砂に変わり、道と思っていたところは干上がった涸れ川にすぎず、このままどこまで歩いてももう人の胸を突く歌は詠めそうもないのでした。

「古平のウタスツの海岸に行けば、どんな歌でも捨てられるらしい。猫の子でも捨てるみたいに、捨てて来るのだそうだ。札幌からなら余市を抜けて海沿いにまっすぐ雷電国道を行けばいい。海水浴場の無料駐車場に停めて、と言っても海水浴シーズンをはずせば車を停めているのは歌を捨てに来た人ばかりだそうだが」

 私が礼を言うと

「手術と一緒だ。悪いものは取ってしまったほうがいい」

その歌人は目を伏せてそそくさとタクシーに乗り込んで行きました。

 

 それからひと月ほどのち、晩秋になってようやく決心がつきましたので、私は最後に作った歌を書いた短冊をかばんにしのばせて、古平町にある歌棄海岸を目指して出かけて行きました。

 よく晴れた日でした。しばらく車を走らせるとやがて窓の外に穏やかな海が顔を出しました。沿道の木々は葉っぱを半分以上も落として骨があらわになっており、鏡のように敷き詰められた海面の光が私の右側をどこまでも続いているのでした。小樽のあたりでは重く金属めいていた海の色がいつしか明るい碧色に変わり、高い建物も無くなって空と海ばかりになりました。古平に入るとまもなく歌棄海水浴場の看板が現れました。私は先輩歌人に教えられた通り、無料駐車場に車を停めました。

 そこは遠浅の小さな海水浴場で、コンクリート製のごく低い防波堤を越えて砂浜へ下りて行くとすでに七、八人の先客が等間隔にぽつんぽつんと立ち並び、じっと海をみつめているのでした。私は彼らの端にやはり少し間をあけて立ちました。海は水が透き通って底の景色がよく見えました。冷たいゼラチンのような海草のかたまりがごつごつした礫の隙間にいくつもゆらめいています。

 波音ばかりが繰り返し寄せては引いて行きました。


 突然一人の若い女性が歌い出しました。

 それは高く澄んだ声でころころとこぶしが回る、晴れやかな演歌なのでした。人形のように小柄で華奢な体のいったいどこからこんな強い声が出るのだろうと聞きほれているうちに、女性は三番まで歌い終え、周囲を見渡して深々とお辞儀をしました。自然と拍手が起こりました。女性がにっこり笑うと、その卵のように白く小さな顔には小じわがいっぱい浮かびました。

 私の隣にいたのは三十をいくつか過ぎているらしい青年でした。彼は私に人懐っこい笑顔を向けました。

「僕はパンクをやっていたんです」

「パンクというとどんな音楽ですか」

「僕がよく言われたのは、『ゆず』がグレたみたいだねと」

 何と返事をすればいいのかわからず、私はあいまいにうなずきました。

「あなたはどんな歌を捨てに来たのですか」

 今度は青年が尋ねる番でした。私は肩掛けかばんから金糸を漉き込んだ短冊を取り出しました。

「私は、歌は歌でも短歌なのです」

「短歌ですか。そういえば短歌も歌ですね」

「私のはすぐに済みます」

 私は深呼吸し、沖の水が碧色と鈍い青色に塗り分けられた境目あたりに目をやりました。

 本当にここへは歌を捨てにやって来たのですから、ぐずぐずしていても仕方がありません。並んでいる人々は覚悟を決めた順にああやって一曲歌うつもりらしいのです。私の場合は簡単ですから、あまりほかの人の邪魔にならないように、さっさと済ませてしまったほうがいい。私は思い切って波打ち際まで進み、腰をかがめて、やって来たひときわ大きな波の手のひらにそっと短冊を載せてやりました。短冊は吸い込まれるように波に飲まれ、あっという間に手の届かないところまで運ばれて、やがて見えなくなりました。

「流れて行きました」

 そう言って振り返ると青年は気の毒そうな顔をして

「どんな歌だったのですか」

 ともう一度尋ねました。

「それは ……ああ、忘れてしまいました。もうすっかり忘れてしまいました」

 私は今や自分が最後に詠んだ歌のことを一文字たりとも思い出せなくなっていたのです。

 かもめが一羽、私たちのすぐそばまで寄って来ました。

 青年は少しばかり怖気づいた様子でした。

「捨てられた歌はどこへ行くんでしょうね」

 波の中に私の短冊を探すようなそぶりをしながら彼はだれに問いかけるでもなく呟きました。

「歌なんかはじめから無かったのかもしれません」

 私はそう言って、歌棄の浜を後にしました。


 防波堤を越えると犬を連れたお婆さんが

「終わりましたか」

と声をかけて来ました。

「はい」

私がうなずくと

「みなさん帰りはすっきりとした顔をしておいでです」

とやさしく微笑んでくれました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

歌棄 ウタスツ 佐々木タマミ @ssktamami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