春に咲いた歌

陽亜

第1話 出会い

春の終わりを告げるように、桜の花弁が聖堂高校の校門に散り落ちる。挨拶をしながら下校する生徒を生活主任の教師が見送りながら校門を掃除していた。校舎の二階、教室の窓の外を眺めながら僕は自分の鞄に教科書をしまい時計を見上げ、そろそろか、と呟いた。そよそよと、五月の生暖かい風が僕の顔を撫で、心地良いような、何とも言えない気持ちにさせてくれる。

 「そら!」

 急に声を掛けられ、僕はびくっと肩をすくめ振り返った。教室のドアの前には、親友のカイが待ちくたびれたようにドアにもたれかかっていた。今日はカイと組んでいるバンドの練習の日だった。クラスが別のカイは僕のクラスより早く掃除が終わったらしく、もう三十分も待っていると、半ばイライラしながら待っていた。

 カイはいつもそうだった。バンドが楽しいのか、学校が終わるとすぐに練習に行きたがる。週に三回の練習。いつもこんな調子で僕の教室に来ては急かすように僕に手招きをしてみせる。

 「早く練習いこうぜ」

 うん、と返事をして、教科書の詰まったカバンを肩にかけて僕は足早に教室を出た。確かに、僕もカイとする週三回のバンドの練習が楽しみだった。

 

 何気ない会話をしながら、僕とカイは廊下を歩いていた。突然、カイが思い出したように、あのさ、と話を切り出した。

 「俺さ、新しいギター買おうと思ってんだよ。なんだと思う?」

 やけにニヤニヤしながら僕に聞いてくるカイを、僕は少し気味悪く感じながら顎に手を当て、なんだろう、と大げさに考えてみせた。実は昨日、カタログ見てたらよ、とカイが話し始めてすぐに、廊下の後ろの方から声が聞こえてきた。

 「カーイ、そらー」

 僕らを呼ぶ声にカイと僕が振り返ると、幼馴染の柚葉が大きく手を振りながらこっちに向かって走ってくる。ようやく僕らに追いついた柚葉は胸に手を当て息を整えながらカイの顔を覗き込んで、また練習?と話しかけていた。

 「当たり前だろ。柚葉は、今帰りか?」

 カイが返して柚葉も、うん、と返事をしている。生徒会の委員をしている柚葉がこの時間に帰りなんて珍しい。ましてや、この三人が並んで廊下を歩くなんて何日振りだろう。

 「二人とも好きだねー。また練習?もしかして、『目指せ武道館!』ってやつ?」

 ケラケラと笑いながら聞いてくる柚葉に僕は、ううん、と首を横に振った。カイとバンドを始めてから僕は、プロになろうとかそういう気持ちはなく、そんな話を二人としたこともない。ただ好きだからバンドをしていた僕は、ただの趣味だよ、と説明をした。

 でも、趣味があるっていいよね、と柚葉は鼻をふふんと鳴らし、何かを思いついたように、私もついてっていい?とカイに聞いていた。

 「オウ!来いよ!俺らのオリジナル聴かせてやるよ」

 カイが身振り手振りでギターを弾く真似をしながら柚葉に言う姿を見て、僕とゆずはも笑いながら、三人で学校を出ていつも練習で使う貸しスタジオに向かった。

いつもの貸しスタジオには、ギターの音と歌声が響いていた。何曲か通して練習をした僕は、はぁはぁと息を切らしていた。カイも激しくギターを弾き、疲れたように腕をグルグルと回しながら、ふぅ、と一息つき、用意していたペットボトルのお茶をゴクリと一口飲んだ。

 「そら、サビの部分力入りすぎじゃない?」

 カイにそんな事を言われるのは一度や二度ではないが、歌っていると時々、夢中になりすぎて頭の中が空っぽになり、ふっと自分の世界に入り込んでしまうときがある。言葉ではうまく言い表せられないような、体が熱くなって、でも、この感覚が好きで歌を歌い、もちろんカイのギターじゃなければこんな感覚にはならないと思っている。カイも、満足げに笑いながら、俺も熱くなったよ、と言ってジャーンとギターを鳴らした。

 初めて僕とカイの練習をみた柚葉は、目を輝かせていた。まるで、物が見えるようになった子供が、見る物全てが何かわからずに、でも興味津々なキラキラした目で見るように僕とカイを見ていた。

