〈女児向け×アニメ=プリティだんべる〉
「プリティだんべるぅ!?」
家路を歩むころねは、素っ頓狂な声を上げた。
「そうなの。プリティだんべるなの」
ころねを驚嘆させたのは、同級生の小森奈央美(こもり なおみ)だった。
締まりのないゆるゆるな笑顔と脳味噌が特徴的で、カピバラに似ている、と顔を合わせる度にころねは思う。
「あたしのおにぃが好きなアニメで、再来週に声優さんがカンミデパートに来るらしいの」
「終わってんな、あんたの兄貴」
「なのぉ!?」
短い悲鳴を上げる奈央美。
「で、でもでもぉ! プリティだんべるは、おっきなお友達にも向けて作られてるらしいの!」
「あんたの兄貴っていくつよ?」
「おにぃ、23歳なの」
「引くわ」
「なのぉ!?!?」
「23にもなって女児向けアニメにハマる無職とか犯罪者予備軍じゃん。同じ家にいるだけで、死にたくなる」
「なのぉ……」
ざっくりと言い捨てるころねだったが、言葉の刃は見事に奈央美の心をえぐってしまった。
今にも泣き出しそうになる奈央美。彼女のタレ目は、涙をため込めるほどの根気はない。
「あ……」
言い過ぎた。ころねからすれば、奈央美は同じ兄大好き人間として感性が近しく、学内でも唯一の友達になってやってもいいと考えている。
悪い人間ではない。
――こいつの兄貴は酷いヤツだが。
「ごめん、言い過ぎた。人には誰しも欠点は持ってるし、あんたの兄貴はそれだっただけだよね。それで、そのクソ兄……じゃなくて、兄貴と一緒にアニメイベントにいくの?」
「ううん。おにぃ、家から出られないから、あたしが声優さんのサインをもらってくるの。ころねちゃんはそのアニメ知ってるのか、聞きたかっただけなの」
「土曜の朝は、お兄ちゃんと一緒にジョギングするから知らなかったなぁ……」
低年齢層に向けた娯楽を楽しむ習慣は、中学校に上がる前に卒業している。
「それにしても奈央美はさ……、その兄貴のどこが好きなんだよ? ぶっちゃけ、わたしからすると魅力がマイナスいってんだけど」
奈央美の頬は紅潮し、恋する乙女とでも言いたげに、身をモジモジとクネらせる。
「なのぉ……、おにぃは優しいの。可愛いお洋服とか着せてくれて、すごーく可愛く写真撮ってくれるの」
「うんうん…………うん? 撮るの?」
相づちを打っていたものの、途中でころねは小首を傾げた。
「これ、写真なの」
ケータイの画像を見て、ころねは絶句する。
もし可愛い洋服がころねの共感できるレベルならば、写真を撮ることも不思議ではないだろう。だが、ころねの不安は見事に的中していた。
奈央美が着ているのは、誰がどう見てもコスプレ衣装。彼女の両手にダンベル型の手甲を装備していることから、おそらく例のプリティだんべるなのだろう。
奈央美の兄に対する、あらゆる罵倒の言葉がころねの脳裏を駆けめぐるが、あえて口を閉ざした。
阿久斗にこのような衣装を着てくれと頼まれたら、ころねは喜んで袖を通してしまいそうだったから。
「……良かったね。それ、可愛いと思う」
「えへへへ、なのぉ」
――将来、おまえの兄貴は捕まるかもな。
ゆるゆるな奈央美を、ころねは冷ややかな目で見つめるしかなかった。
「ならなら、ころねちゃんはどうなの?」
「へっ!?」
「ころねちゃんは、どうしてお兄ちゃんが好きなの?」
「そ、それはーそのー、べ、別にいいだろ!」
思わぬ返しに、声が大きくなる。
「なんでなのー? なのー?」
「う、うぅ……。お兄ちゃんは格好良いし、頭良いし、まじめだし……」
「それなら同じクラスの康人くんだって、そうなの」
奈央美は詰め将棋でもしているかのように、人気ナンバー1の男子の名前を出して、責めてくる。
「うぐっ!」
平坦な答えでは、奈央美の執着から逃れられない。
「ぐぬぬ……ぐっ……ず、ずるいんだよ、お兄ちゃんは!」
残り少ない歯磨き粉チューブのように、腹から言葉が押し出される。
「いつも素っ気ないくせして、不意にクソ優しくしてくれるんだよ! 週末早朝のジョギングとかいつもわたしに併せてくれるし! 誕生日プレゼントとか、まるでわたしの好きなものを知ってるかのように可愛いぬいぐるみとかくれるし! 居間で寝たふりすると必ずお姫様抱っこしてベッドまで連れてってくれるし……ハッ!? 何言わせてんだよ!」
「自分で言ってるの」
ご満悦の奈央美に、ころねは会話の所有権を奪われていることを悟った。
「もう話さねーから!!」
