8月(2)売られた喧嘩は三倍返し
(喧嘩は三倍返しが基本よね……。課長に対する暴言への落とし前は、きっちり付けて貰おうじゃないの!)
内心、そんな先頭意欲満々で、美幸はわざとらしく笑ってみせた。
「そうですね。あれだけ有能な課長の下で働けるのは、あれだけ有能な係長じゃないと務まらないんでしょう。だから課長を見慣れた係長がそこら辺の平凡って言うか、阿呆っポイ女が物足りなく見えて、見向きもしなくなったんでしょうし」
「何ですって!?」
「幾ら何でも失礼でしょうが!?」
「先輩に対して、その口のききかたは何!?」
気色ばむ女達にも顔色を変えず、美幸は冷静に話を続ける。
「だってそうでしょう? どうして歴代恋人と恋人志望がつるんでるんですか? 全っ然、意味が分かりません。挙げ句、同じ課に配属された私が羨ましくて、つるし上げですか? それなら自分で配属希望を出したら良いじゃないですか。二課は慢性的に、人手不足なんですから。そんな狭量でセコい考えの持ち主だから、係長に見向きもされないんですよ。先輩だから敬意を払えっていうなら、敬意を払うだけの行いをして欲しいですね」
あからさまに馬鹿にした口調で言い切られ、トイレ内の雰囲気は一気に険悪になった。
「ちょっと下手に出てれば、この女!」
「ふざけんじゃないわよ!」
「私達はね、仲原さんなら城崎さんの相手として納得出来ると思ってたのよ!」
「それなのに数段見劣りするあんたが横から割り込んできて、ちょっかい出して来たんでしょうが!?」
「何の事だか、皆目見当がつきませんが?」
単に城崎に指導されているのが面白く無いのだろうと考えていた美幸が本気で首を傾げると、香織が怒鳴りつける。
「惚けるつもり? あんたと同期の子達に確認させたら、あんた城崎さんと毎週の様にデートしてるって、散々のろけたそうじゃない!」
「……はい? 私別にのろけてなんかいませんし、第一デートなんかしてませんけど?」
(ああ、あれか……。だけどきちんと説明したつもりだったのに、どこがどうなったらのろけてるって事になるのよ。本当に伝聞って、当てにならないわね……)
美幸としてはその時事実を正直に述べたつもりだったが、それで周りは更に激高した。
「お黙り! ネタは上がってんのよ?」
「白々しい……、本当に上が社長令嬢の立場でごり押しするふてぶてしい女なら、下もちょっと可愛くて若いからってチヤホヤされていい気なってる身の程知らずの女ね」
(へぇ……、課長を二度も貶して、タダで帰すわけには行かないわよねぇ……。これは濡れ衣の一つや二つ、きせても文句を言われる筋合いではないわね。決定)
心の中でそんな事を考えて容赦ない制裁方法を決めた美幸は、ここであからさまに相手を煽る様に言い出した。
「そうですねぇ……。私が皆さんより多少可愛くて、相当若いのは分かっていますが、それをご自分ではっきり口に出すのはどうかと思いますよ?」
「なっ!?」
「だって……、そんな若くてちょっと可愛い子に嫉妬するなんて、皆さんはもう若くなくて可愛くも無いって事じゃないですか。自分で認めるのって、痛すぎますよね?」
そこでにっこり笑った美幸の左頬が、バシッと派手な音を立てた。さすがに周囲が顔色を変える中、険しい顔で平手打ちしてきた理彩を、美幸が薄笑いで見やる。
「はっ……、やってくれましたね?」
「それがどうしたのよ! 泣きもしないなんて、とことん可愛げが無いわねっ!」
「じゃあ泣いて差し上げますよ。格好がつきませんしね」
「はぁ?」
小さく肩を竦めた美幸は、赤くなった頬には構わず、上着の右ポケットから小さな目薬の容器を取り出し、書類を抱えたままの左手で蓋を押さえて外し、右手で両眼に点眼した。その間他の者達は、呆気に取られて美幸の行為を眺める。
「……っつぁ、きっくぅ~」
「何やってんの? あんた」
「下準備ですよ? 次はこうやって、と!」
ボロボロと涙を流しながら不敵に微笑んだ美幸は、目薬を右のポケットに入れるのと入れ替わりに防犯ブザーを取り出し、左手に本体を持ち変えて紐を思い切り引っ張った。当然の事ながらその途端、ピーッピーッと甲高い警告音が、トイレ内に響き渡る。
「なっ、何やってるのよ!」
「こうするのよ」
「きゃあっ、ちょっと!?」
動揺する女たちには目もくれず、美幸はたじろいだ理彩を突き飛ばしてトイレの入り口のドアを開け、その隙間から廊下に防犯ブザーを投げ捨てた上で、今度は自分がドアを塞ぐ形で背中で寄りかかりながら、壮絶な悲鳴を上げた。
