Ⅸ 一人と孤独との違い

 

 明朝、朝一番に病室を訪れたキャシーは、原稿を回収すると「また、来るから」口数少なにそう言うと、足早に退室してしまった。

 朝の回診で、主治医からいつでも退院して良い旨を伝えられ、本当は喜ばなければいけないはずなのだが、眠気と睡魔と気怠さで喜ぶどこか、ベッドから起き上がれずにいた。

 回診について回っていたプリシラはなんであんなに元気なのだろうか?

 昨夜、結局、プリシラは仮眠時間をフルに使って、今までの男性遍歴と愚痴をヴェラにぶちまけ続けた。深夜二時を回ったところで、交代の要請があり、渋々病室を出て行った。

 もちろん、推敲作業の終わっていないヴェラはそこから、推敲作業をしなければならず、おまけに、決定的な矛盾点が発覚し、白々としだした空を横目に、急いで書き直しの作業をしなければならくなった。

 おかげで、一睡もできないのはもちろん、朝食さえ食べられなかった。


「空腹で眠れない?はっ、寝言は寝て言えっ!」


 ヴェラは枕に顔を埋めながら、そんなことを叫んでから意識を失った。


 ファンがいれば、三轍は可能だと思ったが、そんなの不可能だと思い知った。そして、徹夜をすれば効率が良く思えるが、徹夜明けの日はどれだけ寝ても気怠さが抜けず、何もする気が起きないので、非効率であることもすでに経験済みである。

 今回の徹夜に関して、プリシラと言う不可抗力が原因であったとして、その他の徹夜に関しては、経験に学んでいないと言わざるを得ない。


【 賢者は見通し 愚者は経験に学べ 】


 誰か、昔の偉い人が言っていた気がするが、まさにその通りである。ヴェラに関してはとても賢者とはいえないので、全ての地雷を踏んでは転んでここまでやって来た。

 せめて、同じ地雷を何度も踏むようなことをしなければ、救いもあるのだが、なかなかどうして、同じ地雷を同じタイミングで踏んでしまうのはどうしてなのだろうか。


「おぉう……爆発しない方が良いに決まってるのに……」


 どれくらい経ったのだろうか。

 ヴェラは、地雷を踏んでいるのにちっとも爆発せず、「なんで爆発しないんだっ!このやろぉ」と何度も踏みつけると言う、変な夢を見てから目を覚ました。そしてとりあえず、ベッドの上に座ってみたのが、例の如く全身が気怠く、鉛のように重い。

 窓から差し込む、燦々太陽の光が肌を刺すようだ。


「ん~」


 ヴェラはポテンと再びベッドに倒れた。すると、薄目の視界に、封筒が映った。

 だれか、お見舞いにきてくれたのだろうか。そう思いながら、封筒を手に取ると、封筒の表には〈ヴェラ・クリスティ様〉と丸文字で書かれてある。

 プリシラからのファンレターだろうか。ぽわぁーとする意識の中で封筒の端を破り、中に入っている書面を取り出して読んだ。

 

「わっ!」一気に眠気が消し飛んだ。


 そして、刮目してもう一度、読み直した。


「おおおおぉぉぉ、なんですと……いや、これならなんとかギリギリなんとかなるはずです。うん。電気代と水道代を来月に支払いを待ってもらえば……食事は仕方ないですね。また、公園に行きますか……」


 それは、治療費と入院費の請求書だった。

 自分は被害者なのだからとすっかり、忘れていたのだが、キャシーも言っていたが、ひき逃げをした犯人が捕まっていないので、当然、支払い請求はヴェラのところへやって来る。

 

「こおぉぉぉっ、個室うぅぅ」


 明細の個室料金の所に親指を強く押し当てながら、大部屋にしておけばよかったと激しく後悔した。

 だが、大部屋だったら、執筆はできなかっただろうし、連載に穴を空けたら、それこそ死活問題だし……


「うがあぁぁっ!」


 単純なパラドックスにヴェラは悶絶した。

 とりあえず、通帳にはギリギリ支払えるだけの残高が残っている。いつの日か、お世話になったグランマに返せたらと少しずつ貯めていた大切な貯金だったが、背に腹はかえられない……

 さすがに、治療費と入院費を踏み倒すわけにもいかない。

 

「そうだ、右腕が治ったら、犯人探しをしましょう。逃げた分は上乗せて、身ぐるみ剝いで血の一滴まで搾り取ってやりましょう」


 太陽光が降り注ぐ窓に向かってヴェラは穏やかに、そう心に誓った。





「グランマ、お願いがあるんですけど」


「なぁに?」


 請求書と言う避けることのできない現実を突きつけられたヴェラが、ひき逃げ犯への恨みつらみを永遠と呪いのように唱え続けていると、クラーラが林檎のパイを携えてやって来た。

