クロサビの旅人

猫之宮折紙

見習い冒険者と記憶無き旅人

「旅は現実逃避のためではなく、人生が我々から離れていかないようにするためにするものだ」――無名――。



 森の中を一人の青年が歩いている。

 頭から深くフードを被り、黒いローブをユラユラ揺らしながら道を進んでいた。

 初夏だというのに、彼の恰好は見るからに暑苦しい。

 案の定だが、青年の額からは汗が滲み出て、頬からはポタポタと流れる。

 青年は一度立ち止まり、背中に滞納している直剣に触れた。

 ザラリとした感触を右手に感じ、擦りながら剣の柄に触れた右手を見た。

 黒色の錆が斑点模様を描き、指と指で擦れば簡単に落ちてしまう。


「また錆が酷くなったな」


 一言だけ言い終えると、青年は再び歩き出した。


 ここがどこなのかも知らず――自分自身が何者なのかも知らずに――。


「ん?」


 しばらく歩いていると、木々が少なくなり、やがて光が差し込んできた。

 どうやら森を抜けたらしいが、足元を見てみれば崖になっている。

 高さはそれほどない。滑り降りることも可能だ。

 崖の下は砂利道となっており、川も流れている。

 そのさらに向こう側はまた森になっているようだ。

 彼はここ数日、森を抜け出せないでいる。何時になれば外に出られるのだろうかと、考えるだけでため息が漏れた。


「ついてないな……。いや――あれは?」


 引き返して別の道へ行こうとした時、川の向こうにある森から誰かが急いで出てくるのが見えた。

 そして続くように――。


 青年は舌打ちをして、背中の直剣に手を掛けた。


「死ぬぞ、あいつ」


 青年は――駆ける。



「はぁ……はぁ……!」


 追われている――少女は頭の中は逃げることで精いっぱいだった。

 後ろから聞こえてくる複数の足音、息遣い、唸り声、そして張り付くような視線から逃げるために、必死に足を動かした。


 少女――名は、メルア・ティディント。


 彼女は数日前に生まれ育った小さな村を出て、見習い冒険者として町を目指していた。

 慣れない野宿や、一人旅に心が早くも折れそうになりながらも、懸命に目的地へ向かっていた途中で、初めての窮地に立たされた。


「はあ……はぁ……! ま、まだ追ってくる!?」


 追跡者達を撒くために左へ曲がったり、右へ曲がったり、彼女なりに工夫をしているつもりだろうが、全く意味をなしていない。


「おおっとと!」


 後ろを振り向き、一瞬だけ後方を確認するが、姿は全く見えない。

 だが確実に追いかけてきている。


 正面を向いた瞬間、石に躓きそうになり声が出たが、何とか持ちこたえた。

 その所為か、速度が少し落ちる。


 メルアはそれでも必死に走り、光が差し込む地点を見つける。

 森を抜けることが出来れば――道にさえ出ることが出来れば人がいる可能性が高い。

 そうすれば助かる見込みがある。彼女はそう信じた。


「ええ!? 嘘でしょう!?」


 木々をかき分け、森を出たかと思うと、足元は砂利道になっており、目の前に現れたのは崖だった。

 崖の高さはさほど高くはない。頑張れば上ることもできるだろう。が、登っている間に追い付かれる。

 さらにその手前で川が流れている。流れは速くはないが、足を水に取られて川へ逃げたとしても追跡者に追い付かれるだろうとメルアは想像した。


「っく…………!」


 ガサガサと後ろで音が聞こえる。バッと振り向けば、森の中から三匹の狼が現れたのだ。

 ただの狼ではない――毛は黒く、目は血液のように赤い。

 むき出しにされている牙はやけに巨大で、やせ細ってはいるが一メートルは超える大きさだ。


 この狼たちは――魔物だ。


 追跡者の正体は魔物だったのだ。


 では何故、メルアが魔物に追いかけられることなったのか?

 答えはあまりにも単純で、縄張りに知らず知らず足を踏み入れてしまったのだ。

 動物であるなら人を怖がり、襲う事もなかったかもしれない。

 だが魔物は違う。人を食料とし、今のメルアは絶好の獲物でしかない。


「フォレストハウンド……しかも三匹。ほんとうに運がないわ、今日の私」


 メルアは汗をぬぐい、後ろへ一歩下がる。唸り声をあげる三匹の黒狼は、同時に一歩彼女に近づく。


「逃げるしか……ないっ!」


 メルアは再び走った。砂利道を駆け、下流の方向へ進む。

 黒狼たちは走るメルアを追いかける。その足取りは本来の速さではなく、加減している。


 魔物は賢い――メルアの足の速さではそもそも森の中で追い付かれていた。


 黒狼たちの考えは、餌を疲れさせ、足が止またところで喰らい付く戦法だろう。

 狼型の魔物の悪い癖で、獲物を狩る際、格下だと判断したら、おもちゃのように遊ぶのだ。

 おもちゃが泣き喚き、必死に抵抗するところを見て、彼らは快感と興奮を覚える。


 メルアも一度捕まれば、簡単には殺されない。殺してと悲願するまで、餌にはならない。

 彼女自身、それを理解している。


(どうするどうするどうするッ!? 逃げられる可能性はほぼ0。それに戦って私が勝てるような魔物でもないっ。でも――)