 「すごい…超感動した!」

 「俺のギターとそらの歌があれば感動しないやつはいないからな」

 よくも自慢げにそこまで言えるもんだ、と半ば呆れながら、でも、そこまで自信を持って言えるカイが羨ましかった。僕は自分の歌に自信もないし、人を感動させる歌なんて歌えない。恥ずかしくて下を向いていた僕に、なんかよくわからないけど、でも、好き!と言いながら柚葉はカイと目を合わせ、カイも僕の肩をポンポンと叩きながら、俺もだぜ、と言った。二人の言葉に余計に照れた僕は、もう一度下を向きひんやりとした床を見つめていた。ふと、時計を見るともう午後七時三十分を過ぎていた。こんな時間になるまで気づかずに、何かに熱中するのはバンドの練習の時だけだった。

 「もうこんな時間か。そろそろ、帰ろうか」

 カイの言葉に僕と柚葉も、うん、とうなづいた。片づけをしてスタジオを出ると、空は静かな紺色に染まっていた。帰る方向が逆のカイと別れ、僕と柚葉は一緒に同じ道を帰ることにした。帰り道、柚葉が僕を呼びとめた。

 「ねぇ、カイってギター上手だよね。いつも一緒にいるのに、ちゃんと聴いたの初めてかも」

 確かに、カイはすごい。ギターを始めたのも高校に入ってからで、それなのにメキメキと上達していってる。僕はカイの話になると夢中になり、いつも必ずと言っていいほど、あいつは天才だよ、と話している。僕が話している間も柚葉は、うんうん、と聞いてくれた。そしてニコッと笑いながら、また聴かせてね、と言った後、思い出したように僕のほうを向き直し、それから、と続けた。

 「ちゃんとご飯食べて、お風呂入ったら風邪ひかないようにね!」

 「言われなくてもわかってるよ。」

 そんな会話をしながら歩いていると、柚葉の家の近くに来ていた。僕と柚葉は、またね、と言って別れて僕も自分の家へと足を向けた。柚葉は、すぐ僕に小言を言う。幼馴染ということもあり、小さい頃からずっと一緒だった。優しい性格で、まるで母親のようにいつも僕の心配をしてくれた。いつだったか、僕が自転車で転んだ時も大した怪我ではないのに、泣きながら不器用な手で絆創膏を貼ってくれ、それからしばらくはその怪我を気にしてくれていた。口うるさいところもあるが決して『ありがた迷惑』なんて思ったこともなし、柚葉のお節介が僕には日常だった。

 保育所から柚葉と同じ小学校に上がって、柚葉以外に初めてできた友達がカイだった。人見知りで、なかなか上手く友達を作れなかった僕に声をかけてくれて、今と変わらない打ち解けやすい雰囲気で気付けば休み時間は三人で遊んでいて、カイのおかげで出来た友達も多くなった。それからカイとは『親友』と呼べる仲になっていた。

 

 家に帰った僕は、誰もいない家の明かりをつけ、すぐにリビングの奥の畳部屋へと向かった。ただいま、とゆっくり見上げる視線の先には僕の母さんがそっと笑う遺影があった。物心ついた時から母さんはいなく、代わりに家に帰ると必ず母さんの遺影に手を合わせていた。お母さんは死んじゃって、もう帰ってこれないんだと聞かされたのは小学校低学年の時だった。授業参観も、運動会も、いつも僕の所は父さんだけだった。まだ三歳の時に母さんが亡くなってから、父さんは男手ひとつで僕を育ててくれた。昼間はギュウギュウの満員電車に揺られながら会社に行き、営業として一日中歩きまわりながら会社が終わると深夜のコンビニでアルバイトまでしてくれていた。当然、家に帰ると父さんがいることはほとんどなく、テーブルに置かれた夕飯と置手紙が僕と父さんを繋いでいた。だからといって僕は父さんを嫌うこともなく、むしろそれよりは尊敬しているほどだ。

 三歳の時からいない母さんとの思い出はほとんどなく、唯一覚えているのは、寝る時に頭を撫でてくれる手だった。その優しく温かい手の感触だけを、僕は鮮明に覚えていた。いつものように遺影に手を合わせ、僕は冷蔵庫に手を伸ばした。飲み物を探すと、牛乳が切れていた。時計の針が午後八時を指そうとしている。少し考えたが、今のうちに買っておこう、と僕はスーパーに買い物に出掛けた。食器棚の上から三番目。そこには父さんが置いていってくれた『食費袋』がある。いつもそこから、使いすぎないように五百円だけを抜き取り、必要なものだけを買うようにしていた。