 早速、まだ温かい林檎パイをふた切れ頬張ったヴェラは、甘美なひと時に、胃袋を幸福感で満たし、呪詛を唱えることをやめ、現実的な話をすることにした。


「台所の一番奥にある地下収納の中に玩具の金庫があるんですが、その中に銀行の通帳が入っているので、全額を引き出して来てほしいんです」


「全額ってそんなにお金が?急にどうしたの?」


「いえ、突然の事故でしたし、ほら私は意識を失っていたので、エマやキャシーに立て替えてもらっている分があったりするんです。二人の好意で今週締め切り分が仕上がるまで待ってもらっていたんです。その原稿も今朝、無事に仕上がったので、そろそろ返そうかと思いまして」


 よくもまぁ、これだけすらすらとそれらしい嘘が出てくるものだ。ヴェラは自分で話していて少し驚いた。悪い嘘ではないから、罪悪感こそなかったが。


「あらそうだったのね。二人とも何も言ってくれないから。二人ともいいお友達なのね。わかったわ、金庫の鍵は?それとも番号なの?」


「いえ、玩具なので、鍵はいちようついているんですが、それはダミーなので気にせず力ずくで引っ張れば開くと思います。開かなかったら、冷蔵庫にでも投げつけて下さい」


「金庫なのに、玩具なのね。わかったわ、やってみるわね。それはそれとして、ヴェラちゃん本人ではないから、きっと委任状がいると思うのよ。念の為に書いてくれるかしら」

 それは、考えもしなかった。とヴェラは素直にタイプライターの前に座ると「なんて書いたらいいですか?」言った。


「手書きでないと駄目だと思うわ。タイプライターだと、誰でもかけてしまうもの」


「えぇ、左手で書くとなると、インカ人しか解読不明な文字しか書けません」


「それじゃ、お婆ちゃんが代筆するから、ヴェラちゃんサインして頂戴な」


「はい……わかりました。お願いします」


 サインだけすればいいのであれば、タイプライターで打っても同じではないだろうか?そう思ったものの、すでにクラーラが余った原稿用紙に代筆を始めていたので、野暮なことは言わないことにした。


「ここにサインをして」


「はい。うぅー難しい……むぅ。これ読めますかね……うぅ…グランマ、机の一番一番上の引き出しに私宛の手紙がいくつか入ってるので、それを適当に持って行って下さい」


 相変わらず、解読困難な文字の羅列に項垂れてヴェラが言うと、


「多分、大丈夫だと思うけど……そうね。それがよさそうね」


 クラーラもヴェラのサインを見て、苦笑を浮かべてそう言った。


「それじゃあ、また夕方頃に来るわね」


「すみませんが、グランマお願いします」


 ヴェラは、足早に病室を後にするクラーラの背中に向けて短くそれだけを言い、静かにしまったドアに向かって、ぽつりと、


「サインをした意味とは……」と呟いた。

 クラーラにお金を使わせたくなくて、あえて嘘をついてみたものの、通帳の残高を見たら、きっと、ため息をつくだろうし、情けなく思う事だろう。

 もしかしたら、ヴェラの貯金は下ろしてこないかもしれない。

 ベッドに横になりながら、ヴェラはそんなことをずっと考えていた。

 コンセントすら入っていない冷蔵庫に、閑散とした部屋。スカスカなタンスに入っているのは、田舎の家を出た時と同じ下着類。洗剤だって固形石鹸しかないし……

 そんな生活ぶりを見たなら、通帳の残高が少ないくらいでは驚かないだろうとは思う。思うのだが、心配はすると思う。

 

「はぁ」


 ヴェラは浅くため息をついた。

 こんなはずではなかった。

 クラーラには、書籍化した単行本を添えて、手紙を書くつもりだったし、あわよく人気が出たなら、仕送りだってしようと思っていたのに。

 早すぎる再開と、予期せぬ再会のせいで、全部が全部台無しだ。

 憎きひき逃げ犯めっ、私の予定と想定を返せっ!