話し続ければ、もっと恥ずかしいことを言わされる。そうはさせまいと、ころねは断腸の思いで遁走する。
「待ってなのぉ!」
「待つか、ばーか!」
三流の悪党が言いそうな捨て台詞を吐き、ころねは奈央美から逃げ出した。
足の速さは学内でもトップレベル。男子と並んで走ることも出来る。
見る見る内に奈央美の姿は小さくなっていき、曲がり角を二つほど通過したところで完全に撒いた。
しかし、ころねはスピードを緩めない。
兄への好意を口にしたことで、羞恥心とは別に不思議と清涼感を感じていた。
溜まった気持ちを吐き出したからかもしれない。
すっきりしたら、会いたくなる。
愛しのマイブラザーを求め、ころねはイノシシのように家路を駆けた。
脳内では、すでに玄関を通過し、阿久斗と接触するビジョンを浮かべている。今日は寒かったね、などと言って抱きついて兄の匂いを思う存分、脳味噌に染み込ませよう。今日は暖かかったが、そこは勢いで誤魔化す。
表情筋が弛緩しすぎて、ヨダレをボタボタと垂れ流すころねの様は、後日近所で噂される不審者となっていた。
がちゃり。
妄想をしている間に、ころねはすでに玄関どころか居間に続くドアを開いていた。
阿久斗が居間にいることは、気配で分かる。
「お兄ちゃん!」
愛しの兄は、ノートパソコンで調べ事をしていた。
その画面に映し出されていたのは――プリティだんべるの公式HP。
「……」
「……」
ぱたん。
パソコンを閉じる音が空しく響く。
「……おかえり、ころね」
「あばばばばばばばばばばばば!」
衝撃のあまり、言語中枢がイかれた。
犯罪者予備軍! 偏愛趣味! 性異常者! 社会のゴミ!
先ほどまで奈央美の兄に浴びせていたレッテルが、ころねの胸を突き刺す。
灯台を見失った船のように、ころねの心は暗黒世界をさまよい、自身の光さえ消えそうなほど弱まる。
完全に心がダークサイドに陥る直前、ころねは一縷の望みをかけて、踏みとどまった。
「た、ただいま、おに、お兄ちゃん」
「ころね、白目が怖いのだが体調でも悪いのか? 悪ふざけなら心臓に悪いからやめてほしい」
阿久斗が心配するほど酷い人相をしているらしい。だが、ころねに顔を気にする余裕はなかった。
「い、いいい、いま、見てた、ほーむぺーじ……って……?」
「………………間違えて開いただけだ。内容は気にしなくていい」
――嘘だ! お兄ちゃんは嘘を吐くとき、人差し指と親指をこする癖がある! ……はっ! まさか!? お兄ちゃん、休日や学校帰りにたびたび行く先を伝えずに出かけるけど、あれは趣味を隠すために!?
目眩がするほどの不安が、数珠繋ぎとなって引っ張り出される。
「お兄ちゃん……そういうの……好きなんだ」
「いや、そういうわけではない。……ころね、お願いだから白目はやめてくれ。夢に出る」
夢に出られるのなら尚更やめるわけにはいかない。阿久斗の頼みであろうと、ころねは白目を続けた。
「ふーん。じゃあ、週末とか時々わたしに何も告げずに出かけるのって、これとは関係ないの?」
「それとこれとは関係ない! 断じて違う! だが、どこに行っているかは聞かないでくれ!」
普段、声を荒らげることなど滅多にない阿久斗が、必死に訴えてくる。
簡単なブラフに引っかかるところが、阿久斗の誠実な性格を物語っていた。
「そう、なんだ……」
そう言い、ころねは脱力する。
「「…………」」
永い沈黙が続いた。
阿久斗は何を思ったのか、居間の掃き出し窓に近づいて、空を仰ぐ。
「今日は……いい天気だな」
「曇天だよ、お兄ちゃん」
「…………」
押し黙る阿久斗。
ころねは死んだ魚のような目で、阿久斗を見つめた。
本当のところ、ころねにとって兄が女児向けアニメにハマることは一時的なショックでしかなかった。
オタクでもロリコンでもいい。むしろ、今のころねからすればウェルカム姿勢を取るだけだ。
社会から冷たい目で見られるような性癖を持っていても、ころねの気持ちは揺らがない。自分の方が異常者であることを自覚しているから。そして何より、積み重ねた想いは、たかが風変わりな趣味ごときで砕けるほど柔い造りをしていない。
ころねの心を痛み続けている理由は、そのような趣味を今まで知らなかったことに由来する。
わたしの知らない阿久斗がいる――その強烈な疎外感がころねの胸を締め付けていた。
「夕飯まで、部屋で勉強してるね……」
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