Ⅷ そのタイトルは

 ウィンチ氏によると、ヴェラが撥ねられたのは自転車ではなく、大型の二輪車であるらしかった。

 大きな音がしたので、急いで、塀から外を見ると、走り去るサイドカー付きの二輪車が見えたらしい。ナンバープレートは薔薇の葉に隠れて見えなかったそうだ。


「おぉ。これで、箔が付くってもんですよっ、胸を張ってバイクに撥ねられたと言えますっ!」


 ヴェラは純然に喜んでいた。


「そこ喜ぶところじゃないからっ!だったら、これって、ひき逃げじゃないっ。自転車でもひき逃げだけど、バイクとなればその質が変わってくるわよっ」


 キャシーもどこか違うベクトルで興奮している様子だった。


 キャシーの詰問がしばらく続いて、ウィンチ氏が涙目になって来た頃、ダメ押しとばかりに「本当に警察には、バイクだと話したんですねっ?」とキャシーが言い「間違いなく言ったっ!いい加減、しつこいなっ」とウィンチ氏が大声を出した。


 白熱する二人を他所に、ヴェラは一人焦っていた。


「ちょっと二人とも、騒ぎすぎです。少し落ち着いて話して下さい。でないと……」


 ヴェラの言葉を遮るように、ドア開く音がして、


「わぁー、ごめんなさいっ。でも今回、私は一言だって騒いでないですよ。でもごめんなさい。鉄槌を下すならそこに二人にして下さいっ!」血相を変えて、布団に隠れたヴェラは早口でそんなことを叫んだ。


 その後で、「えっと……もう少しお静かにお願いします」と聞き覚えのない声が聞こえた。

 ヴェラはその声を聞いて、オーバーロードでないことを確認すると、ふぅと安堵の息を吐き、布団から出て来た後、今日はオーバーロードが夜勤明けであることを思い出した。


「二人とも、静かにして下さい。今日はなんとかなりましたけど、一つ間違うと命に関わるところだったんですからね」


 と青白い顔を二人に向けて言った。


 ヴェラの尋常ではない怯えように、顔を見合わせた二人は、「続きは外でしましょう」というキャシーの提案にウィンチ氏が頷いて、二人して病室を出て行ってしまった。

 ヴェラは、何やら言い合いながら、病院を出て行く二人を窓越しに見下ろして、親子みたいだなぁ。とニヤニヤして、執筆に戻った。

 

「できたー」


 キャシーとウィンチ氏が帰ってから、ほどなくして、新作プロットが完成した。とはいえ、まだ粗挽きも粗挽きだったが、最初と最後が決まったことはヴェラにとっては大きな成果だった。

 ただ、致命的なのは、


「んー、タイトルどうしましょうか」タイトルが決まっていないことだった。


 タイトルを後から決めるのはいつもことなのだが、通例でいけばプロットを書き進めている間に思い浮かぶはず……だが、今回に限っては通例通り思い浮かばなかった。

 原因としては、プロットが仕上がる過程に色々と立て込んでしまったことだろうと思い当るのだが、それがわかったところでどうしようもない。

 閃きに頼るのはプロらしくない。だから、認めたくない。

 けれど、何も思い浮かばない。

 だから、つい窓の外に視線を泳がしてみたりして……何か降りてこないかと期待してみたりして……


「私……あかんがな……」


 一人でツッコんでみたりして……





 悩んでも、悩んでも何も浮かんでこなかったので、果報は寝て待てとベッドで惰眠を貪ることにした。

 窓の外が暗くなり始めた頃、腹具合が怪しくなってヴェラは上体を起こした。すると、そこにはマジックペンを片手に固まっているレイチェルの姿がまず、目に留まったのでとりあえず、枕で激しく横打しておいた。


「うぎゃーぁっ、目が目がぁあっ」


 ベッドの傍らでのたうち回るレイチェルを尻目に、ヴェラが耳の裏をかきつつ、大きな欠伸をしていると、


「あら、ヴェラちゃんおはよう。よく眠っていたら、起こさなかったの」とネイマールが飲み物を携えて病室に入って来た。


「おはようございます。ってもう夕暮れですけどね。んーと、レイチェルは一体、何をしてるんですか?」


「うがぁーっ!ヴェラがやったんでしょっ!起き掛けにいきなり枕でハンマーヘッドしたんでしょっ!枕の角が目にグサッて、もろにグサッてっ!」


 そう言うレイチェルの右目は確かに充血していた。


「そうですか、それは災難でしたね。でも、もとはと言えば、私の顔に落書きしようとしてたレイチェルが悪いんです。正当防衛です先守防衛とも言います」


「にゃにをぉ~」


 平然とそう言い切るヴェラにレイチェルは両手をわきわきさせながら、じりじりとヴェラとの距離を詰めて行った。


「レイチェル忘れてませんか?今、私の右手には大いなる力が宿されていることを。人ならざる硬さと威力を秘めているんですよ。一度、振り降ろせば、殺人だってわけもない破壊力です」