 病室のドアが開く音がした……が、ヴェラは反応するでもなく、生気のない目元でずっと薔薇の花を見つめていた。


「ヴェラ・クリスティさん」


 声がして、遅れてキャラメルのような甘い……と言うより甘ったるい香水の香りが鼻腔についた。


 仕方がなく上体を起こすと、そこには、白衣を着たグラマーな女性が立っていた。

 艶めかしいロングのブロンド、大きな目に吸い込まれそうな青眼、小さな鼻翼に高い鼻、大きな口はぷっくりとしていて、それは言うところの、キスをしたくなる唇。胸元を大きく開けたブラウスをはち切れんばかりに窮屈な何かが押し上げ、紺色のタイトスカートだって、サイズを間違ってるんじゃないだろうか?と疑いたくなるほどに、体のラインにぴったりと張り付いていた。

 そんな、いけないボディのお姉さんが、白衣を纏って立っている。


「白衣はコスプレですよね」


 ヴェラは無表情で決めつけた。


「惜しいです。今日のテイストは危ない保健室の先生。なんですよ。申し遅れました、私はこの病院で精神科を診ている、クリスティン・マーカスと申します。以後お見知りおきを」


 会話が嚙み合っていない感はあったが、凛としてはっきりとした綺麗な声でクリスティンは挨拶をすると、大袈裟にお辞儀をして締めくくった。

 その際、けしからん乳が、視覚的に存在感を強調したので、


「けっ」思わず、ヴェラは舌打ちをしてしまった。

 

「ほう。本日はご機嫌斜めですか?目が死んだ魚のようですよヴェラ先生。男性ならば、この胸で忽ち元気にして差し上げられますが、女性となると、私の不得手でして、ちゃんとしたカウンセリングを行うことになってしまいます。まぁ、ご心配なく、こう見えて私は、両刀使いですので」


 この人、真顔で何を言ってるんだろう。そして、どこから何から、ツッコんだらいいだろう。さすがのヴェラも、初対面から冗談なのか本気なのか真意は別にして、危ない発言を連発

する妖艶な美人女医に、本能的な危険を感じた。

 大体、両刀使いってなんだ。


「今なら偽物だって言っても信じてあげますし、白衣を剥ぎ取るくらいで許してあげます」


「そういうプレイも嫌いではありませんが、残念です。私は本物の医師なんです。病院の外で会って下さるのなら、どうぞ私の部屋においで下さい。ヴェラ先生の思いのままにっ!私を弄んで下さって結構ですので」


 クリスティン女医は右手を太腿から舐めるように体のライン沿って動かし、口元まで来ると、投げキスをヴェラに投げかけた。


「わっ!私にそういう趣味はありません。大体なんですか、甘ったるい香水なんてつけて、何日か入院してますけど、香水をつけてる人は貴方がはじめてです」


 クリスティン女医の投げキスに精神的ダメージを負いながらも、ヴェラはひるまずに言い返す。


「甘い匂い?あぁ、この匂いは香水ではありません。私の体臭です。ほら、赤ちゃんはミルクの匂いがするっていうでしょう?あれと同じです、全てはフェロモンの成せる業でしてよ、ほほほっ」


 この変態、体臭とかぬかしましたよ。

 よっぽど、〈変態〉と言ってやろうと思ったのだが、この手の人種に〈変態〉と言うと、逆に喜ぶ可能性もある。

 不敵に微笑む変態女医を前に、ヴェラは少し考えて、言葉を選んで一言だけ言った。


「こんなケバイ赤ちゃんが居てたまるかっ‼」


「はうっ、ケ……ケバイ……ヴェラ先生、それは何かの間違いです。だって私、つい先ほども、若い殿方に、食事に誘われ、佳麗に断って来たばかりなのですから」 


 明らかに、精神的ダメージを負ったクリスティ女医は、身を逸らせ半歩後ろに下がると、

なんとか、踏みとどまり、口角を引き攣らせながらやっとそんな強がりを言った。


 よし。ようやく、こちらのターンが巡って来た。

 ヴェラは追撃の手を緩めなかった。


「あの、それから、さっきから私のことをなんで〈先生、先生〉言うんですか。私は貴方に先生と呼ばれる謂れはないんですがっ!」


「はて?プリシラ君から聞いていませんか?私は彼女から先生の人となりを何度も聞いているのですが……」


「プリシラさんは知ってます。昨晩もここで話をしてましたし」


「なんですとっ!プリシラ君はずるいなぁ。私の方が先に先生の魅力を見出したと言うのに」


「魅力を見出したって気持ち悪いですね。プリシラさんは私の書く小説のファンなんです。あなたみたいに幼……誘拐犯みたいな風ではありません」


「何をおっしゃいますっ‼私だって先生の大ファンですともっ!新聞連載小説の〈キューリー夫人の華麗なる食客たち〉第一話からのファンなんです。忘れもしない、第一話の三行目「朝食がなければ昼食を食べればいいだけのことよっ!」あの夫人の台詞。私はあの一行で、虜になってしまったのです。それから毎日、出勤間に新聞を買ってはスクラップをする毎日、そして寝る前に読み返すのも毎日のことなのですよ」