歩いて五分ほどの所にあるスーパーで、僕は牛乳と父さんの好きなシュークリームを買い、帰ろうと店を出た。ふと、スーパーの向かいに目をやると、そこは僕の記憶にない家族写真を撮った公園があった。写真でしか見たことのない、家族写真。そこは『さくら公園』という名前で、高校生になった今でもよく来るだった。来た道を戻ろうと背中を向けた時、微かに僕の耳に歌声が聞こえてきた。聞き間違えかと思ったが、なぜか僕は吸い込まれるように公園の中に足を運んでいた。

声がした方に目をやるとそこには、桜の木に囲まれた滑り台の上に座る女の子がいた。真っ黒な闇にぽっかりと浮かんだ満月に照らされて、桜の花が舞う中で綺麗な髪を靡かせながら女の子は「Amazing Grace」を歌っていた。その光景に僕は、一枚の絵画を見ているような気分だった。とても幻想的で、一つの芸術品のようなその姿に、僕は一瞬にして引き込まれていった。その場に立ちつくし、いつもの公園に突如現れた不思議な世界に僕は今までにない感情を抱いていた。周りの音が何も聞こえなくなり、目を閉じるとまるで音のない水の中に放り込まれ、ゆっくりと体が沈んでいくような、何とも言えない感覚が僕を包んでいた。あまりに現実離れしたその姿に深く入り込みそうになった時、不意に僕の手からスーパーの袋が音を立てて落ちた。その瞬間僕はグイっと現実の世界に引き戻され、ガサっという袋の音に気付いた彼女も僕のほうを見た。目があった僕は焦り、すぐに頭の中で言い訳を考えた。

「あ、あの…通りかかったら声が聞こえてきて、その…」

しどろもどろになりながら大きく手を振り言い訳を続けようとする僕に彼女は小さく口を開いた。

 「どうだった?」

 「え…?」

 「私の歌、聴いてたんでしょ。どうだった?」

 謝ろうと必死に考えた言い訳が、全て消えてなくなるような突然の質問に僕は戸惑い、うーん、と考えてしまった。

 「え…と、凄く綺麗だった。桜も月も、君の歌で全部が綺麗に見えた」

 初めて会った人にそんなことを言うなんて、普段の僕では考えられなかった。なぜそんなことを言ったのか、ただ、自然と口をついて出た言葉がそれだった。彼女に綺麗だったと言った途端、僕は急に恥ずかしくなり慌てて地面に落ちた袋を拾い上げた。ゆっくりと彼女が滑り台から降りてきて、今度は数歩歩いてから僕のほうに向きなおり、ありがとう、と微笑みながら言った。その彼女の小さな笑みが、また僕の中の『時間』を止めていた。

 「ねぇ、今何時?」

 「え、えっと、八時十五分かな?」

 僕は左腕にしていた時計に目をやり、彼女に時間を教えると、彼女はえー、と言いながら慌てて走って帰ってしまった。またね、となぜか嬉しそうに手を振りながら走り去る彼女を見ながら、僕はその言葉の意味を考えていた。満月と小さな星が無数に広がる夜空の下で、いつもの公園なのに、なぜか少しだけ桜の香りが濃いように僕は思った。


 チャイムの鳴る教室で、僕は昨夜の事が頭から離れなかった。一体なんだったのか、まだ夢の途中で、幻を見ていたような、ぼんやりとだけど頭の中にははっきりと残像が残っている。早く、カイに話したいと思い、休み時間になって僕はすぐにカイの教室に急いだ。カイ!と教室の前で呼ぶと、机に顔を突っ伏して寝ていた。教室に入ると僕は、カイの肩を揺すり起こすと、カイは眠そうな目をこすり、欠伸交じりの返事をした。夜遅くまでギターの練習をしていたらしく、寝不足のカイを見て、僕は、相変わらずだな、と笑った。