 

またここで、騒ぐと怒られるので、ヴェラは大きな声を出さずに、淡々と脅し文句を並べた。仰々しく言うよりも、冷淡に聞こえてこちらの方が違った意味で恐怖が練り込まれている。

 そう思ったのは、レイチェルが両手をひっこめ大人しく椅子に腰を下ろしたからである。


「これ、キャシーちゃんから預かった原稿。明日の朝、一番にキャシーちゃんが取りに来るって」


 そう言うと、ネイマールがトートバッグから茶封筒を取り出して、ヴェラに手渡した。昼間、お願いした新聞小説の原稿だろう。


「何もお構いできませんが、これグランマが焼いたマドレーヌです。良かったら食べてください」

 ヴェラはベッドの下に隠しておいた、マドレーヌの入ったクッキー缶を取り出してネイマールに渡した。


「マドレーヌと見せかけてクッキーだったりしてっ、おおぉこれは旨そうなマドレーヌだっ!」


「頂くわね」


 とか二人が言ってる間にヴェラは、封筒の中身を確認することにした。正直、どこまで書いていたのかを忘れてしまっていて、二人が帰った後までとても開封を待てなかった。

 寄稿文店に出掛けたくらいだから、ほぼ書きあがっているはずなのだが……


「ふぅ」


 思った通り、原稿は定数である二十枚に対して、十七枚まで書き進められてあった。

 後、三枚程度ならどうということはない……うん。どうと言うことはない……


「ん?どうかしかにゃ?」


 ハムスターみたいにマドレーヌを頬張るレイチェルを見つめてヴェラは悟った。これは自分自身でフラグを立ててしまったのではなかろうかと……

 うん。ヴェラは大きく頷くと。原稿を丁寧に机の引き出しの中に仕舞った。


「あー美味しかったぁ‼お昼ご飯食べ損ねたから、丁度良かったよぉ。果報は寝て待てだねっ‼」


 満足げにお腹をさすりながら、レイチェルは親指を立てて誇らしげにそう語る。


「あららぁ~」


 その横では、空になった缶を見せながら、苦笑を浮かべるネイマールが、レイチェルから半歩遠ざかった。


「チェストォォォーッ‼」


 ヴェラは再び、枕を左手に持つと、大きく振りかぶり、腰を入れてレイチェルに振り下ろした。


「ふぼわっ」


 レイチェルの顔に枕が炸裂したと同時に、嫌な音が響き、枕はヴェラの左手にその片割れを残して、ネイマールの方へ跳ね飛んだ。


「目ぇーがぁぁぁぁっ。うおぉぉ」


 再び床をのたうち回るレイチェル。


「あぁ……」


 本来なら、ネジのぶっ飛んだ罵詈雑言でもってレイチェルを詰問しているはずだったのだが、左手に残った白い布切れと、ネイマール胸元に落ち着いた。真綿の飛び出した〈何か〉 の残骸を見ると、レイチェルにかまってられる状況ではなかった。