 えっ……恍惚として、熱く語るクリスティ女医を前に、ヴェラは唖然とした。

 うーむ。ただの変態なら、足蹴にすることも躊躇わないし、容赦もしないが、ファンともなると話は別である。

 大ファンともなると、更に話は別次元である。


「付け加えると、私がプリシラ君に先生の作品である、キューリー夫人を薦めたのですよ。今では彼女も負けず劣らず、ドっぷりドはまりの先生のファンであるところは認めますけど」


 そう言えば、プリシラもそんなことを言っていたっけな……知人に薦められた~とか、その知人は新聞小説をスクラップにしている~とか。


「えっと、プリシラさんから存在は聞いていました。でも、知人と言っていたので、その、わかりませんでした……」


「なっ、プリシラ君も恥ずかしがり屋さんだなぁ。もう何度と、夜を共にした仲だと言うのに……ふっ」


 そう言う告白は聞きたくないし、もうツッコまない。

 ヴェラは思った、プリシラに恋人が出来ないのは、クリスティ女医と一緒にいるからではないだろうか?と。


「あの、大ファンだと言うのは嬉しいのですが、診療はいいんですか?」


 クリスティ女医が病室に現れてから、そこそこいい具合に時間が経過している。もちろん、今日は平日だから、とっくの昔に午後からの診療が始まっているはずだ。

「あぁ、ご心配なく。私は非常勤なので、これから、家に帰るところなのですよ。そう言えば、やはり、先生はこの病室でも執筆を?」


 クリスティ女医はタイプライターを視線で指しながら尋ねた。


「はい。入院しても締め切りは待ってくれないので、と言っても今朝方、原稿は渡しましたし、明日退院するつもりなので、もうここでは執筆はしないと思いますけどね」


 新作のプロットもあがったし、原稿の提出も終わったので、今日一日くらいはゆっくりとしよう。それがヴェラの腹積もりだった。


「なん…ですとっ!それでは、私にとって、この病室は今この瞬間から聖地になってしまったわけですねっ‼」


「は?」


「聖地ですよ。サンクチュアリですよっ!」


「いえ、意味はわかりますけど、どうして、聖地だの聖域になるんですか」


「私が敬愛するヴェラ先生が創作活動を一瞬たりとも行った場所は、私のような大ファン……いいえ、オタクにとってそこは聖なる場所になるのです‼」


オタク……大ファンの方がよほど響きが良い。オタクと大ファンとの間にどれくらいグレードの差があるのはわかりたくもなかったが、とにかく、オタクは響きが悪い。


「うえぇ、それじゃあ、トイレで書いたらトイレも聖地になるんですか?」


「愚問です‼」


 クリスティ女医は豊満巨峰を突き出すように胸を張って、言い切った。


「もっと言えば、そのタイプライターも言い値で買い取らせて頂きたいくらいなんですが……」


机の上に置いてあるタイプライターを見つめながら、涎を滴らせるクリスティ女医。

これがなければ、ただの美人女医なんだろうなぁ。とヴェラは思った。

これじゃ、変態女医だ。ともヴェラは思った。


「このタイプライターは借り物ですから、勝手に売るなんて無理です。と言っても素直に聞いてもらえそうにないので、んっと、そうだっ、サインをしますよ。だからそれで我慢して下さい」


 「サインで我慢してください」だなんて。そんなことが言える人が現実に訪れるなんて……ヴェラは少し照れる反面、一番最初にサインをするのがクリスティ女医である事が、少し複雑な心境だった。


「おぉ、それでは是非っ、小説をスクラップしているファイルの表紙に大きくお願いしますっ!」


 クリスティ女医はタイプライターを諦めきれない様子ではあったが、ヴェラの申し出に飛び上がって歓喜を表した。


「はい。すみませんが、書く物も一緒に持って来てくれませんか、私は万年筆しか持っていないので」


「もちろんっ!それくらいお安い御用ですっ‼それでは善は急げっ!早速、ファイルを取に帰ってきます。きっと、退院までには間に合うと思いますからっ、いいえっ、間に合わせますからっ!」


 クリスティ女医は瞳を輝かせて、そう言い、全力疾走で病室を出て行ってしまった。

 喜び方と言い、物言いと言い、どこか世代差を感じなくもないが、単純に喜び方がプリシラと似ている。

ヴェラは開けっ放しになっているドアを見ながらそう思ったのだった。





 病院で過ごす最後の一日。ヴェラは病人らしく大人しくベッドの上で寝転がって時間が過ぎ去ってゆくのを静観していた。

 思い返してみれば、この数日間、五体満足で過ごす日常よりもアクティブだったような気がする。屋上での耐寒徹夜に、オーバーロードとの死闘。結局の徹夜に、ひっきりなしに訪れる見舞客への対。