 「んで、どうしたんだよ」

 大声で起こされ、少し不機嫌そうにカイが聞いてきて、僕はカイに話したいことがあったのだと思いだした。

 「昨日さ、すごく歌の上手い女の子に会ったんだ!もう、すごく上手かったよ!」

 自分でも珍しいと思うほど、僕は興奮しながら話していた。ふーん、と相槌を打ちながら僕の話を聞いていたカイが、急に僕の顔を見ながらにやにやして聞いた。

 「んで、どうだったんだよ?」

 「ど、どうって、何だろう、上手いというよりは、神秘的な…」

 「ちがうよ、そら。その子、可愛かったのか?」

 「まぁ…普通に可愛かったかな…」

 まだにやにやしているカイを見て、僕は、まさか、と思ったが、長年カイと一緒にいる僕にはカイの考えていることがすぐに分かった。きっと、一緒に行こうとか、その子が見たいとかまた言い出すんだと、僕はすぐに思った。

 「今日の帰り、行ってみようぜ!」

 よーし、と大きく欠伸をしながら言うカイを、僕は、やっぱり…、と思いながら苦笑いをして見ていた。

 カイとは親友なのに、カイは僕にないものを持っていた。女の子によくモテるカイは、特定の彼女を作らない。いつだったか、僕がカイになぜ彼女を作らないのかと聞いた事があったが、そんな話の時は決まってカイは、一人の女は愛すことはできない、と言う。憧れはしないものの、僕に無い、何か違うものを持ったカイは、僕にとっては光って見えた。

 一通り、放課後の予定を決めて話も終わろうとした時、柚葉が教室に入って来た。おはよう、とカイの肩をポンと叩きながら挨拶をする柚葉に僕らも手をあげて返した。

 僕たちは、高校に入ってずっとクラスがバラバラだった。僕がカイに用事があればカイのクラスへ行き、カイが僕に用事がある時はカイに呼ばれて教室に行った。僕とカイがカイのクラスに居れば自然と柚葉がその輪に加わる形でカイの教室に来た。まるで夏のコンビニやスーパーに灯いている、殺虫灯に集まる虫のように、いつもカイの教室に僕らは集まっていた。

 ふと、柚葉を見ると顔をしかめながら膝を押さえていた。どうしたのかと聞くと、学校に来る途中で転んじゃったの、と柚葉はへへっと笑って擦りむいた膝を見せてきた。転んだときに一番に膝をついてしまったのか、真っ赤になった膝には少し血が滲んでた。

「大丈夫?ちゃんと診てもらったの?」

 心配しながら聞いた僕の背中にしがみつきながら、柚葉は大げさに痛がって見せた。

 「大丈夫じゃないー。おんぶしろ!」

 「歩けてるじゃん…」

 いつもこんなやり取りで柚葉とじゃれ合いながら一日が始まる。その始まりがいくら騒がしくても、僕は嫌いではなかった。柚葉とじゃれ合いながら、僕は思い出した。僕は、柚葉にも昨夜の出来事を話そうと思っていた。そういえば、と僕は柚葉に昨日の事を話した。聞こえてきた綺麗な歌声や彼女を見た時の不思議な感情。僕は話が止まらなかった。なぜか、彼女の事を考えるたびに頭の中が熱くなり思った事がすらすらと口からこぼれてくる。あまり女の子の話をしない僕に少し驚きながらも柚葉は僕の話を聞いてくれた。時折、ふんふん、と相槌を打ちながらふぅん、と聞いていた。僕が柚葉に話をした理由は、柚葉が生徒会役員をしているからだ。生徒会なら、この学校の生徒の事に詳しいはずだ。

 「合唱部とかに居ないかなぁ。もしかしたら、楽器とかやってるかも!」

 「んー、長くて綺麗な明るい髪の子か…私の知る限りでは居ないかな」

 少し考えながらそう答える柚葉に、きっと柚葉なら何か知ってるかも、と淡い期待をしていた僕は、思いがけない柚葉の言葉にがっかりし、肩を落とした。よく考えれば、この学校の生徒だと勝手に思い込んでいたが、学校も名前も聞いていない僕に、彼女の情報なんて全くなく、それで柚葉がその子の事をわかるはずもなかった。ましてや、昨日は時間を教えるとすぐに彼女は走って帰ってしまったからそんな事聞く暇もなかった。

 「この学校じゃないのかな…」

 考え込む僕を見て、はっはっはっ、とわざとらしく笑い声をあげ、柚葉は僕の肩に腕を回し、ついにそら君にも春が来たのかな?と顔を近づけながら言った。そんなんじゃないよと僕は手を振り否定をしたが、柚葉には通用しなかった。