「ネ、ネイマールさん……ソーイングは得意ですか……」


 涙を一杯に貯めて、ヴェラが言えたのはただその一言だけだった。


「洋裁もするけど。これはちょっと……無理かなぁ」


「いきなりなにするのさっ!」


 いつまでも誰も声をかけてくれないので、レイチェルはジタバタするのをやめて、立ち上がると、ヴェラに詰め寄った。

 今度は左目にヒットしたらしく、左目が充血していた。


「それどころじゃないですよ、枕どうしてくれるんですか」


 ヴェラが泣きそうな顔で、枕の残骸を突き出すと、レイチェルは勝ち誇ったように、にんまりととても悪い表情を作り、



「あ~あぁ、破いちゃってぇ~、どうするのこれぇ~。お母さんに教わらなかったのかなぁ、枕で人をぶっちゃ駄目ってぇ~これだからお子ちゃまは困るんだよねぇ」


 安っぽいドラマに出てくる小姑のようにねちっこく言うレイチェル。形勢逆転とばかりに、満面の笑みでネイマールの胸元にある、枕だった物を突っついている。


「今はレイチェルのやっすい芝居に付き合ってる場合じゃないですよ。なんとか隠蔽しなければっ」


「隠蔽するの?素直に謝った方がいいんじゃ……」


「見つかった時点で処刑されるとしてでもですかっ!」


「ヴェラちゃん……眼が…怖い…」


「むっきーっ。私、怒った、本気で怒ったんだからねっ」


 完全にシカトされたレイチェルが本気で怒ったらしい。

 地団太をひとしきり踏んだ後、レイチェルは「オーバーロードにちくってやるっ!」と言い残して病室を飛び出して行ってしまった。


「なっなんてことを……」


終わった……


ヴェラは静かにベットから降りると、ゆっくりと病室の中央まで歩き、そこで膝を折って座した。


「えっと、ヴェラちゃん何をしているの?ちゃんと謝って弁償すれば大丈夫だと思うんだけど」


「ネイマールさん。それは大君主の前では無意味なんですよ」


「ん?大君主って?」


 やがて、ドアの前が騒がしくなり、ドア窓に人影が写る。

 ヴェラは生唾を飲み、両膝の上に置いてあった手を床につけた。

 もはやこれしか残ってない。

 東洋のとある国では謝罪の究極最終形態があると、本で読んだことがある。身の危険を感じた時にだけ用いることを許される、奥義ともいえる最終手段。

 そして、ドアが勢いよく開いた。


「申し訳っ!ございませんでしたぁぁぁ!っ」と同時にヴェラは頭を激しく降ろし額を床にこすりつけて、一心不乱にそう叫んだ。


極限謝罪究極最終奥義 DOGEZA 


「ヴェラちゃん……」


 ネイマールは、そのはじめて見る謝罪姿勢に驚いたものの、ヴェラの真摯なる気持ちだけは痛いほどに伝わった。これなら、オーバーロード?大君主?も許してくれるはずだとも思った。


「えぇ、何してるんですか⁉ヴェラ先生っ!」


 ヴェラと同じ年頃だろう、ナースは突然の謝罪にたじろぎながらも、そう言いながらヴェラの元へ駆け寄った。


「あれ?プリシラさんじゃないですか?」


 あ、そうだった……夜勤明けだったんだ……


「レイチェルさんが、ヴェラ先生の病室で、ドえらいことが起こったって、詰所に駆け込んで来たので、てっきり、ヴェラ先生に何かあったのかと思ったんですけど……?」


「いえ、私は元気そのものなんですけどね。身代わりと言うかなんというか、枕が酷いことに……できれば理由は聞かないでもらえると嬉しいです」


 プリシラから視線を外して、頬を掻きながら言うヴェラ。


「はぁ、枕ですかぁ」


 プリシラが視線を上げると、そこには、苦笑を浮かべるネイマールが居て、その胸元には無残な姿になってしまった枕があった。


「あちゃー、確かに酷くやりましたねぇ」


 プリシラはそういうと、枕の残骸をネイマールから受け取り、「すみませんが、お持ちの紅茶枕にこぼしてもらえませんか」とネイマールに言った。


「えっ、紅茶をこぼすんですか?」


「はい。滴らない程度に、たっぷりとお願いします」


 慣れた様子でさらりと言うプリシラに、ネイマールは恐る恐る、紅茶を枕にかけた。

 白地がみるみる茶色く変色してゆく。


「この汚れてしまった枕は、こちらで廃棄処分にしておきますから、安心して下さい」


「えっ、でも破れてるんですよ?汚れと破損とでは扱いが違うと思うんですけど」


 ヴェラはまだ安心できないでいた。


「いえいえ、廃棄する物は汚れていようと破れていようと、扱いは一緒になりますから、弁償請求されたりする心配ありませんから、安心して下さい……でも、今夜の夜勤当番が私で良かったですね。ってだけ言わせて下さいっ。破棄扱いにするか、弁償請求するかはナースのさじ加減一つなのでっ」


 プリシラは片目を瞑りながらそう言うと、悪戯な微笑みを残し「また後でお邪魔しますねっ」と言い残して病室を出て行ってしまった。

 