 普段は、部屋に引きこもっている時間の方が多いから、人と話す機会なんてほとんどないので、ふと、口がついていることを忘れてしまう時がある。

そんな日常を鑑みれば、ここのところは異常と言うべきだろう。誰かと言葉を交わさない日がないのだから。

 ヴェラはずっと、自分は孤独なのだと思ってきた。もちろん、友達も知り合いもいないロンドンへ一人で出てきたのだから、それは当然なのだが、気が付いてみれば、自分の周りには親しい人間が何人も居るではないか。

 そんな自分は孤独ではない。ただ一人なだけなのだ。

 右腕が不自由なのも、病院と言う閉鎖的空間での拘束、そして、家計を破滅させた入院治療費も……事故なんてろくなもんじゃない。

そう思う気持ちは潰えない。

だけど、蓋を開けてみれば、自分は孤独ではないという幸福を実感したし、クラーラとも再会することができた。プリシラとクリスティと言う熱烈なファンの存在も知ることができた。

 付け加えるなら、原稿の締め切りもなんとかなったし……

 人生万事塞翁が馬。

 終わってみれば、全てが全てなんとかなっていた。もしかしたら、差し引きでお釣りが返ってくるかもしれない。


「グランマ、しばらくこっちに居てくれたら良いのになぁ」


 お釣り分の流れに乗っかって、欲を出してみようか。ヴェラは窓越しに空を眺めながら、そんなことを呟いた。

 クラーラが病室を訪れたのは黄昏時を前にした時分だった。


「あっ、グランマ。ん?どうしたんですか、浮かない顔なんかして……あぁ、通帳の残高のことなら心配しないでください。その、まだ、非常用の通帳がですね……隠してあるんですよ」


 強がりと嘘つきとの境界はどこにあるのだろ。ヴェラは表情のすぐれないクラーラを安心させようとまた、底のしれた嘘をついてしまった。


「確かに……残高を見て驚いたわ。苦労しているのね、とも思ったの。でもね、長いこと通帳が使われていなかったから、通帳記入をしたのね。そしたら、お婆ちゃんもっと驚いてしまって……ヴェラちゃん……何か悪いことでもした?」


「へっ?グランマは何を言ってるんですか、さすがの私も通帳に落書きをしたりしませんよ。それよりも、その通帳からお金をおろしてきてくれたんですよね?」


「えぇ、半信半疑だったけれど、銀行の人も間違いないって言うから、家計費も含めて、とりあえずこれだけ」


 クラーラは困惑したまま、ヴェラにパンパンに膨らんだ封筒を手渡した。


「うぅ、また随分と細かい紙幣で下ろしてきたんですね。まぁ、小金持ちになった気分を味わえるので……って‼なんですかこれ、全部五十ポンド紙幣じゃないですかっ‼」


 てっきり、五ポンド紙幣が入っていると思っていた封筒の中には、使い勝手が悪く、なかなかお目にかかることのない。最高額紙幣五十ポンド紙幣ばかりが入っていた。

 使い勝手云々の前に、明らかに通帳残高をオーバーしている。


「ヴェラちゃん全額下ろして来てってお願いされたんだけど、銀行の人にも全額下ろして持ち歩くのは危ないって止められてしまって、それならせめてって、全部五十ポンド紙幣にしてもらったのよ。これで足りる?足りなければまた下ろしに行ってくるけれど」


「いやいやいや、何をすっとぼけたことを言ってるんですかっ⁉私の通帳から下ろしてってお願いしたじゃないですか、グランマの優しさは嬉しいですけど、これ以上、迷惑を掛けたくないんです。だから、これはグランマの通帳にお返しします。次は絶対に私の通帳から全額引き出して来て下さいっ!」

 

 ヴェラは強く総いうと、封筒に紙幣を押し込んでクラーラに突き返した。頑張って押し込んだものの、押し込み切れなかった紙幣が飛び出したままになっている。


「このお金は、ヴェラちゃんの通帳から引き出してきたお金なのよ。残高が残高だけに、手紙だけで本人証明できるか不安になっちゃったもの。お婆ちゃんの通帳は田舎の家においてきているから今は持ってないわ」

 