 「まぁ、あの公園に居たんならまた会えるでしょ?」

 そう言いながら柚葉は、よっ、と掛け声をあげながら少し助走をつけて僕の背中に飛びついて、僕はその拍子に転んでしまった。楽しそうにじゃれてくる柚葉をよそに、僕の頭の中では彼女の綺麗な姿が、あの透き通るような歌声がリフレインしていた。

柚葉とカイに彼女の話をしてから教室に戻った僕は、その日一日なんだかぼーっとしていて時間のたつのが凄く遅く感じた。柚葉はああ言っていたが、きっともう会えないんだろうな、と思いながら授業を終えて玄関でカイを待っていた。どこか落ち着きがなく、そわそわしながら。早く行きたい、でなければもう本当に、彼女に会えないような気がしていた。ようやく、クラスの掃除を終えてカイが玄関に走ってやってきた。

 「よし、じゃあ噂の『彼女』でも見に行きますか!」

 僕の頭をくしゃくしゃと撫でながら言うカイに、僕も頭を撫で返しながら、だからっ!と訂正をしようとした。

 「わかってるって!『歌』だろ?」

 そんなやり取りをしながら僕とカイは、さくら公園の前に来ていた。

 公園の入り口には、かなり年数の経過したような、ボロボロの木の看板があり、その看板には『さくら公園』とかすれた文字で書かれていた。ふいに、看板の前でカイは足を止めた。カイ、と読んだ僕の声に気付き、カイはハッと我に返った。

 「懐かしいよな、ここ。お前の歌を初めて聴いたのも、ここだったよな」

 「またその話?人がいるなんて思わなかったんだよ」

 ははっと笑いながら僕とカイは公園の真ん中にある、安っぽい造りのベンチに座った。遠くから、キャッキャと子供の遊ぶ声が耳に入ってきた。さくら公園の近くには最近できた大きな市営の公園がある。近代的な造りで簡易的なステージがあったり、夏には家族連れが遊べるような大きな噴水もあった。小さな人口丘に充実した真新しい遊具。砂場以外の場所は芝生が一面に敷き詰められていた。その公園では誰かが歌の練習をしてたり、どこかの学校の吹奏楽部が楽器の練習をしていた。それでも僕は、さくら公園に通った。市営の公園に比べるとかなり規模が小さく、僕が生まれる前からありお世辞にも『きれいな公園』とは言えないほど寂れている。でも僕は大勢が集まる立派な場所より、この錆びたベンチに子供一人がやっと遊べるような滑り台が好きだ。隅には大きな桜の木が季節の移り変わりを教えてくれる。一年中、僕はこの場所に居てもきっと飽きないと思う。

 カイも、学校の帰り道にたまたまさくら公園の前を通ったらしく、僕を見つけて声を掛けようとしたときに僕の歌を聴いたと言っていた。あの日、僕はこの公園で歌を歌っていた。『しゃぼん玉』。夕暮れの中で、小さい頃に母が歌っていたその歌を、小さく、細い声で口ずさむように歌っていた。

 「思い出の歌なんだ。僕の唯一知っている母さんの歌…」

 カイと話しながら、僕はなぜか寂しさを感じていた。『思い出の歌』と話す僕を見ながらカイも、うんうん、と大きく頷き、それ以上は何も言わず黙って僕の話を聞いてくれていた。 

 「優しそうだよな、そらの母さん。写真でしか見たことないけど、わかるよ。お前、大切にされてたんだよな」

 「うん…」

 しんみりとした空気になったのを感じたのか、そんな空気が苦手なカイは、急にニコッとしながら、お前の歌、特別上手いわけじゃないのにな、と言いながら笑っていた。

 「あ、いたいたー」

 話をしている僕等の間に割って入るように、柚葉の声が響いて僕等は振り返った。まだこの時間は、委員会が終わってないはずなのに、と思っていたが、どうせサボって来たんだろ、というカイの一言で柚葉の表情がフッと変わり、僕はその表情の意味がわかった。下を向きながら、フフッと意味深な笑いを放った後、柚葉の手はカイの頭やお腹に振りかざされていた。うっという小さな声の後、おとなしくなったカイを見下ろしながら柚葉は、さっさと終わらせて来たのよ、とふん、と鼻を鳴らしながら言っていた。