「よかったわねぇ。ヴェラちゃん」


「はい。ナースが白衣の天使、と敬称される謂れがわかった気がします」


「えっと、それはちょっと違うと思うんだけど。それはそうと、さっきのナースさん、ヴェラちゃんのこと〈ヴェラ先生〉って呼んでたけど?」


「あぁ、なんでも彼女は私のファンなんだそうです」


 ヴェラは自分で言って照れてしまった。

自分のようなヘッポコ作家が、自分にファンがいるなどと、言ってしまっていいのだろうかと、気後れもするし……


「あらあら、うふふっ。それじゃ、執筆頑張らないとねぇ」


 ネイマールはそんなヴェラの姿を見て微笑んだ。


「はい、エマがタイプライターを貸してくれたので、この右手でも執筆がすこぶる順調なんですよ。それにしても、レイチェルはどこに行ったんですかね?」


 心に余裕が生まれたヴェラは、レイチェルのことを思い出した。


「どうやら、レイチェルちゃんは、病院の外に居るみたいだけど……」


 窓の外を見ながらネイマールが言うので、ヴェラも窓の外を見ると、病院の駐車場を守衛さんとおぼしき制服姿の男性と明るい色のブロンドの女の子が走り回っているのが見えた。

 何をやらかしたのだろうか、どうやら女の子は守衛さんに追われている様子だった。

 あ、転んだ……


「ヴェラちゃん。私もそろそろ帰るね。レイチェルちゃんも何とかしてあげないといけないみたいだし……」


 ネイマールはレイチェルが転んで、ついにお縄になった様を見ると、普段となんら変わりない調子で、そう告げながら、ドアへと歩いてゆく。

 どんな時でも焦らず慌てず、おっとり、物静かに。淑女像を絵に描いたようなネイマールの姿に感心しながら、その背中を見送っていたヴェラは、大切なことを言い忘れていたことを思い出して、


「ネイマールさんっ」ネイマールを呼び止めた。


 ドアノブを握ったまま廊下側から顔だけを覗かせたネイマールは、ヴェラの言葉を待っている。


「ネイマールさんに、言ってもらわなかったら、私は腑抜けたままだったと思います。きっと、一字も書かないまま、現実逃避してたと思いますっ!だからっ、ありがとうございましたっ」


 ヴェラはベッドの上に立って、深々と頭を下げた。


「いいの。その気持ちを、エマちゃんやレイチェルちゃん、キャシーちゃんに分け伝えてあげて。みんな、ヴェラちゃんの事を心配していたから」


 ネイマールは完璧な微笑みを残して廊下へと消えてしまった。

 自分もネイマールの爪の垢を煎じて飲んだから、少しはあんな淑女に近づけるだろうか……

 ヴェラはベッドの上に立ったまま、そんなことを考えていた。

 淑女に近づくのはまた今度にするとして、今は、明日の朝にキャシーに渡す原稿を書き上げなければならない。と言ってもたった三ページ分なので、次話とのつながりと、次話が気になる終わり方を考えればいいだけだ。

 簡単ではないにせよ、騒ぐほど困難な作業ではない。

 窓の外が気になったが、ネイマールの美貌と、大きな胸の力があれば、守衛の一人や二人はなんとでもなるだろうから、気にしないことにして、早速、執筆にとりかかったヴェラであった。



 


 チーンッ

 

力強く最後のボタンを押し終えたと同時に、ページの最後を知らせるベルが軽快に鳴った。

きっちり原稿用紙を埋めて終われると、増して気持ちが良い。

消灯間際になんとか執筆を終えることができたヴェラは、推敲作業に移る前に、少し休憩をしようと、ベッドに横になった。

  

「こんばんは、ヴェラ先生、まだ起きてますか?」


「はい。起きてますが、どうかしたんですか?」


 突然現れたプリシラに、ヴェラはまさか、枕の弁償を請求されるのではないかと背筋が冷たくなるのを感じた。


「いえ、今晩は二人で夜勤なので、先に仮眠時間をとらせてもらったんですよ」


 そう言えば、プリシラはナースキャップを被っておらず、結い上げている髪の毛も下ろしている。


「そうなんですか。仮眠しなくていいんですか?」


「私は平気です。先生こそ、もうお休みになられるのでは?」


「いえ、これからサクと推敲作業をしようかと思っているので、まだまだ眠れません。明日の朝一番に渡さないといけない原稿なので」


「もしかしてそれって、「キューリー夫人の華麗なる食客たち」の原稿ですか?」


「その通りです。多分、これは来月分になると思います。芸能人が結婚したり、大事件が起こらない限りですけど」


「えぇ、気になるなぁ読みたいなぁ」


「ダメですよ。それに、これを読んでも、何が何だか訳が分からないと思いますしね」


「そうですけど、ファンとしてはやっぱり気になりますっ!」

 

そう言われると、悪い気はしないし、ついちょっとだけなら……と言ってしまいそうになる。 

〈ファン〉という言葉は想像以上に魔性の言葉のようだ。


「すみません。興味をもってもらえることは嬉しいことなんですけど、まだ未完成ですし、未完成品を見せるわけにもいかなくて」


 これは純然たる作家としてのヴェラの気持ちでもあった。

未推敲の作品を見せるわけにはいかない。


「そうですよね。すみません。我儘を言っちゃって……この前も、良い感じになってた男性に 〈君みたいな我儘な子は無理だ〉って言われちゃって……反省したばかりなのに……」


 思わぬ方向へ転がった会話にヴェラは、どうしていいかわからなかった。とりあえず、励ますか、慰めた方が良いと言うのだけはわかったが……


「男なんて、星の数ほどいるじゃないですか。一人に固執する必要なんてないですよ」


「ありがとうございます。私もそう思ってたんですけど……知り合いの…キューリー夫人を薦めてくれたのもその人なんですけどね、ヴェラ先生と同じことを言って励ましてくれたんです。でも…でもっ!その人、三十路のくせに恋人も男友達すらいないんですよっ‼だから、同じように考えてたら、私もこのまま恋人ができないんじゃないかって……」


 励ますつもりが、どうやら地雷を踏んでしまったらしい……


「ヴェラ先生は恋人とかいるんですか?」


「えっ、そりゃ…いませんよ。執筆が忙しくて、それどころではありませんし」


 危ない、危ない。つい、見栄を張る悪い癖が出てしまうところだった。


「私も、仕事が忙しいって言い訳してて、あんまり友達もいないから遊びにも行かないし、しかも女性ばかりの職場だから出会いもないし」


 とりあえず、プリシラが出会いに焦る女の子であることは理解した。

 理解はできたが、それをヴェラにはどうすることもできなかったし、正直、恋愛経験に関しては経験値ゼロのヴェラにはアドバイスも同情もしてあげられる余地がない。


「あぁ、そう悲観しなくても……」


「楽観してたら、婚期逃しちゃうじゃないですか……ただでさえ、女だらけの職場だから職場での出会いなんてないし、勤務中はお化粧できないから、素顔勝負だし……私の顔じゃ、制服の三割増しでもカバーしきれないし……ふっ」

 

だから、ヴェラは早速、面倒くさくなってきてしまった。

 プリシラは大切なファンだから、足蹴にすることはしたくはない。したくはないのだが、我慢の限界も近い。

 うむ。ここは話題をかえなければ。


「そうです。今度、新作が書籍化するんですよ」


 ヴェラは思いつく限り、一番プリシラが喰いつきそうな話題を、最初から投入することにした。


「あっ、新聞広告欄に出てたやつですよね⁉今度のはミステリーだって!」


 よし、食いついた。


「はい。ミステリーテイストってだけで、ミステリーではないんですけど」


「あぁ、そうなんですか、キューリー夫人みたいなコメディかなって思ってたら、ミステリーって書いてあったから、どんな作品になるんだろって逆に気になってたんですよ」


 むー。ノリと勢いの弊害がしっかりと出ている。ヴェラは改めて、ノリと勢いで告知はするもんじゃないと反省をした。


「まぁ、まだ、執筆自体はこれからなんですけど、何か良いタイトルないかなと思いまして。よかったらプリシラさんも一緒に考えてくれませんか?」


「えっ‼いいんですかっ、うわぁ、光栄ですっ!考えます、考えちゃいますっ!」


 プリシラは興奮して嬉しさを爆発させいる。

 そんな姿を見ていると、ヴェラ自身も嬉しくなってくるから不思議であった。


「今のところ、女の子二人で物語を進めていく感じで、一人は元気いっぱいで、いつもトラブルを起こす、やんちゃな子。いつも相棒の子を引っ張り回すんです。で、もう一人は、控えめで、大人しい子なんです」


「コンビですか。シャーロックホームズみたいな感じなんですか?」


「どうですかねぇ。二人ともホームズみたいに頭脳明晰と言うわけではないし、ワトソンみたいに特別な技能を持っているわけでもないです。どちらかというと、二人を取り巻く個性的な登場人物たちが、二人を助けたりして事件を解決する方向で考えてます」