クラーラはバッグから通帳を取り出すと、ヴェラに手渡す。

 通帳を受け取ったヴェラ通帳を開きながら、


「そんなわけないですよ。ここの入院治療費を支払ったら、光熱費はおろか食費すら残らない……どひゃあっ‼」


 ページを流し見にして、明らかにゼロが多い印字部分を見つけて、ヴェラはひっくり返った。


「なんですか……ここここ、この大金わっ!」


 思わず通帳を持つ手が震えた。


「いち、じゅう、ひゃく、せん……十万……グランマ、どうやったら、五百ポンドが十万ポンドに化けるんですか‼寝てる間に宝くじでも買ってたんでしょうかっ‼」


 クラーラがわかるはずもないのに、ヴェラは興奮のあまりそんな質問を口走っていた。

 自分が夢遊病を患っているような感じがして来るから不思議だ。


「お婆ちゃんにわかるわけないわ。思わず、銀行の人に、何かの間違いじゃないかって聞いたのよ。そしたら、応接室に通されて、三日前に合法的な手続きで他の銀行を経由して振り込まれたお金ですって。お婆ちゃん、銀行の応接室になんか初めて入ったわ」


「あれー、入院治療費を支払ったら、残らないなーと思ってたのに、知らない間にこんな大金を稼いでいたなんてっ、印税って算出方法がよくわからないだけに、思わぬ大金に化けることもあるんですねぇ。著作権様々です」


 ヴェラは恣意的な勘違いを思い込むことにした。


「ヴェラちゃん。嘘はいけないわ。現実に帰っておいでなさい」


 どうあっても辻褄が合わない。謎の大金を前に迷爆走をはじめたヴェラをクラーラが制した。


「うぅ、でも、銀行の人も間違いじゃないって言ってるんですよね?」


「そうなんだけど、世の中に、黙ってこんな大金をくれる心優しい人なんていないと思うの」


 至極正論だ。

 あれだろうか……足の長いおじさん的な……あれだろうか……


「同情したからお金をくれたんですかね……はぁ、ギブアップです。理由が思い当りません。でも、入院治療費の支払いはしないといけませんし、光熱費だって支払わないといけません。家賃だって食費だってかかります……あ……今思い出しましたけど、光熱費は先月分も支払っていないので…じゃなくて忘れていたので、今月払わなと、全部止められてしまいます」


「あらあら、それは大変っ。そうよねぇ、お金はいるものね。不気味であまり手を付けたくないけれど、仕方がないから、今日下ろしてきたお金だけ、使うことにしましょ。これくらいなら、もし、返せって言われてもなんとかなるから」


「はい。無駄遣いしないように大事に使いましょう」と言う妥協点で落ち着いた。


 仮に、返せと言われたら、知らぬ存ぜぬ、で押し切れば良い。他人の通帳に勝手に振り込んだ方が悪い。

うん。押し切って見せる。


「お金のことはそれでいいとして、さっき、入院治療費って言っていたけど、もう退院できるの?」


「そうなんですよ、今朝、いつ退院しても良いと言われたんです。部屋代もかかるので、明日にでも退院しようかと思いまして」


「そうね。請求書は?見せて頂戴」


「これです。部屋代の精算は退院時になるみたいなので、確定は治療費だけで、部屋代とレンタル品は概算みたいです」

 

 請求書をクラーラに渡すと、クラーラは口元を何度か動かして「こんなものかしらね」と何度か頷いた。


「わかったわ。それじゃあ、明日は朝一番に来るわね。それと、ヴェラちゃんが返って来ても大丈夫なように準備しなくちゃだから、お婆ちゃん今日はもう帰るわね」


 急にそわそわしだしたかと思うとクラーラは何かを思いついたように、微笑みを浮かべ、足早に帰ってしまった。


 すっかり聞きそびれてしまったが、準備とは一体なんだろうか?


