8月(3)濡れ衣

「いえ! 違います! この子が勝手に私の手を取って顔を引っ掻いたんです!」

 力強いその反論に、実穂と美奈が引きずられる様に美幸を非難し始める。


「そうよ! 全部この子が仕組んだんだから!」

「本当に性悪女だわ!」

「違います! この人達に無理やり引きずり込まれて、殴られた拍子に切れたんです!」

「どこまで嘘を吐けば気が済むの!」

「見解の相違はともかくとして……、取り敢えず、事実確認だけはさせて貰いたいわね」

「柏木課長!」

「どうしてここに?」

 ここでいきなり割り込んできた女性の声に再び人垣が崩れ、その向こうから真澄が現れてゆっくりと歩み寄った。それを認めた途端、清川が益々顔を顰める。

 真澄はちらりと清川の様子を窺ったものの、それを無視して穏やかな口調で語りかける。


「新人に仕事を頼んだら、なかなか帰って来ないからどうしたかと思えば、ここのフロアで騒ぎになっていると、うちに教えに来てくれた人がいてね」

「何ですか。この嘘吐き女を庇うつもりですか?」

 理彩が目つきを鋭くして睨みつけたが、真澄はどこ吹く風で淡々と話し出した。


「庇う? さっきも言った様に、私は事実確認をしたいだけよ。まず一つ目。私は藤宮さんに総務部の杉本課長に書類を持って行って貰ったんだけど、用事は済んでいるのかしら?」

「は、はいっ! これですっ!」

「ああ、内容は確認して、必要書類を入れておいた。後から確認してくれ、柏木課長」

 流石に美幸も真澄の登場に度肝を抜かれながら、慌てて立ち上がって抱えていた封筒を真澄に手渡すと、人垣の中から先ほど美幸とやり取りをした課長の杉本が補足説明を加える。それに真澄は軽く礼を述べた。


「分かりました。ありがとうございます。……それで? あなた達は全員、このフロアの所属なの? 見たところ、明らかに違うフロアの人間が居るようだけど」

 何気なく話の矛先を変えた真澄に、周囲の冷たい視線が揃って女達に向けられ、流石に彼女達の顔が強張った。


「それはっ……」

「……たまたま」

「わざわざ違うフロアのトイレを利用しようとして、たまたまかち合ったわけね」

「そ、そうで」

「幸いあそこに、ここの廊下を撮っている監視カメラがあるわ。さっき藤宮さんが言った様に、彼女が引っ張り込まれたのか、あなた達が偶然居合わせたのか、それを見ればはっきりするわね」

「…………っ」

「それはっ……」

 淡々と述べた真澄の言葉に一瞬頷こうとしたものの、少し離れた通路の上に取り付けられている監視カメラを冷静に指差され、皆一様に押し黙った。しかし真澄は変わらぬ口調のまま、続けて確認を入れてくる。


「二つ目。藤宮さんは殴られたと言ったけど、実際は殴られていないのかしら?」

「…………」

 流石に後ろ暗い所がある面々は一様に押し黙ったが、真澄は小さく肩を竦めて話を続けた。


「さっきのカメラの件もそうだけど、本当の事は自ずと分かるものよ。散々嘘を吐いた挙げ句、後から『実は違いました』なんて言ったら、それだけ上司の心証が悪くなるだけだと思うのだけど? 勿論、連帯責任としかいえない状況だったのなら、別に誰がどうのと無理に言わなくても構わないわ」

 そう穏やかに真澄が言い諭すと、いきなり美奈が弁解し始めた。


「たっ、確かに仲原さんが殴ったのは事実ですけど! その子が生意気な事を言ったからですっ!」

「ちょっと!」

 いきなり自分の名前を出した美奈を理彩が睨んだが、他の者達も口々に同意した。


「そうです! 私達がここに来たのも、仲原さんが『例の生意気な子を捕まえたから、ちょっと懲らしめてやるわよ』ってメールをよこしたから!」

「他の人に邪魔されない様に、清掃中の看板を出してたのも仲原さんですし!」

「良く分かったわ。殴ったのは仲原さんで、あなた達は揃って傍観していただけと、そういう事かしら?」

「はい」

「そうです」

「…………っ!」

 あっさりと裏切られて理彩が歯噛みしたが、真澄は理彩の様子には構わず、淡々と話を続けた。


「じゃあ三つ目の質問だけど……、藤宮さんの顔の傷は、彼女に言わせれば藤宮さんが彼女の手を取って、自分で傷付けただけと言っているけど、それに間違いは無いの?」

「それは……」

「さあ……」

「あら、どうしたの? あなた達の目の前で起こった事でしょう?」

 互いに困惑した顔を見合わせるだけの面々に、真澄はわざとらしく問いを重ね、理彩は苛立たしげに叫んだ。


「ちょっとあなた達! ちゃんと否定しなさいよ!」

 しかし他の者達は、煮え切らない返事を返す。

「だって、ねぇ……」

「仲原さんが私達に背中を向けていたので、その陰で良く見えなくて……」

「その子と、取っ組み合う格好になっていましたし……」

「仲原さんの手を、その子が掴んで押さえたみたいですけど……」

「それなら、どうして藤宮さんの顔に傷が付いたのか、はっきり見ている人は誰もいないと言うわけね?」

「はい」

「そうです」

「…………っ!」

 真澄の確認に自分以外の皆が頷くのを見て、理彩は怒りで全身を振るわせた。そんな理彩に向き直り、真澄が笑顔で話しかける。


「それなら最後の質問だけど……、仲原さんと言ったわね」

「……はい。そうです」

 その笑顔に危険な物を感じた理彩が警戒しながら頷くと、何を思ったか真澄は微笑みながら理彩の右手を取って少し持ち上げた。


「爪、綺麗に手入れしているわね」

「はぁ……」

「……だけど、右手中指の爪だけ少し欠けているのは、いただけないわ。どうしてここだけきちんとしていないの? ここで顔が切れたみたいね。仕事中に、ここだけ欠けたの?」

「……え? ……そんな!?」

 慌てて理彩が自分の手を見下ろすと、確かに右手中指の爪の先端だけ僅かに欠け、朝には無かった角ができていた。理由が分からないまま呆然としていると、ここで冷え冷えとした真澄の声と眼差しが降りかかる。


「それとも…………、偶然を装って、わざと欠けさせておいたとか? これなら確実に、顔は切れるわね」

「そんな事は!」

 慌てて否定しようとした理彩の耳に、周囲の男達の囁き声が聞こえてくる。


「……おい、聞いたかよ」

「うわ~、女ってこえぇ~」

「あれってさ、全員、城崎絡みだろ……」

「あっちは企画二課の新人だよな? って事はあれか?」

「嫉妬で集団で苛めかよ。ガキじゃあるまいし」

 非好意的な視線が自分達に突き刺さっている事を自覚し、理彩達は真っ青になったが、ここで真澄は理彩の手を放し、冷静に清川に声をかけた。

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