名前の在処
メルアが泣き止むまで、それほど時間はかからなかった。
落ち着きを取り戻したメルアは男に少しだけ歩くことを提案し下流に向かった。その途中で、川上から流れてきたであろう巨大な流木が砂利道に転がっているのを見つける。
それに腰かけ、自分のリュックから干し肉を二つ、水の入ったビンを二本取り出し、どちらも片方ずつ同じように腰を掛ける男性に渡した。
「はい、これ。ちょっと男の人には少ないかもしれないけど」
「十分だよ。ありがとう」
男の要求通り、メルアは食べ物を渡し、二人で遅めの朝食を食べることにした。男は二日、川の水だけで生活し、メルアも黒狼の所為で食事のタイミングを失っていた。
二人は干し肉に勢いよくかぶりついた。固いながらも味がよく染み出て、男に至っては無言でガジガジと一分も経たない間に完食してしまった。
メルアも急いで食事を済ませ、仲良くビンの水を飲み干す。
「っはー……生き返った。久々に固形物を食べたよ」
「だからあんなに慌てて食べていたのね」
「ああ。狩りがどうにも苦手みたいで、そもそも動物が見つからない」
男は恥ずかしそうに頬をかいて、メルアから視線を逸らす。
彼の顔に似合わない仕草だったので、思わず吹き出しそうになった。
「貴方も町へ向かっているの?」
「そのつもりだったんだが、道に迷ってね。二日も川水だけで生活する羽目になったよ」
メルアはちらりと男の腰に巻かれている革のバッグへ目をやると、確かに食料や飲み物が入りそうなビンなどは入っていないように思える。ぺたんこになっており、そもそも物が何も入っていないようだ。
「なら一緒に町へ行かない? 私は道を把握しているし、まだまだ恩返しがしたいの」
「……俺にとっても悪い話じゃないけど、それはやめておこう」
男は申し訳なさそうに言うと、立ち上がろうとした。
メルアは慌てて男よりも先に立ち、前へ立ちふさがる。
「ま、待って! でも私……その、まだ冒険者になって一週間も経ってないの。情けない話、まだまだ分からないことばかりで、私として貴方が町まで一緒に来てくれるのはとっても嬉しい事なの」
「君の心遣いは俺も嬉しいよ。だけど、君が思っているより、俺はまともな人間じゃなんだ。迷惑をかけることは多分避けられない」
「どう……して? 理由をきいちゃダメ?」
「……………」
男はメルアを見上げ、少し悩むとため息を吐いた。
何かを決心したのか、口をゆっくりと開く。
「……君は冒険者に成りたてと言ったね」
「う、うん」
「僕も君と似たようなものだ。何も知らない、哀れな旅人さ」
メルアは言葉の意味を理解できなかった。
彼の戦いを見て、誰がルーキーだと信じるだろうか。
錆びた直剣で魔物を三匹討伐した話はメルアも聞いたことがないし、戦いに慣れている動きだった。
素人のメルアが分かるほど、男の動きは繊細で、洗礼されていた。
「……ごめんなさい。よく、意味が分からないわ」
「じゃあ君は、もし俺が人殺しだって言ったらどうする?」
男の目が鋭く光ったようにメルアは感じた。
『人殺し』というキーワードを聞いて、メルアはまた心臓が掴まれたような感覚に陥るが、冒険者が何かしらの理由で人を討つことがしばしある。山賊退治、海賊退治、暗殺ギルドなんてものも存在する。
彼には彼の理由が何かあるとメルアは思い、臆せずに返事を返す。
「それには、何か理由があるから――じゃない? 私は、貴方が無差別に人を殺すような人間には見えない」
「……そうか。そういう認識なのか」
「え?」
男はぽつりと呟いて、立ち上がる。
メルアは思わず一歩後ろに引いたが、それでも前からどこうとしなかった。
今度はメルアが男を見上げ、男がメルアを見下ろす。
「単刀直入でいう。俺は――俺は、記憶がない」
男は、はっきりとした声でもう一度繰り返す。
「記憶がないから旅をしている。自分が何者なのか、どうして一人なのか。俺にはどんな過去があって――俺の名前は何なのか……」
「……貴方、名前もわからなの?」
「そうだ。目覚めた時にはここからかなり離れた別の森だった。手元にあったのは、この錆びた直剣と――」
ローブと首の間からネックレスを取り出し、男はメルアに見せる。
「このリングのついたネックレスだけだ」
「……見せてもらえる?」
「ああ」
メルアは男からリングのついたネックレスを受け取り、観察する。
文字も何も入っていない銀色に輝くリング。彼の記憶に関して手掛かりになる情報はなさそうだ。
メルアはお礼を言ってネックレスを返すと、質問をした。
「さっき貴方が人殺しだったらって質問を私にしたよね? それってつまり、人を殺した記憶があるの?」
「ない――ないから困っている」
男は力なく言うと、どかった流木に座りなおし、俯く。
「もし、俺が人を殺したことがあるならって考えると君の安全は保障できない。突然記憶が戻って、殺人鬼の人格を持っているとしたら、君も怖いだろう?」
「……」
「試したこともある。襲って来た賊を斬ろうとした時――何も感じなかった。罪悪感も、恐怖すらも」
男は首を横に振り、声は弱弱しい。
「だから分かってくれ。君と一緒に行動はでき――」
「やだ」
「え?」
男は顔を上げ、眉をひそめた。
メルアは両足を肩幅に広げ、腕を組み、男を睨みつけた。
「やだって言ったの。私、今決めた。貴方とこれから一緒に旅をする。それで、貴方の記憶を取り戻すわ」
「俺の話、聞いていたか?」
「もちろん。それで、腹がたった」
メルアはふうと息を吐き、同時に目を閉じた、。そしてまた開く。