「まあいいや」


 ヴェラは不意に転がり込んだ大金に胸元をほっこりさせると、ベッドの上に大の字になって寝ころんだ。

 お金の心配をしなくて良いとはこんなに晴れ晴れとした気持ちになれものなのか。そして、無性に誰かに贈り物をしたくなった。

 エマやレイチェルに何か買ってあげようか……ニヤニヤしながら、お金とはこんなにも人を寛容してくれるのか。ヴェラはますますニヤニヤした。

 だが、ヴェラは知らない。それが、ぽっと出の成金が陥る、破産への王道的思考であることを。

 その日の夕食には、デザートにカップケーキが付いていた。


すっかり、気持ちが大きくなっていたヴェラは夜の見回りに訪れたナースにでもあげようと、余計な気を回して、カップケーキを机の上に残しておいた。


「明日退院できるんですってね。よかったじゃない」


 そう言ってキャシーが病室に入って来たのは、宵の口過ぎのことだった。


「おぉ、キャシーじゃないですか。って、凄い荷物ですね、どこに行くんですか?」


 いつも通り、ランドセルを床に置いたキャシーは椅子に座る前に、大きなボストンバッグをベッドの端に置いた。


「ノーフォークに取材に行くのよ」


 「今夜の夜行でね」とボストンバッグを叩きながら続けて言う。


「へぇ、またノーフォークとは、随分と田舎に出掛けるんですね。とりあえず、お土産楽しみにしてますね」


「あんたねぇ、まるっきり他人ごとに言ってくれるけど、今回の出張はあんた絡みなんだからねっ」


「私がらみって、どういう事ですか?」


「ひき逃げ事件よ。逃げ徳、轢かれ損なんて許せないから、私も犯人を捜してたんだけど、ウィンチさんの話を聞いて、別視点で取材してみたら、どんぴしゃりっ」


「本当は自転車じゃなくてサイドカー付きのオートバイだったって話でしたっけ」


「はぁ。でしたっけ?ぢゃないわよっ!自分のことでしょっ」


「そうなんですけど、何せ、意識が飛んでたもので。撥ねられたって言う自覚もほとんどなくって」


 骨折しましたけど。とヴェラは付け加えた。


「そうだったわね……なんかごめんなさい。そうそう、サイドカー付きのバイクなんて珍しいから、それを手掛かりに聞き込みをしたら、ヴェラが撥ねられた日の夕方ごろに、ノーフォーク方面に向かう、サイドカー付きバイクを目撃した人が結構いたのよ。バイクがBMWのって言うのもあるけど、なんでもサイドカーの風よけガラスが割れて上半分が無かったらしいの。もう、このバイクで決定でしょ」


「おぉ、キャシーは探偵みたいですね。いつの間にそんな技を身につけたんですか⁉」


 少し面白そう。とヴェラは身を乗り出して尋ねた。


「敏腕記者って言って欲しいわねっ。捜査も取材も、基本は足を使うのよ。だから同じっ」


「なるほど。それにしても、ひき逃げ犯くらいでよく、そんな遠くへ主張が認められましたね?そんなに話題がないんですか?」


 交通事故なら、一日何件も起っているだろうに……


「んなわけないでしょ。大きな声じゃ言えないんだけど、どうも、逃げたバイクの持ち主が、ノーフォークに住んで居るとある貴族らしいのよ。しかも財界に顔の利く大物よ、そんな大物貴族がひき逃げ犯だとしたら、特大スクープになるでしょ?」


 鼻高々と、得意満面に言うキャシー。


「確かに、そうですけど、それって危ないんじゃないですか?ほら、映画とかでもあるじゃないですか、真相に迫った記者とか探偵が口封じに殺されるって言うの」


「うっ。まっまさかぁ……」


 キャシーは急に無口になって視線を足元に落としてしまった。


「本当は、不安だったりするんでしょ?」


「そっそりゃ、見ず知らずの土地に一人で、しかも若い女の子である私一人で行くんだから、不安はあるけど、そんなこと言ってたら記者なんてやってられないし、特ダネだって一生、手に出来ないわよ」