 メルアは足を止め――振り向きざまに右手を振り上げ、黒狼たちに向かって叫ぶ。


「犬死はしたくないっ! フレイムっ!」


 黒狼達へ向けた右手から、小さな火の玉が勢いよく発射される。

 驚いた三匹は咄嗟に後ろへ飛び、火の玉を避けた。

 砂利道に直撃した日の玉は飛び散ると、跡形もなく消えた。直撃した場所からは煙があがり、触れれば火傷で済まないことは誰だってわかる。


「来るなら来なさい! 私だって冒険者になったのよ! こんな修羅場、乗り越えられないで、どうしろって言うのよ!? さあ! 私の覚悟は決まったわよ!」


 メルアの威嚇に、黒狼たちは更に唸り声をあげた。

 彼女の足と、突き出している右手は震えており、右腕を支えている左手で震えを止めようとするが、上手くいかない。


 徐々に体も震え始め、黒狼に怯えている自分が情けなくなった。

 荒れる呼吸、五月蠅い心臓、止まらない汗――全てがメルアを追い詰める。


(誰か……誰か助けて……!)


 口ではあのように言ったが、心の中では未だに助けを求める。

 その弱みを出した瞬間を――黒狼達は見逃さなかった。

 彼女が一瞬だけ気を抜いた瞬間、三匹同時に飛びかかる。

 はっとして、すぐさま空いている左手も前に出し、魔法を詠唱する。


「ふ、フレイム!」


 右手と左手から放たれた二つの火の玉は、二匹の黒狼に見事命中し、後ろへと吹き飛ばす。だが、もう一匹いる。

 急いで右手で照準を合わせようとするが――。


(間に合わないっ……!)


 震える右手がブレて、迷いが生じた。

 黒狼は火の玉が飛んでこないと分かると、口を大きく開け、メルアの喉元を狙う。

 彼女は目を瞑り、反射的に両腕で頭を守った。

 無駄だと分かりながらも――死を悟りながらも。


(…………あれ?)


 襲い掛かってきた黒狼の牙がメルアに触れることはなかった。

 彼女も来るべき痛みが来ないことに違和感を覚え、ゆっくりと目を開け、腕をどかす。

 視界に入ったのは――襲い掛かってきた黒狼の首元から一本の直剣が伸び、足元で血を流して絶命している姿だった。


 メルアは腰を抜かし、その場に尻餅をつく。


「な、なに?」


 まだ目の前には二匹の黒狼が警戒しながら睨みを利かしている。

 いや、メルアではなく――左側――川の方向である。

 バシャバシャと川から音が聞こえ、メルアは黒狼達と同じ方向へ首を動かす。


「っ……ひ、と?」


 真っ黒のローブを身に纏い、フードを深くかぶって顔を隠す人間がこちらに向かってきていた。背中に背負っている鞘を見ると、剣が収まっていない。

 メルアは目の前で死んでいる黒狼に刺さった剣が、この人物の物だと分かった。


 体格からして男性だろう。


(川の向こう岸から直剣を投げ、黒狼の首を貫いた……?)


 そうとしか、メルアは考えられなかった。

 こちらの岸に到着すると、膝のあたりまで濡れたズボンからピチャピチャと水滴を落としながら、直剣を手に取り、黒狼の首から引き抜く。


 メルアには目もくれず、直剣しか視界に入っていないように感じた。

 抜かれる直剣をじーと見ていたメルアは、その剣が異様に錆びていることに気づく。

 手入れを長くしていなかったのか、あれでは切れる物も切れない。


 しかしだ――彼の直剣は現に黒狼を貫いた。そんなことが可能なのかと、メルアは自分を助けてくれた人物を見上げる。


「貴方は………?」

「おい。無事か?」


 メルアの質問を無視して、男性が質問をした。

 声からして、若い。

 無言で頷くと、フードの下からメルアを見つめ、彼女と目を合わせる。


「っ!」


 心臓を掴まれたような――彼の瞳に引き込まれそうになった。

 どっと汗をかき、メルアの顔色が悪くなる。


「なあ、助けてやるから俺を助けてくれ」

「え、え? ちょっと待って――」

「返事は聞かないぞ。向こうは待ってくれないからな」


 青年はフードをどかし、素顔を露わにした。


 黒髪に、黒目――鋭い目つきとムスっとした表情。普段のメルアなら人相の悪い男性と評価するだろう。だが、今の彼は窮地を救ってくれるヒーローだ。横顔はどこか魅力的で、息を飲むほど美しくも感じる。