「なるほどぉ。キューリー夫人と、少し似てますね。私はあの感じ好きだから嬉しいですけど」


「あー、それは否定できません。正直なところ、一冊目なので、キューリー夫人風も取り入れようかと思ってるんですよ。まだ、完全新作で勝負できるだけの自信もないので」


「ファンの私としては、複雑です。キューリー夫人が好きだから、その作風が残ってくれた方が安心して読めますけど、ヴェラ先生の作品だったら、違った感じの新作も読んでみたい好奇心もあったりしますので」


 ファンの存在の有無は、確実に作品作りに影響する。大きな意味で報酬よりも糧になるのではないだろうか。誰かが楽しみにしてくれている。そう思えるだけで三日は徹夜ができそうな気がしてくるのだから。

 もしも、書籍化第二弾が決まったら、その時は、完全新作にしよう。そう心に誓ったヴェラであった。

 

「あ、そう言えばこの二人って、お見舞いに来てた二人に似てますよね。えっと、お名前はですねぇ。訪問記帳で見たんだけど……」


「ひょっとして、エマとレイチェルですか?」


 二人組と言えば、ヴェラの中ではエマとレイチェルしか思い浮かばなかった。ネイマールもキャシーも基本は単独行動だし。


「多分、そんな名前だったと思います。エマさん?はよく覚えてませんけど、レイチェルさんはよく覚えてますっ、オードリーさんに捕まって暴れてて、いい度胸してるなぁって」


 オーバーロードはオードリーさんと言うのか。

 ヴェラは、想像以上に普通の名前だったので、腑に落ちないと頬を指で掻いた。


「そう言われてみれば、そうですね。エマとレイチェルはクイーンアンネ通りでウィスパー寄稿文店と言うお店をしているんですよ。そこに私もちょくちょく、取材に行っているので、知らずの内に影響を受けたのかもしれません」


 プリシラの客観的な視点は、ほぼ確信をついていた。きっと、自分が創造したと思っていた二人は実はオリジナルではなくて、エマとレイチェルと言う実在の人物のベースがあったのだ。

 だったら、タイトルも変に凝ったり、捻ったりしなくてもいいではないか。

 うん。そうだ。もし、人気が出たら、ウィスパー寄稿文店が聖地になったりするかもしれない。

 うん。そうなったら面白い。

 実害よりも、好奇心にのみ従順なヴェラの頭の中には、巡礼者の対応に追われ、慌てふためくエマとその横でニヤニヤしているレイチェルの姿が鮮明に描かれていた。


「どうしたんですか?ニヤニヤして?」


「あぁ、いえ。プリシラさんありがとうございました。おかげでタイトルが決まりそうです」


「えっ、そうなんですかっ⁉私何もお手伝いできてないと思うんですけどっ!でも、私も嬉しいです‼」


「いえいえ、貴重な意見をもらいました。また、恋愛系のストーリーの時はよろしくお願いします。これからは大なり小なり、避けては通れないと思うんです。生憎と、私の知り合いは揃いも揃って恋愛に疎くって」


 レイチェル辺りは捏造しそうだが……

ちなみに、自分を入れなかったのはご愛敬と言うことで。


「最近の小説ってSFとかでも絶対恋愛要素出てきますよね。恋愛かぁ。私の参考にしたって、バッドエンドばっかりですよ。ふっ、いつの間にか連絡とれなくなったり、友達伝にフラれたり……そんなんばっかですよ……私の何が悪いんだろ……」


 しまった……また地雷踏んだ…


 忽ち、スカートを握りながら、唇を強く噛み涙を堪えるプリシラ。


「えっと、私は基本的に、ハッピーエンドものしか書かないので、バッドエンドはありませんよ。結ばれる二人ですから、安心して下さい」


 ヴェラはできるだけ優しく、丁寧にプリシラの傷を労わるように言ったつもりだったのだが、


「バッドエンドの恋愛経験しかない私は、ハッピーエンドの恋愛物語を語れません。ふっ、私の妄想で良かったらいくらでもお話できますけどね。ふっ」


 どこか遠いところを見ながらプリシラは半ば自棄になって吐き捨てた。


 しまった……フォローするつもりが、トラウマ地雷を踏み抜いてしまった……

 こうなっては、恋愛経験の無いヴェラになす術は無く、


「私で良ければ話くらいなら聞きますよ……」と言うくらいしかできなかった。


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