〈日常×朝=賑やかな始まり〉

「朝から酒くせぇんだよ、クソ犬」

 月曜日、ころねが登校する前の神田家。

 キッチンのシンクに、朝食の食器を置こうとしたところで、ころねは異臭に気付いた。

 臭いの元は、犬用の飲み水容器に注がれた液体だった。

「目覚めの一杯は日本酒と決まっておる」

 人語を喋る犬――サンド・ウィッチはズゾゾッと音を立てて飲み始める。

「てめぇは田舎の爺かよ。お兄ちゃんに気付かれる前に、どうしかしろ。さもなくば、てめぇごと消臭剤に漬け込んでやる」

 扉を一枚隔てた先には、兄がいる。リビングで、食後のコーヒーと大好物のチョココロネを、嗜んでいる最中だ。

 兄は、魔法少女や魔女などとは何の縁もない。我が家の愛犬が、酒好きのバカ魔女だと知られては色々と困る。

 困るというのに、この駄犬は暢気に朝から酒をかっくらっていた。

「ぷはぁ、美味いのぅ」

 ころねは無言で、日本酒に芳香スプレーを吹きかける。

「酒が! ワシの酒が――もがぁ!」

「うるせぇ! 声がデケェんだよ、クソ犬!」

『どうした?』

 ダイニングの方から兄が問いかけてきた。

「んーん、何でもないよ、お兄ちゃん! サンド・ウィッチが言うこと聞かないから、少し躾ただけだから!」

 これ以上騒がれないよう、サンド・ウィッチの鼻先に芳香スプレーを突きつけておく。

「なんという鬼畜の所行っ! いくら浅深の娘といえど、貴様のようなチンピラに魔法少女の権利を渡すべきではなかったわい!」

「うるせぇよ、わたしにはかんけーねーし。お母さんが体を壊したから、わたしがやってんだよ。てめぇは感謝する側の人間だろうが。おら、感謝ついでに、なんか魔法の便利アイテムとかよこせ、クソ犬」

 芳香スプレーで軽く脅す。

「先週、渡したはずじゃろう! それを貴様という馬鹿娘は、兄の下着を盗むという悪事に使いよって(プシュッ)ぎぃやああああああ!」

『ころね?』

「なんでもなーい!」

「貴様は……いつか、コーギーにしてやる」

 サンド・ウィッチは涙目になりつつ、恨めしい声を漏らした。

「そんときは、てめぇの喉仏噛み千切ってやるよ」

 首を掻き切るジェスチャーを送り、ころねはリビングに戻る。

 兄、神田阿久斗はテレビのニュースを聞きながら朝刊に目を通していた。

 阿久斗の姿を見つけた瞬間、不機嫌だったころねの表情は、ふにゃりと緩んだ。

 ――いつ見ても格好良い。

 17歳という若さでありながら、醸し出す雰囲気は精悍な成人男性そのもの。切れ長な目、ほっそりとした整った顔立ち、高い背丈――それらすべては、ころねの理想形と言っても良かった。

 誰にも渡したくないほどに、阿久斗のことを愛している。

 なぜ兄妹なのか。自分の出生をこれほどまでに呪い、恨んだことはない。

 それにしても――今日も、その容姿は見飽きることはなかった。

「ころね、先ほどから僕を見つめているが、顔に何か付いているのか?」

 いつの間にか阿久斗は、視線の先を新聞紙からころねに切り替えている。

「ううん! お兄ちゃんの顔に見とれてただけ!」

「そうか。ころねは、冗談が上手だな」

 阿久斗に動じる様子はない。

「それよりも、ころね。サンド・ウィッチは一体何をしたんだ?」

「あー、お兄ちゃんは気にしなくて良いからっ」

 今頃、芳香剤入り日本酒を泣く泣く呑んでいる頃だろう。

「そうか。それにしても……ころねとは、別の声が聞こえてきたような気がしたのだが……?」

「ギクッ!?」

 やはり、あの酒呑み(サンド・ウィッチ)の声が大きすぎたのだ。

「き、気のせいだよ。朝は、わたしとお兄ちゃん以外誰もいないもん」

「そうだな……。何かの聞き間違えか」

「そうそう、聞き間違――」


『おほぅ!? 芳香剤入りの日本酒も中々イケるではないかっ!』


「「…………」」

 くびり殺したいほどの殺意を抱いたのは、久しぶりだった。

「やはり、誰かいるのか……?」

 阿久斗は朝刊をテーブルの上に置き、腰を浮かせる。

「お、お隣さんだよ! ほら、最近引っ越してきた新婚さん! 声大きいね!」

『うっぷ!? やはり駄目じゃ! おぅええええ! ぼぅええええ!』

 ――今、魔法が使えたら、真っ先にあの犬の息の根を止めてやるのに。

「嗚咽声……?」

 阿久斗の疑念を含んだ目は、キッチンに向けられていた。

「わ、わたしが見てくる!」

「駄目だ。僕が行く」

 こういう男らしいところが阿久斗の魅力だが、今だけはその魅力を抑えておいてほしかった。

「いいから! お兄ちゃんは、新聞でも読んでて!」

「だが――」

「あっ! 外に怪しい人影が!」

「なんだと?」

 阿久斗の注意が、掃き出し窓に向けられた瞬間、ころねは迅速にキッチンまで移動する。

「おええええ! ……ころね!? 貴様、何しに――」

 床に吐瀉物を広げているサンド・ウィッチ。

 その胴を躊躇なく蹴り上げた。

 サンド・ウィッチの体が宙に浮く。続けざまに、バレーボールのアタックを叩き込み、ゴミ箱の中に収容された。

「永遠に寝てな」

 ゴミ箱に封をして、阿久斗の元に戻る。その間、わずか10秒のことだった。

 阿久斗は、掃き出し窓を開けて人影を探していた。

「……ふむぅ。ころね、どこにも人は見当たらないが……?」

「うーん、気のせいだったかも?」

「そうか。なら、僕はキッチンを見てくる」

「はーい。気を付けてね、お兄ちゃん」

 素知らぬ顔で阿久斗を見送る。

 一分もしないうちに、阿久斗は帰ってきた。

「どう? お兄ちゃん?」

「何もなかったが、やけに芳香剤の匂いがした」

「それは、サンド・ウィッチが粗相をしたから、わたしが吹きかけておいたの」

「そうか。なら、全部気のせいだったのか」

「そうそう、気のせい気のせい」

 阿久斗の背を押して、椅子に座らせる。

 釈然としていない様子だったものの、阿久斗は朝刊に手を伸ばした。

 ころねは向かい側に座り、兄の姿を眺める。

「ふむぅ、巨大隕石の接近をNASAが発表か……」

 興味ありげに新聞記事の一コマを読み上げた。

「昨日の夜、ニュースでやってたね。確率はすごく低いって言ってたよ?」

「ふむぅ……」

「そんなに心配なの?」

 広大な宇宙で漂う地球に、巨大隕石が落ちてくる確率は限りなく低い。そんなことは、中学生のころねでも分かる。

「いや……流星が間近で見えたら綺麗だろうな、と思っていたところだ」

「きゅん!」

 まさかのロマンチスト発言に、ころねの心が射抜かれる。

「見えたらいいね、お兄ちゃん」

 目をハートマークにしているころねに気付かず、阿久斗は朝刊を読み続けた。

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