 一方で黒狼は、仲間が殺され、唐突な不意打ちに怒りを隠しきれずにいた。

 なによりこの男からは不気味な気配を感じ取っていた。


 魔物は生きていくために『格上』か『格下』か、すぐさま判断する能力を持っている。

 メルアのような格下であれば、先ほどまでのように餌であり、おもちゃにする。

 格上であれば、プライドの高い魔物は戦いを挑み、そうでない魔物は尻尾を巻いて逃げる。

 黒狼――フォレストハウンドは前者であり、強さを求めるタイプの魔物だ。


 そして、この男は『格上』であると判断された。


「そっちが来ないなら――俺から行くぞ」


 男は錆びた直剣を右手だけで構えると、黒狼達へ迷わず突っ込んだ。

 逃げるわけにいかない二匹は、また同時に飛びかかった。


 いや――考えている余裕がなかったと言えるだろう。


 もたもたしている間に切られると判断したのか、本能で飛びかかった。

 男は足を止め、右手に持っていた直剣を真横へ一振り――たったそれだけで、二匹の首は胴体から切り離され、その場にボトボトと落ちた。


 一瞬――本当に一瞬の事で、メルアが瞬きをした瞬間に勝負は決してしまった。

 錆びた直剣についた真っ赤な血を振るい払い、背中の鞘へと静かに収める。

 メルアは口を開け、目の前で起こったことが夢なのではないかと思った。

 あの錆びた直剣で、二匹の首を切り落とすなど、不可能に近い。

 黒狼の判断ミスだったとしても、この結果はおかしいと彼女でも分かった。


 男はくるっと向きを変えて、スタスタとメルアに歩み寄る。

 彼女の目の目まで来ると、手をさし伸ばし、無表情で語りかける。

 だが、先ほどまでの冷たい視線とは違い、瞳の奥から優しさを感じ取れる。


「立てるか?」

「あ、ああ、うん。ありがと……」


 男の手を取って、メルアは立ち上がり、肩まで伸びた赤髪を少しだけ触り、肩、腕、腰、足の順で埃をはたく。


 身だしなみを気にするのは、冒険者と言えど女性だからだろうか。

 それとも男性の前だからなのか。


「怪我はなさそうだな」

「う、うん。おかげさまで。ありがとう……本当に助かったわ」

「偶然、君が森から出てくるところが見えた。黒い狼に追われているからびっくりさ」

「この崖を降りてきたの?」

「滑って降りられるほど緩い斜面だったからな。心配はいらない。それより――俺の顔に見覚えはないか?」

「え?」


 突然の質問に、メルアは驚いた。もちろん内容に関しても。

 彼女は村からほとんど出たことはなく、村人以外の人間と顔を合わせることはほとんどない。


 もし、会っていたらなおさら忘れることはないだろう。


 それほど男の顔は記憶に残りやすいほど今のメルアは美しく、鋭く、魅力的に感じている。普段でも人相が悪いとイメージ付けて、記憶の片隅に残っているはず。


「いいえ。私達、初対面で間違いはずだけど」

「そうか……。知らないなら、別にそれはそれでいいんだ」


 男の言葉は、寂しさを感じる。目を伏せ、腕を組んで悩み始めた。

 メルアにとってこの男が考えていることが何一つ分からない。

 不思議な雰囲気を纏い、心を探ろうとしてもまず表情が少なく、難しい。


 すると――グーっと、男の腹が鳴った。


 川の水音に混じって、間抜けな音がメルアの耳に入り、気が抜けた。


「すまん……腹が減って。何か食べ物とか持っていないか?」

「ぷ、あははははははは!」


 メルアは、緊張から解放されたのか口元を抑えて笑い出した。

 しかし、やがて笑い声は泣き声に変わり、メルアは涙を流す。


 男はしばらく無言で見つめていたが、一向に泣き止まないメルアを心配して口を開く。


「………大丈夫か?」

「うん……大丈夫……大丈夫なのに涙が……涙が止まらないの……」


 メルアは顔を覆い隠し、男の前で泣き叫ぶ。

 頬を流れる涙の温かさは、彼女が生きている証であり、これから忘れることのない出会いの象徴だったのかもしれない。

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