「読書が趣味なんです。」

佐藤六玄

第1話


「読書が趣味なんです。」

長い髪の毛で顔を隠すようにブレザー姿の少女は言った。それは彼女が常に厚い本を持ち歩く理由であった。

「いつもその袋に入れているの。重たそうだけど。」

「鞄に入りきらないんです。ぶ厚いし三冊もあるものだから。」

その袋は家庭科の時間に作ったのだという。手縫いであるらしく、一見拙いつくりに見える。しかし触ってみると、始めから本を入れるために作ったというだけあり頑丈さだけは確保されていた。

「最近どう?高校は楽しい?」

「まあまあです。」

「お友達と何か楽しいことした?」

「うんと、いつも通りです。」

少女はずっとこの調子だった。私は困った。私が今までに、今日を合わせ五回もこの少女と対談をしてきたのは、彼女が心に何らかの問題を抱えていると、彼女の通っている高校から相談を受けたからである。

彼女が高校の教師らにそう判断された理由は非常に曖昧であった。しかしその判断だけは確信めいたものだった。彼女は、誰かに心を閉ざしている様子もない。学校のことも家庭のこともそれとなく楽しそうに話せる。最近の悩み事は「学校の勉強についていくのが大変なこと」だという。  

一つ気になることといえば、彼女の両腕にびっちりと文字が書かれていることくらいだった。

 その文字たちはよく見ると文章だった。描かれている文章は会うたびに変わる。今日は筒井康隆の「二度死んだ少年の記録」を写したものらしい。利き腕にはどうやって書いているの。と聞けば「腕に書くときだけは両利きなんです」と返された。

 私はカウンセリングについて研究を尽くしたプロフェッショナルではない。はじめは臨時採用で高校の美術教師をしており、その学校のスクールカウンセラーから「なにか美術教育の役に立てれば」と心理や精神療法について教えてもらっていた。私はそのうちスクールカウンセリングの研修会にも足を運んだりするようになり、気が付けば児童相談所に転職していた。児童相談所に勤めてまだ二年目である私は、未だ経験不足に悩んでいた。

「自分の好きなものに囲まれていたら、安心しませんか?」

「すごくわかるよ。でもなんで、そんなに安心したいの。いつも本を持っているだけで十分じゃない。」

「言いたいことは分かってます。私がここに送られた理由はこの腕なんですよね。人はすぐに人を奇妙なもの扱い。だれにだって異常な部分はあるのに。」

「そうだね。僕もそれはよく思うよ。」

「じゃあ朝野さんだって、このカウンセリングは無意味だって思ってるんですよね。」

「思ってないよ。僕はもっと那加坂さんと色んな会話をしたい。」

 嘘だ、と思われているに違いない。実際は、嘘じゃないけど、本当でもなかった。私は正直、彼女の力になれる自信はほとんどなかった。でも彼女のカウンセリングは自分の成長のために大切な経験だとも思っていた。

「他にも沢山お仕事あるんでしょう。私なんかに時間を割くのは勿体ないから、今日はもうやめましょうよ。」

 なぜ私は相談者に気を遣われているんだろう。今までの四回も全部こうだった。自分が情けなくなる。カウンセリングを受けたいのはこっちの方だ。

「またここに来ないといけないんですか。」

「そうだね、学校とはまず十回だけカウンセリングを行いますって言ったから。」

「そうですか。」

 彼女は諦めたような顔をしていた。明らかにあと五回の「我慢」を考えている。

「カウンセリングの何が嫌なの。」

「仕事でカウンセリングをさせられているんだなって思うと、嫌なんです。」

「じゃあ、仕事は一度やめようか。」

 彼女はえっ。といって初めて私の目を見た。

いつもはほとんど髪の毛の影になり暗くなっている顔が、安い蛍光灯の光に照らされる。

「どういうことですか。」

「今日のカウンセリングはここで終わり。那加坂さんと僕は今から友達。」

 彼女は数秒怪訝な顔をしたが、すぐにわかりましたと言ってくれた。

 自分でもなぜこんなことを言い出したのかわからない。意地になっていたのかもしれない。明日には後悔しているだろうか。

「友達と普段は何をしているの?」

「一緒にご飯を食べたり、好きな本の話をしています。」

「じゃあ明日のカウンセリングの前に、僕とご飯を食べよう。」

ここでまた彼女は固まった。仕方がないと思った。女子高生と社会人男性が共に食事をするのは普通に考えて危ない絵面だ。

「食べるって、どこか行くんですか」。

「やっぱりそれはまだ気まずいよね。お弁当を買ってカウンセリング室で食べよう。」

口から出まかせで言った食事の誘いを口から出まかせで修正した。危ないやり方だとは思うが、彼女はそれに頷いてくれたから良かったことにした。


その当日、驚いたことに、彼女はいつもの制服姿ではなく、カジュアルな私服姿でセンターを訪れた。しかしやはりその手にはいつもの重たい巾着袋を持っていた。

「友達に会いに来たから。」

彼女はどかっと袋を床に置いて椅子に座った。私は彼女からの急なアプローチに戸惑った。

「えっと、お腹空いてる?」

「はい。」

「じゃあ何か買いに行こうか。」

「それは、買ってくれるんですか。」

「もちろん。」

彼女は野菜炒め弁当を選び、私は焼肉弁当を選んだ。私は進んで好きな本の話をした。

すると、彼女は読書家だと思っていた割にあまり沢山の本を読んでいないことに気付いた。よく聞けば、好きな本を何回も繰り返し読み続けているのだという。

「今日の腕の文字はなに。」

何気なく聞いたつもりだったが、彼女は嫌そうな顔をして黙った。私は困った。私の聞き方が良くなかったのかと思い慌てて謝った。

「私の腕の文字が気になりますか。」

「いつも会うたびに違う文字が書かれていたから、今日は何を書いてるのかなって。」

「なぜ気になるんですか。そんなに奇異ですか。」

「奇異?」

「おかしいんでしょう。腕に文字が沢山あるっていうのが。精神異常みたいで。」

「精神異常は誰にでもあるって前に言ったじゃないか。」

「誰にでもあるものをわざわざ質問しますか。他人が昨晩見た夢を毎日聞きに来る人なんていないでしょう。」

私には彼女の怒りが理解できなかった。しかし返す言葉も見当たらないので、曖昧な返事をしてその会話を終わらせた。




学校は嫌いじゃなかったがなんとなく苦手だった。友達が分からないから。誰が友達で誰がそうでないのか。誰が私を友達だと思っているのか。私と話していて何を感じているのか。そもそも友達とはなんなのか。

でも、最近一人の友達ができた。カウンセラーの朝野さん。友達ができたから嬉しいとかそういう気持ちじゃなかった。別に学校で人と関われなったわけでもないし。

ただ、互いに「友達」という関係を探り探り追っていく感覚が楽しかった。

まるで友達の定義を検討しているみたい。明日はどこまで攻めようか。

家に帰ると、唯一の家族である母親が食事を摂っていた。私はもうお腹がいっぱいだからそのまま部屋に向かった。

カレンダーを見る。今日で高校の卒業まで残り半年になった。私は卒業が待ち遠しい。高校に入ったころから、いや、中学の頃から、それを待ち望んでいた。

私は早く一人暮らしがしたかった。ここから逃げたかった。

母親は文字を書くことを仕事にしている。

まるで文字一つ一つに命が宿されたような美しい文章を書く女だという評価をうけているらしい。私は彼女の「仕事」をよく知っているが、文章は一度も見たことがない。

風呂に入る前の私の背中を原稿にして、万年筆を走らせるのが彼女の「仕事」だ。

「今日はエッセイの続きを書かないといけないの。」

私は何の躊躇もなく衣服を脱ぎ捨て、母親の椅子に合わせて背を向け膝を折る。それはすでに体に染みついてしまった行動だ。抗う気力はずっと昔に潰された。

私の背中は沢山の文字にまみれていく。母親に入れられた文字の分だけ、私がその文字に浸食されていく。何憶何万もの文字が私の背中に染み込んで私の骨髄液になっているに違いない。

この恐ろしさがあなたにはわかりますか。これは私が異常なのではありません。私は文字に侵されているんです。万年筆のペン先はとても痛い。でもそんな痛みももう感覚から取り外せるようになってしまった。

しかし、腕に書かれているこの文字だけは、私の意思だ。腕に書かれたこれだけは、何憶の字たちすらも侵すことはできない。何度も何度も腕を読む。腕の中の世界に私の意思を避難させるのだ。


「昨日は何をしていたの。」

「うーん、読書してました。」

「昨日読んだのは何?」

「芥川龍之介の河童です。」

今回で九回目のカウンセリングだった。彼女は会う回数を重ねるごとに、Tシャツやらスカートやら色んな私服姿を見せてくれた。

「てことは、今日のその腕に書かれているのは河童の内容だね。」

前に腕の文字について触れて怒らせてしまってから、避けていた話題だった。彼女もそれに気づいていただろう。彼女はすこし間をおいてから「そうです。」と返した。

「朝野さんは、私の腕をどう思っているんですか。」

彼女は難しい顔をしていた。よく私はこういうときに「なんと言ったら正解なのだろう」と考える。それは今回のような質問に対するふさわしい姿勢ではないだろう。

「ちょっと怖いなって、思う。でもだから興味を持ったわけじゃない。多分これはみんなそうなんじゃないかなあ。」

「みんなは面白がってるだけです。」

「少なくとも僕は違う。那加坂さんの学校の先生方もね。」

「違うって?」

「僕の場合だと、那加坂さんの腕は芸術作品に見える。」

「芸術作品、ですか。」

「僕はもともと美術の教師だったんだけどね。作品って、人の心がよく見えるんだ。その心が、那加坂さんは助けを求めているように見える。きっと高校の先生方も、あなた腕から心を見ている。」

「私は助けを求めていません。」

「求めてない人がそんなことするかな。」

「します。私は、自分の満足のためだけにやってるんです。邪魔しないでください。」

 九度目のカウンセリング室を彼女は去った。

私は彼女の何が彼女をそのようにしているのか分からなかった。彼女は私生活の苦しみを未だほとんど見せない。


 私はその日の夜、最寄りの書店に向かった。彼女、那加坂さんについてどうしたらいいのか、本からヒントを得ようと思ったのだ。書店には、新作品が目立つ場所に並べられている。特に売れている作品には、ランキングの順位を示したポップが置かれていた。なんとなくそれらを見た。なんとなく見てしまうようにできているのだと思う。

 気になる本が一つあった。エッセイ本だ。私は普段エッセイのような類の本は読まない。それでもなお私の目をひいたのは、その作者名だった。「那加坂 恵」。那加坂という名字の人間を私は一人しか知らない。珍しい苗字だと思う。

 ペンネームもしくは親戚だろうか。彼女もあんなに文字を愛してるのだから、親戚にそういう文字書きの人間がいるのもあり得ない話ではない。

 気が付いたら私はその本を購入していた。いやに美しい題名と白を基調としていた表紙に独特の雰囲気を感じ、それが気になった。

 一緒に購入したカウンセリングのハウツー本を他所にして、真っ先にそのエッセイ本を読んだ。

『掃除をしましょう。私のお部屋はいつも綺麗。モノはなるべく無くしましょう。私は文字を書くときに紙を使わない。紙より綺麗なものがあるから。それは人の心にある。』

 普段はなんとなく避けていた類の本であるが、私は少し面白いと思った。作者名のせいかもしれないが、なんとなく那加坂さんに共通するような気がした。那加坂さんが本だけでなく自分の腕に字を書くのも、人の心を媒体にして文章を読もうとしているからだろうか。



『父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バツグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してかう言ひました。それからテエブルの上にあつた消毒用の水薬で嗽ひをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしてゐると見え、かう小声に返事をしました。

「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」』

私の腕に染みる芥川龍之介。私の精神は今芥川龍之介の世界を旅している。少しでも気を緩めれば、背中に動く違和感に気付いてしまう。

『助けを求めているように見える。』求めていない。私はやり過ごしの道具を作っているだけ。あと、あと半年の我慢なのだ。何年も何年もこれで生きてきた。あと半年のところで、これに気付かれるわけにはいかない。問題は最小限に留めておいた方が良い。あとは私の我慢なのだ。邪魔をするな。

 ふいに、現実に戻された。痛みだった。背中が痛い。きっと母親がまたペン先を突き立てた。

「美しくないの。あなたの背中。昨日よりも、先週よりも、先月よりも、去年よりも、どんどんどんどん穢れていく。どうして?どうして心を空にできないのかしら。」

 美しくない。私は美しくない。背中。穢れていく背中。前よりも。どんどん。

 今の言葉が離れない。意識がそこから逃げられない。芥川さん。私の視界が私のものでなくなる。腕の文字が目から入らない。

 蹴られた。裸の私は転がった。

「まだ紙に書いていた方がマシ。今のあなたは。」

 母親は引き出しから原稿用紙を取り出した。沢山の添加物が入ったペラペラのそれ。私の皮膚よりも何倍も厚い。

 裸のまんま、部屋にもどった。背中の痛みは今もなお熱く響く。

 私の心は無のようでカオスだった。

 私は何もわかりたくないから、意識的に気を失うように寝た。



 

「先日、こんな本を見つけたんだ。」

真っ白な本だった。タイトルだけが、薄く透明に光っている。綺麗な本だと思った。

「エッセイ本、僕は普段あまり読まないんだけどね。今売れているらしくって。作者がね、那加坂って苗字なんだ。」

表紙には『那加坂 恵』とあった。ああ、なんだ。お母さんの本か。

母親の文字が紙に印刷されているという感覚が不思議だった。

「読んだらね、なんとなく那加坂さんに似ているところがあるなと思ったんだ。もしかして親戚なのかな、なんて思ったんだけど。」

「その本の内容は、どう思いました。綺麗でしたか。汚かったですか。」

「そうだな、僕はあまり何も感じなかった。」

あまり感じなかった。

「それは綺麗でも汚くもないという意味ですか。」

「この本が綺麗なのは内容じゃなくて、文字一つ一つから受け取れる印象かな。内容は僕にはよく分からなかった。」

内容が綺麗なんじゃなくて、文字の印象が綺麗。

「朝野さん、じゃあこれは。」

なぜか私は、朝野さんの目の前で躊躇なく服を脱いだ。

私の肩からお尻までつながるお母さんの文字。私の骨髄液。なぜかまだ服を纏っているような気持ちだった。

「それは、誰が書いたの。」

「その本の人ですよ。」

朝野さんはどんな顔をしているのだろう。真っ白な私の背中に染み込む文字たちは、芸術的ですか。とは聞けなかった。

「文字に命が宿っているようだと、この人の本を見て思っていたけど。」

朝野さんはそれ以上言葉を繋げなかった。

「この傷は何。」

「どれですか。」

「左脇あたりの。これ。」

朝野さんは平気で私の背中に触れた。

「ああ、それは、昨日、ペン先で。」

「どうしてそんなことをされたの。」

「私が美しくなくなってしまったから。文字を書くための器がなくなったから。もう、私の背中は使わないって。」

「悲しかった?」

「分からないです。」

「そうか。ちなみに僕は良かったんじゃないかって思ってるんだけど。」

「なぜですか。」

「那加坂さんの苦しみが終わったように見えるから。」

私は朝野さんの言っている意味をなんとなく理解した。

「よかったね。」

「はい。」

「これでもう腕に字を書き連ねる必要もない。」

「はい。」

十回目のカウンセリングが終わった。私の苦しみも終わった。

 十一回目はもうないだろう。私は朝野さんに今までのことについてお礼をした。


 家に帰ろうとしたら、玄関のドアが開かなくなっていた。車庫には車がある。母親は家にいるはずだ。

 鍵も変わっていた。挿してももう回らない。

 もう、インターホンを押そうとも思わなかった。

 とりあえず夜まで外で暇をつぶした。午後九時を回り、退屈の限界が来たところでもう一度玄関のドアに手を掛けた。ドアは鍵が外されており、すぐに開いた。

 洗練された部屋の白さ、モノの数、空気。何もかもが前と違っているような気がした。

「ただいま。」

普段は絶対にしないはずの挨拶をした。

もちろん返事は来なかった。

私は身体中の文字を消そうと思い、母親の姿を確認することもなく、すぐにシャワーを浴びた。


泡でこすると、泡が紫色になった。インクの色だ。一回では取れなかったから、もう一度泡で洗った。

三回くらいで体はすっかり綺麗になった。擦った後がピンクに染まっている。

私はすっきりした気持ちになった。解放感が津波のように私の他の感情を流した。

シャワーから上がると、母親が原稿に向かって苦しい顔をしているのが見えた。

私は解放感による激流の中で、私の本が入った巾着袋を手に取り、母親の脳天に振り下ろした。

目の前でその人は崩れた。とっさに、自分の腕を見た。何もない私の両腕。急に不安が押し寄せた。

すぐそこに、母親の書きかけの原稿があった。使い古された万年筆を手に取り、私は腕に再び文字を書いた。

母親の原稿にはどうしても世界を感じられなくて、読んでも読んでもそこに意識を逃避させられなかった。しかし、私の身体中の血液がその文字たちを受け入れた。わけがわからなくて、また私は逃げるように眠った。


翌日の朝、私は初めて自ら児童相談所センターを訪れた。朝野さんは驚いていたけど、すぐに十一回目のカウンセリングをしてくれた。


「昨日はなにをしていたの。」

「うーん、読書していました。」



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「読書が趣味なんです。」 佐藤六玄 @rokuro999

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