 「まだ、会えてないの?」

 「う、うん」

 「いてて…でもさ、ここに来るって根拠は無いんだろ?待ち合わせしたわけでもないし」

 今さら、と思ったが、確かにそうだった。待ち合わせもしていなければ、彼女がどこに住んでいて、いつまたここに来るのかもわからなかった。今日会える確信なんて、どこにもなかった。それでも僕等三人は待ち続けた。小学校に戻ったかのように無邪気にはしゃいで遊具で遊ぶカイと柚葉をぼうっと見ながら、僕はあの日彼女の言った『またね』の意味を改めて考えていた。なぜ、またねと言ったのか、ここで待っていていいのか、あの言葉があったから僕は今待っているのに、彼女は、またここに来るつもりだったのだろうか、ろ色々な事が頭に浮かんでいた。

 どれだけ待ったのだろうか。段々と夕暮れが近づいてきているのに気付いて、


僕達は待つのを諦め、帰ろう、と話した。公園を後にし、コンビニに寄りクレープを食べる柚葉。時々柚葉とカイがじゃれながら騒がしい帰り道。いつものメンバー、何気ない会話。彼女と会えなかったのは残念だったが、僕はこの時間、この三人の帰り道が好きだったからよしとした。


 空が暗くなり、近所の家や街頭に明かりが灯り出す。少し遅くなったと思った僕は、足早に家に急いだ。家に着くと、ついていないはずのリビングの電気がついていた。消し忘れだろうか、と家の中に入ると、家には珍しく父さんの姿があった。『おかえり』と手をあげる父さんを見るのは久しぶりで、僕が、どうしたの?と聞くと父さんは嬉しそうに、僕に説明を始めた。会社が終わり、バイト先の店長に『たまには早く帰って息子と過ごしてやれ』と言われたらしく父さんは台所に立って夕飯の支度をしている最中だった。たまの休みに、休んでくれればいいのに、と思ったが、僕はその言葉をそのまま飲み込んだ。

久々の父さんとの夕食は、すき焼きだった。高校に入る前から、一緒に夕食をすることなんて滅多になかったのに、父さんは僕の好物を覚えていてくれたようだ。きっと、バイト先からの帰り道、夕飯は僕の好物のすき焼きにしようと考えてくれていたのかと思うと、僕は何だか無性に嬉しくなった。手際良く料理をする父さんと、色々な話をした。学校の事、カイや柚葉の事。ふと、話していた父さんの手がピタッと止まった。

「まずいな…豆腐を買い忘れた。悪いがそら、買ってきてくれないか?」

「わかった、行ってくるよ」

父さんはたまに抜けているというか、肝心なところで何か忘れてしまうということがよくある。僕が昔からおっちょこちょいで、どこか爪が甘かったりするのも、きっと父さんに似ているのかもしれない。


僕の家からスーパーまでは歩いて五分程度の距離にあり、夜も遅くまで営業していることもあって普段から通っていた。スーパーまで歩きながら、僕はどこかわくわくしていた。『今日は一人じゃない』と思うと、やっぱり嬉しくて、早く買い物をして帰ろう、と小走りでスーパーに向かった。スーパーに着くとすぐに豆腐を買い、ついでにほかに切らしている物を、と思いそれも買った。買い物が終わり、スーパーを後にしようと店を出た時、ふと頭に彼女の姿が浮かんだ。もう、時間も遅いし居るわけないよな、と思いながらも、僕の視線はさくら公園の方に向いていた。

昼間とは違って、公園は静寂に包まれていた。夜風に吹かれて、桜の木がさらさらと音を立てていた。『居るはずない』とわかっていたのになぜ来てしまったのかわからないが、気付けば僕は公園のベンチの前に居た。

 月明かりにぼんやりと照らされたベンチに、僕は腰かけた。あたりを見渡しても、やはり彼女の姿はどこにもなかった。やっぱり、と思い少しがっかりしながら、僕はあのときと同じように小さく口ずさんだ。


―しゃーぼんだーまーとんだーやーねーまーでーとーんーだー

やーねーまーでーとーんーでーこーわーれーてーきーえーたー


 突然、僕の耳にパチパチと拍手のような音が聞こえた。さっきまで誰もいなかったはずなのに、と驚き、音のした方を振り返ると、そこには昨夜の彼女が居た。いつからいたのか、どこから現れたのか分からず驚く僕に、彼女はそっと微笑んだ。

 「やっぱり、いいなぁ」

 「え…?」

 「また、会えたね」

 僕の目を真っ直ぐに見ながら言う彼女と僕の間に、夜風がいっそう強く吹き抜けた。


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