「貴方が私に顔に見覚えがないかって聞いた理由は、知り合いを探しているのよね?」
メルアは最初にされた質問を思い出していた。
あれは、自分の顔を知っている人物を探し、記憶を思い出すための行動だったのだと。
「なら、人を拒絶するようなことはしないで。貴方の言っていることは矛盾しているの。分かってる? 貴方の記憶がどんなものだろうと、私は貴方を拒絶しないし、貴方も私を拒絶しないで」
「……だが、安全が――」
「言い訳はダメ。私、貴方が戦っている姿を見て素敵だと思ったの。命の恩人だからかもしれないけど、それでも私は貴方が悪人だとは思えない。私を助けたのは、心の中に良心があるからに違いないわ」
メルアはしゃがみ込んで、男と視線を合わせる。
男の目は、メルアを避けるように下を向いていたが、彼女の両手が彼の頭をがっちり抑え、無理やり顔を合わせるようにした。
これには男も驚いて、自然とメルアの目を見る。
「自信を持って。記憶を失う前の貴方も、失った後の貴方も、どちらも素敵な男性のはずよ? 私が保障するわ」
「…………はあ」
大きなため息を吐いて、男は観念したのか、表情が元に戻る。
「君には負けたよ。でもいいのか? 君には何か目的があって冒険者になったんじゃ?」
「私、村を出たくて冒険者になったの。特別何か目的があるわけじゃないし、丁度いいのよ。それに貴方もどこか当てはあるの?」
「…………ない。行き当たりばったりだ」
「ふふふ、私達、案外本当に似た者同士かもね」
メルアは男の頭から両手を離し、今度は右手を差し伸べた。
「改めて、私はメルア・ティディント。この森から西にあるトルサ村の出身。冒険者になって六日目かな? 特技は炎系の魔法。一応年齢は十五歳。よろしくね」
「ああ、よろしく。……俺は、その、本当に何も分からない。出身地も、名前も、歳も。ただ、体が覚えているのか、剣が使える。メルア、君を全力で守ることを誓うよ」
「ありがとう。私も頼りにしているし、頼ってもらっても大丈夫だから」
二人は握手をした。ぎゅっと握りしめた右手が、なんだかメルアは嬉しくなり、にたーっと笑みがこぼれる。
メルアは改めて男の顔と体格、その他色々を確認してみた。
黒髪、黒目、黒いローブにズボンや中に着ている服でさえ、汚れで黒く見える。背負っている鞘に収まった直剣も錆びて光を反射しないからなのか、黒ずんで見えた。
まさに彼を言葉で表すな黒一色だろう。
年齢は見た目で二十歳前後。若いのは間違いない。
身長も高く、180センチに近いだろう。それに比べてメルアは150センチもない小柄だ。二人が並んで歩けば兄妹や、もしくは親子にもみえるかもしれない。
さて――これからの事をどうしようかと考えていると、まず決めなくてはならないことに気がついた。
「うーん、じゃあまずは名前どうしようか」
「名前?」
そう――男の名前だ。
何時まで経っても『貴方』と呼ぶのはメルアも疲れる。
ならいっそのこと、彼の名前を決めてしまおうと思ったのだ。
「貴方の名前、ね。そもそも今までどうやって名乗っていたの?」
「今までは、追い返した盗賊の名前を借りていた。前はエリック。その前はトレバー。前の前はヴァルディ。それより前は覚えていないや」
男が名前を名乗る瞬間というのは、様々な場面がある。
咄嗟に思いついた、盗賊たちの名前を借りてその場をやり過ごしていたが、メルアは今後それでは問題になるかもしれないと考えた。
「どれもこれも貴方らしくないわね」
「そう……か?」
「えー、そうねえ…………」
メルアはじろじろと、男の顔を見つめ、立ち上がって後ろから観察したり、横顔を確認したりと忙しく視点を変える。
その間、大人しく男は座っていた。
表情は相変わらず無表情に近いが、内心不安でもあった。
「よし、決めたわ!」
メルアは男の隣に座り、足をぷらぷらと揺らしながら自信に満ち溢れた笑顔を男へ向ける。
「今日から貴方は『クロム』って呼ぶわ」
「くろ……む?」
「うん。クロム。黒髪、黒目、それに黒いローブ。直剣も錆びて黒く見えるし、貴方はクロって名前が似合うと思うの。でもそれだけだと猫の名前っぽいでしょ?」
「そうなのか?」
「そうなの。だからね、ずっと『むすっとした表情』をしているから『ム』を加えて『クロム』。かっこいい名前だと思うけど、どうかしら?」
「クロム……か」
口に出して呼んでみると、男は悪い気はしなかった。
むしろ自分に与えられた名前に興奮すら感じる。
記憶をなくし、目覚めてからこのような感覚に陥ったのは初めてだった。
孤独の中で生き、旅を始めてもう何日経過したかも男は分かっていない。
分からないことだらけの世界は、自分自身がだけが取り残されたような不安にあおられていた。
だが、メルアが名前を授けてくれたこと――たったこれだけで、やっと世界に自分の存在を示すことができたのではないかと男は感じた。
孤独と不安だけの旅だったが、この少女との出会いが何か大きな選択肢であり、分岐点であり、運命ですらあったのではないかと――。
男は何もない右手を見つめて、ゆっくり拳を作って握りしめた。
心の中で何度も呟き、彼は――クロムはメルアへ笑顔を向ける。
「分かった。今日から俺はクロムだ。宜しく頼む」
「うん、宜しくねクロム!」
メルアはクロムともう一度両手を握り合い、二人の旅はこうして始まったのだ。
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