「きゃあぁぁーーっ! 助けてぇぇーーっ!」
「ちょっと! 何するのよ!」
フロア中に響き渡りそうな悲鳴を上げながら、美幸は理彩の右手を書類を持ったままの左手で抱え込む様にして掴んだ。そして理彩の体の前で体を折る様にしながら、絶叫を続ける。
「人殺しぃぃーーっ! やだぁーっ! 助けてぇぇっ!」
「何言ってるのよ! 人聞き悪いわね。離しなさいったら!」
何とか理彩が振り払おうとしているうちに、騒ぎを耳にした室内の人間が廊下に出てきて、トイレの前に集まり始めた。
「おいっ! 何かあったのか!?」
「どうした!? ここを開けろっ!」
美幸が体で押さえている状態のドアを叩かれながら誰何され、理彩達が咄嗟に対応できずに固まっていると、美幸が小さく理彩に告げた。
「じゃあ、お望みどおり、離してあげるわよ」
「っ! え!?」
一瞬右手を掴む力が緩んだと思ったら今度は指先を掴まれ、理彩の指先が勢い良く美幸の頬を滑った。そしてその跡が一本の線として残り、理彩が呆然としているうちに血が滲み出てくる。
そして上半身を起こした美幸が、理彩の体の横からその後方に視線を向けると、そこに佇んでいた女達は流石に顔色を変えた。
「きゃあっ!」
「ちょっと!」
「あなた顔がっ!」
そこで呆然としている女達を尻目に、美幸は素早くドアをすり抜ける様にして廊下に転がり出た。
「きゃあぁぁっ! た、助けて下さいっ!」
膝を付いて、目の前にいた人物を見上げて涙目で助けを求めると、その美幸の顔を認めた面々は、揃って顔つきを険しくした。
「一体何……、おい、君!」
「顔が切れてるぞ、大丈夫かっ!?」
「何があった?」
「……って、……にや……ればっ、……のでぇっ……」
そこでしゃくりあげながらトイレを指差した美幸に、既に人垣になりつつあった者達が、鋭い視線をトイレに向ける。
「おい、落ち着いて話せ」
「トイレに誰か居るのか? 確認しろ!」
「…………」
そこでいつまでもトイレに篭っているわけにもいかず、ぞろぞろと理彩を先頭に中にいた女性達が強張った顔つきで出てきた。それを目ざとく見つけた同僚の一人が、厳しい声で理彩を問い質す。
「仲原? お前こんな所で何やっているんだ?」
「この子の怪我、お前達か」
「もうすぐ終業時間って時に、違うフロアの人間が、どうしてトイレで集まってるんだ?」
総務部だけではなく、他の部署の者達からも責める様な視線を向けられ、理彩達は狼狽しつつ責任転嫁を図った。
「こ、これはその……」
「だっ、だいたい、その子が生意気だからよっ!」
「そうよ! 目薬まで使って泣き真似なんかして」
「私っ! そんな事してませんっ!」
「はぁ? カワイ子ぶってるんじゃ無いわよっ!」
「ポケットに入れたのを見たわよ? 取り出して!」
「きゃあっ!」
「おい、止めないか!」
「お前達、いい加減にしろ!」
三人がかりで美幸に組み付き、左右のポケットに手を突っ込んだのを見て、周囲の男たちは一瞬遅れてあわてて彼女達を美幸から引き剥がした。しかしポケットの中身を表に出しても中には何も入っておらず、理彩達が呆然となる。
「……無い」
「そんなバカな! こっちは?」
「だからそんな物持ってないし、してないって言ったじゃ無いですかぁぁっ!」
「おい、どこが嘘泣きだって?」
「お前らの行為で、十分泣かされていると思うがな?」
益々周りからの視線が冷たくなる中、実穂が血相を変えて美幸に組み付いて恫喝した。
「どこに隠したのよ、あんた!?」
「いい加減にしろ!! 何をやってるんだお前等は! ここは職場だぞ? 喚きたいなら帰ってからにしろ!」
「部長……」
廊下に一際轟く怒声と共に人垣が割れ、総務部長の清川が現れた瞬間、その場に不気味な静けさが漂った。すると清川は、如何にも不機嫌そうに吐き捨てる。
「はっ! これだから女と言うのは度し難いな。仕事もロクに出来んくせに、騒ぎを起こすのは得意と見える。しかも刃傷沙汰か? その顔の傷は、誰がやった」
横柄に廊下に座り込んでいる美幸を見下ろしながら、清川が理彩達を眺め回すと、その中の何人かが居心地悪そうに、ボソボソと言い出した。
「……それは」
「仲原さんが……」
「お前か? 仲原?」
うっとうしそうに清川が確認を入れると、理彩は弾かれた様に顔を上げて反論した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます