第2話 転校生
僕は、夢でも見ているようだった。昨日の彼女が、もう会えないと思っていた彼女がここに居る。目の前の事に、何が起きているのか分からず戸惑う僕の顔を覗き込みながら、隣に座ってもいい?と彼女は訊いた。どうぞ、と空いている自分の左隣を手で示し、彼女がそこに座る。隣に座った彼女は、何も言わずに空を見上げていた。
「あ、あの、訊いてもいいかな…」
僕の問いかけに、彼女は仕方ないと言うように肩をすくめ、いいよ、と答えた。
目の前に突然現れた彼女は、とても不思議な子だった。初対面の人間が相手だと、まともに目を見て話すことが出来ないほど、人見知りな僕が、まるで『人見知り』という概念が無かったかのように自然と話せる。
えっと、と口を開いたそ僕をよそに彼女が話し始めた。
彼女の名前は『天宮 春』十七歳の女子高生。
クマのぬいぐるみ、アクセ、スイーツ、綺麗な夜景が好き、と矢継ぎ早に自己紹介をした。
初めに問いかけた僕が質問する暇もなく彼女はふぅ、と一息ついて僕の目を見て言った。
「それとね、君の歌が好き」
ぞの瞬間、再び僕の中の時間が止まった。昨日と同じ、何とも言えない感覚だった。体中の空気という空気が一気に抜け、ふわふわと今にも飛んで行ってしまいそうな感覚だった。君の番だよ、という彼女の声にまた僕の中の時間が動き出した。じっと僕の顔を見つめる春の目を見ていると、また自然と口を開いて僕は話し始めていた。
「ぼ、僕は新堂そら。君と同じ十七歳。好きなものは…犬。それと歌かな」
僕の名前を聞いた彼女の顔が一瞬変わり、なぜか懐かしいものを見るような、とても温かい目で僕から視線を外し、遠くを見つめた。
「新堂そら君…か。それで、質問は?」
「うん。き、君は何処の学校なの?」
彼女は少し悩んで、そのうちわかるよ、と答えた。彼女の答えの意味が分からないまま、僕は質問を続けた。
「君は、歌でも習ってるの?」
「どうして?」
「あんなに上手な歌は訊いたことが無いよ。なんていうか、感動したんだ」
「んー、きっと、同じ気持ちだったんだよ」
『同じ気持ち』とはどういうことなのか、考えている僕にお構いなしで彼女は話し続けた。
「その時の気持ちを歌に表すの。楽しい時は楽しく、悲しい時は悲しく。同じ気持ちの人が聴けば共感出来るでしょ?」
なるほど、と僕は思った。カイが僕の歌を聞いた時、さっき歌を歌った時、僕はどんな気持ちで歌っていたんだろう。
隣に座っていた彼女は徐に立ち上がって歩き出し、星空を見上げている。そしてもう一度そらの方を振り返ると、おもむろに訊いた。
「君は…今も寂しい?」
「え…?」
「今、そらくんの前には私がいる。君は今、一人じゃないよ」
うん、と頷くそらに彼女はふふ、と優しく微笑んだ。なぜだか分からないが、僕は泣き出してしまいそうなほど、胸がギュッと苦しくなっていた。今にも溢れそうな涙を隠すために下を向くと、不意に足元のスーパーの袋が目に入った。
「あっ!豆腐…?帰らなきゃ!」
買い物の途中だったことを思い出し、そらは急いで立ち上がり帰ろうとしたが、足を止めて彼女に訊いた。
「ねぇ!また…また会えるかな!」
「君が望むなら、それは叶うだろう!」
何かの映画の台詞なのか、それとも詩の一節なのだろうか、彼女は詩人のように手を大きく広げながら答えた。彼女が小さく手を振り、僕もそれに応えた。
見上げた夜空、彼女と過ごした夜の公園。いつもと同じはずなのに、今日の夜空は、いつもより一段と綺麗に見えた。
家に帰ると、父さんが待ちくたびれたようにタバコを吸い、テレビを見ていた。
心配していたのか、どこまで行ってたんだ、と少しほっとしたように僕の頭をポンっと叩いた。ごめん、と僕は買ってきた豆腐を手渡し、父は料理の続きを始めた。よほど楽しみにしてたのか、早速出来上がったすき焼きをテーブルに運び、僕と父さんは久々の団欒を楽しんだ。疲れているはずなのに、父さんは楽しそうな顔をしていた。その顔を見ていると僕もホッとして、なんでもない夕飯がとてつもなく美味しく感じた。ふと、なぁ、と父さんが声をかけてきた。
「まだ、歌やってるのか?」
「うん、明日もスタジオに行くよ」
そうか、と頷き、父さんは何か言いたそうにしていたけど、何も言わなかった。二人用のすき焼きは、あっという間に食べ終わり、僕は団欒の余韻を残したまま、片づけをしていた。明日も仕事だと言っていた父さんは、早々に寝る支度を整え、洗い物をしている僕の肩に手を置き、今しかできなことだ、頑張れよ、と少し照れくさそうに言って、寝室に入って行った。きっと、さっき言いたそうにしていたのは子の事なんだ、と思いながら、僕は父さんに、おやすみ、と声を掛けた。
片づけを済ませ、僕も自分の部屋に戻ると、ばたっとベッドの上に倒れこんだ。しばらく黙って天井を見つめていると、歌詞が頭に浮かんだ。
―夜空を見上げて星に願う 春の香りが咲く頃に またここで君と出会えたら 温もりをあげたい
身体を起こし、急いでノートに書き起こす。僕のいつもの癖だった。こんな歌詞、カイに見せたらきっと笑うだろう。そう思いながら、僕は歌詞にメロディーをつけた。
その日から、しばらく彼女の姿を見ることは無かった。カイや柚葉と何度も公園に行き、何時間も待った。朝も昼も夜も、彼女の姿はどこにも無かった。彼女に会えない日々がどこかもどかしく感じながらも、三人でいることがやっぱり楽しく、そしてカイと僕は相変わらずスタジオにこもっていた。
練習中、カイが唐突に、俺、思うんだけどさ、口を開いた。
「そらの見た、綺麗な子って、幽霊なんじゃないか?」
「な、なに言ってんだよ!そんなわけないって!」
カイの言葉に、僕はブンブンと首を横に振りながら答えた。
「だってよ、二回とも夜なんだろ?俺らもまだ会ったことないしさ…」
「そ、それはないよ!絶対にない!」
思わず僕は大声を出してしまい、驚いた様子でカイも僕を見ていた。カイの言った事が、彼女が幽霊だなんてそんな事あるはずないと僕は思った。幽霊なら、あんなにぬくもりがあるわけない。ましてや、僕は幽霊とか、そういう類のものは滅多に信じない。そう、確かに彼女には『温もり』があった。きっとカイの考えすぎだよ、と僕はカイを諭した。
カイはいつも僕よりも遅く学校に来る。小学校の時も、中学校の時も、それは今も変わらなかった。学校へ行く途中、おはよう、と肩を強く叩かれ振り返ると、カイがいつもとは違う、すっきりとした顔をして立っていた。毎日、眠そうなカイは、昨日はおばあちゃんの家に行っていてギターの練習を夜遅くまでしなかったらしく、普段よりも少し話していた。見かけによらずカイは、いわゆる『お婆ちゃん子』だった。カイも、小さいころから両親が仕事で忙しく共働きだった。ずっとおばあちゃんと過ごしていたから、今も時々遊びに行っているらしい。
カイと話しながら歩いていると、少し前を柚葉と、柚葉のクラスメイトの有希ちゃんがワイワイ騒ぎながら歩いていた。同じ委員会の二人はとても仲が良く、いつもくだらない話をしては笑い合っている親友同士だった。有希ちゃんと柚葉は、自分が一番かわいい、とか、はいはい、と言いながら歩いていて、僕とカイもその輪に入るように走って二人を追いかけた。
学校に着くと、僕はカイや柚葉達と別れ自分の教室へと向かった。僕の席は後ろから二番目の窓際。この席が昔から好きだった。ぼんやりと外を眺めると、時にはグラウンドを走る別のクラスが目に入る。汗を流し、辛そうにしているのを見ていると、のんびりとした教室の中の自分に少し優越感を味わえる。季節の変わり目や急な天気の移り変わりなど、外の色々な表情を見るのも好きだった。席に着くと、教室の窓を少し開け、鞄からお気に入りの小説を取り出しページを捲る。騒がしい教室の中で、僕はいつも朝のホームルームまでの間本を読みながら自分の世界に入り込んでいく。穏やかな一日の始まりだった。開けた窓からはそよ風が学校の前の桜の香りを運んできた。くんくんと鼻を向けると、いつもより香りが強いような気がした。
キンコンカンコンと朝のチャイムが鳴ると同時に、教室の扉がガラッと勢いよく開いて担任教師が入って来た。号令の後、おはよう、と言って担任は教室の扉に目をやった。
「今日は皆に新しい仲間だ。入ってきていいぞ」
担任に促されて教室に一人の女の子が入って来た。転校生だ、と一瞬教室がざわつき担任が、静かに!と両手を上に挙げた。転校生の女の子は、綺麗な髪をさらさらと靡かせ、透き通るような瞳で教室をぐるりと見た。自己紹介を、と担任が言って、女の子は自分の名前を黒板に書きながら一度お辞儀をしてから言った。
「雨宮春です。宜しくお願いします」
聞き間違いかと思い、もう一度じっと前を見据えた。教室に入って来た時の女の子の顔、髪、そして名前。何よりあの瞳を忘れるはずがない。『雨宮春』そこにはあの公園で出会った彼女が立っていた。
僕は、戸惑っていた。どうして、何故彼女がここに居るのか。自然と、心臓の鼓動が早まり、次第にドクドクと波打つ。じゃあ、あそこの席に、と担任は高槻の隣の席を指差した。僕の右隣の二つ前の席。そこが彼女の席になった。はい、と返事をして席に向かう途中、彼女は僕に一瞬微笑んでみせた。思わず目を逸らし、僕は窓の外を流れる雲を無意味に見つめていた。担任の話も、クラスのざわつきも、今の僕には全く頭に入ってこなかった。斜め前に座り、クラスメイトと楽しそうに話をしている彼女から目が離せず、その後の授業中も全く集中ができないほど、色々な感情が僕を邪魔していた。
休み時間になり、僕はその場から逃げ出すようにカイの教室に向かった。自分の教室から出て廊下を走り始めてすぐに、こら!という声で僕の足は止まった。驚いて振り返ると、そこには彼女が居た。
「な、なに…?」
「いきなりいなくならないでよ!私の知ってる人は、君しかいないんだから」
むぅっと頬を膨らませながら、彼女は言った。どうやら、僕が教室を出て行ったのを見かけて、慌てて追って来たらしい。転校生なのに、僕は彼女の事を知っている。転校生なのに、彼女は僕の事を知っている。でも、僕は彼女の事を良くは知らない。そんな事を考えていると、僕は何だか可笑しくなって、ふふっと笑い出してしまった。なにがおかしいの!と僕の頬をギュッと抓りながら、彼女も笑っていた。
「なんか、不思議なことが起きすぎて、分からないことが多すぎて…」
止まらない笑いを何とか押さえながら説明をする僕に、バカだなぁ、君は、と言いながら僕を指差してニコッとした。
「君が望んでくれたから、私はここに居るんじゃない」
もう随分前から知っているような、何度も会ったことがあるような、カイや柚葉と同じで、彼女には、何故か一緒に居ても違和感を感じない。
「おい、そら!」
ちょうど、僕の教室に来ようとしていたカイが来た。僕と、隣に居る春を見て、カイは目を見開いた。
「お、お前…誰だよその子!」
「カイ?丁度良かった!この子が…」
話し始めてすぐに、カイは僕に捲し立てた。
「そら!お前ってやつは…俺に黙っていつの間にそんな可愛い子を!」
違うんだよ、と説明をしようとする僕の話なんかには耳も貸さず、問答無用!と僕の頭に拳をぶつけてきた。僕とカイを見て、声を出して笑う彼女に、カイもようやく落ち着きを取り戻して僕の話に耳を寄せてくれた。
僕の隣に居る彼女が『雨宮春』という転校生であること、そして、僕がさくら公園で出会い、カイや柚葉と何時間も、何日も待った女の子だということ、僕はこれまでの事を、全てカイに説明した。カイは、そういう事か、と納得し、彼女に自己紹介を始めた。
「俺は三上カイ!カイって呼んでよ!宜しくね」
「宜しく。そら君、君の友達は楽しいね」
くすくすと、まだ笑いながら彼女は言った。そんな彼女を見て、カイもいつもの調子でふざけながら、君は女神だ!とか可愛い、というような事を言っていて、僕は、相変わらずだな、と苦笑いをしながらカイを見ていた。途端に、カイがハッとしたように廊下の後ろを振り返ると、そこには、わなわなと肩を震わせながら柚葉が立っていた。キッとカイを睨みつけ、誰が見ても『怒っている』という雰囲気を纏いながら、ゆっくりとカイに近づいて行った。
「また、女の子ナンパして…カイ!」
「ちょ、ちょっと待てって。ナンパなんかしてないって!」
「うるさい!」
何度も見慣れたカイと柚葉のじゃれ合い。いつもの光景。そこには、君が居る。君の笑顔が咲いている。もう、いつもの日常ではない。僕の見る世界が、キラキラと輝きだした。
授業を熱心に聞き、黒板の文字をノートに書き写す。なんてことはない。何年間も同じ事をしてきた、至極当然、自然なこと。休み時間が明けて、少し落ち着いた僕はいつものように授業を受けていた。ただ、何でだろう、僕には、彼女がいつまでも輝いて見えていた。彼女は、休み時間になるとクラスメイトに囲まれていた。春ちゃん、春ちゃんと、何人もの級友が入れ替わり立ち替わりに彼女の元にやってくる。転校初日なのに凄いな、と僕は思った。でも、それはきっと彼女の人柄がそうさせるのだろう。僕も、公園で彼女と会った時から彼女にはすっと話しかける事が出来た。
「はーるちゃん!」
「カイ君!」
勢いよく教室に駆け込みながら、カイは僕には目もくれず、春の所に行った。
「春ちゃん、今日予定ある?連れて行きたい所があるんだけど」
カイは、もう彼女と仲良くなっていた。カイと楽しそうに話す彼女を、僕は相変わらずぼーっと見つめていた。こんな光景、見るなんて思ってなかったし、僕の日常に彼女が居るなんて、想像もしてなかった。
「全く、カイには呆れるわ、ほんっと、女好きなんだから」
「うわ!柚葉…いつからそこに…」
「私が話しかけても気付かないんだもん。そんなに夢中で見つめちゃって」
な、なんだよ!と僕は思わず席から立ち上がり柚葉に弁解をしようとした。ははは、と笑いながら廊下へ逃げる柚葉を目で追いながら、カイと春もこっちを見ながら笑っていた。僕が席に座りなおすと、カイと春が僕の席にやってきた。
「お前らはいつまでたってもガキだな」
「本当に、仲が良いんだね」
「そらと柚葉は幼馴染だからなぁ。小さい時から一緒なんだ」
カイが僕と柚葉の関係性を『幼馴染』と言った時、彼女はふと、教室の窓から外に目をやり、私は、何なのかな、と呟いた。本当に、よく聞いてないと聞こえないような小さな声で。
え?と彼女の言った言葉を訊き返そうとしたカイに、彼女は笑いながら、何でもない、と答えた。その日の休み時間、カイは毎時間彼女の所へ来てまるでマシンガンのようにくだらない話を次から次へと話していた。そんな時、カイが何気ない話の中で僕とバンドをしている事を彼女に話した。
「春ちゃんさ、歌凄く上手いんだってね!」
「そんなことないよ!」
「いやいや、そらが言ってたぜ?『感動した』ってさ」
きっと、お世辞だよ、という彼女にカイは、僕がバンドでボーカルをしている事、彼女の歌を聞いて感動したと話した事、カイも、僕の歌を聞いてバンドを組もうと決めた事。その話を聞いた彼女は、急に興味を示し、一瞬驚いた表情を見せた。そして何かを考えながら、いつからやってるの?とカイに聞いていた。
「本格的に始めたのは…半年くらい前かな?でも、昔からあいつとは歌うたったりしてたんだ」
「そうだったんだ。新堂君、歌好きなんだね」
「あいつ、『しゃぼんだま』歌うんだよ。形見みたいなもんなんだ、きっと」
僕は、下を向いていた。カイも俯き加減で話していて、彼女はさみしそうな目で、僕等を見ていた。
春に咲いた歌 陽亜 @harua
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