 言葉こそ、威勢が良かったが、俯き加減に胸元で指を突き合わせているキャシーは、言ってることとやってることが、矛盾していた。


「そですか……ん……んんっ………っ」


 ヴェラはどうせ、あんなのは映画の中だけだろうと楽観的に構えていたのだが、〈口封じ〉と言う言葉に、もう一つの言葉を思い出した。


口止め金……


 仮に、ひき逃げ犯がそんな大富豪であるなら、口止め金くらいは払いかねない。そして、通帳に振り込まれた大金がそれであったとしたならば、辻褄も合って来る。

 ヴェラは全身に悪寒を感じた。


「どうしたの、急に黙り込んで?し、心配してくれるのは嬉しけど、大丈夫よ。マフィアの取材に行くわけじゃないんだし」


「いえ、心配なんじゃなくて、そのですね……」


「えっあ、心配なんじゃないのね……って、べっ、別にそんなのわかってたし……気にしてないし……」


 恥ずかしさ余って、すっかり顔を真っ赤にしたキャシー、どこからどう見てもヴェラの言葉を気にしている様子だったが、正直、ヴェラの心中はそれどころではなかった。


「あの、実は、通帳に身に覚えのない大金が振り込まれていて……」


 そう言いつつ、ヴェラは机の引き出しに隠しておいた、通帳を開いてキャシーに見せた。


「うわぁ、本当……五百ポンドが十万ポンドに増えてる……」


 キャシーは通帳とヴェラの顔をと交互に見ながら、いけない物を見てしまったような表情をした。


「事実ですけど、そんな風に言われると腹立ちますね。わざとですね?わざとですよね⁉よし、表に出ようじゃないかっ‼」


 ヴェラは一人でそう喚いて、腕まくりをしたのだが、キャシーは難しい顔をして通帳に視線を落し続けているばかりだった。


「これって、口止め金だと思う……」


「やっぱり、そう思いますか……私も今しがた、そう思ったんです。と言うかそうでないと、辻褄が合わないですし……」


 真摯なキャシーの姿に、ふざけている場合ではないとヴェラはベッドの上に座り直した。


「大物貴族の線が一層濃くなったわね。十万ポンドもぽんっと振り込める人なんて、そうそう居ないもの」


「あれですか、オードバイが自転車に置き換わってたのも、金の権力の仕業ってことですかね」


「それは、なんとも言えないけど、否定しきれないところが歯がゆいわね」


 キャシーは顎に指を添えて、何やら考え込んでいる様子だった。


「キャシー。列車の時間はいいんですか?」


「えっあっ、まだ大丈夫だけど、そろそろ行くわ。出だしからアクシデントとか御免だし」


 そう言って立ち上がったキャシーは、ランドセルを背負って、ボストンバッグを携えた。


「これ、餞別です。列車の待ち時間にでも食べてください」


 そう言って、ヴェラは取り置いていた、カップケーキをキャシーに差し出した。


「えぇ、カップケーキは嬉しいけど、普通、裸で渡す?」


 目を細めて呆れた風に言ってみたキャシーだったが「ありがとう、頂くわ」とカップケーキを受け取った。


「あの、次、何時会えるかわからないので、言っておきますね……」


 今回はキャシーに本当に世話になったので、ヴェラは心からお礼を述べようとした。

 だが、


「ちょーっと待ってっ‼何それ、もう私と会えないみたいな言い方やめてよねっ!私、死なないからっ、ちゃんとすぐに帰って来るからっ!そう言う、フラグ立つようなこと言わないでよねっ‼」


 想像以上にノーフォーク行きで、ナイーブになっていたキャシーに全力で阻止されてしまって、その先を言わせてもらえなかった。


「いえ、そんなつもりはなくてですね。純粋に、今回のお礼をですね……」


「待ってっ!それは無事に帰って来てから聞くわ。そして、何か奢って頂戴」


 キャシーは必死な形相で、ヴェラの言葉を遮った。


そして、「それじゃ、私、行って来るからっ!スクープ取って帰って来るからっ‼」と言い残して病室を出て行ってしまった。


「あ、万年筆……返しそびれた……」


 ドアが閉まった後、ヴェラはそう呟いた。

 足取り重く駅に向かうキャシーの姿を窓から見下ろしながら、ヴェラは思った。本当はノーフォーク行きを止めてほしかったのではないだろう。と。





「もう。今日、退院するんだったら、どうして昨日のうちに準備しておかないの?」


 普段の不摂生からか、壊れた体内時計のせいか、クラーラが病室に訪れた時、ヴェラはまだ爆睡していた。


「その、昨日、昼間に寝過ぎて、夜、なかなか寝付けなくって……ごめんなさい」


「荷物はお婆ちゃんがするから、ヴェラちゃんは着替えを済ませておいて。寝巻では帰れないでしょ」


 クラーラは手際よく、荷物を大きなトートバッグに収めて行く。

 そう言っても、そもそも、ほとんどを病院から借りていたので持ち帰る私物はほとんどない。一番大きくて、重い物と言えば、エマから借りていたタイプライターだろう。


「あの、グランマ」


 ズボンを履いて、上着を着ようとして、ヴェラはとても困った。


「早くしてね。受付に十時頃には退院手続きをするって言って来てるんだから」


 退室準備が整ってから、そう言うことは言えばいいのに。そうやって、自分の都合で人を急かすところは、母親そっくりである。

 まあ、本を正せば思いっきり寝坊をしたヴェラが悪いのだが……


「グランマってばっ」


「このタイプライターどうしましょ。毛糸の風呂敷に包めば良いわね」


 聞いちゃいない。自分の世界に入り込んだら、人の話が聞こえなくなるのも母親そっくりだ。

 うむ。やっぱり、親子だ。


「もうっ!グランマッ‼」


 ヴェラはベッドの上に立ち上がって、大きな声を出した。


「どうしたの、大きな声なんて出して⁉」


「袖口が細くて、右手が通りませんっ!」


 ヴェラはギプスのところでつっかえてしまっている袖口を見せた。


「あらまぁ、お婆ちゃん、ギプスのことすっかり忘れていたわ」


「ほかに着替えは無いんですか?」


「困ったわねぇ、持って来てないわ。そうだ、おばちゃんのカーディガンを着なさいな。伸びるから大丈夫よ」


「えぇ、カーディガンって、下着、透け透けじゃないですかっ!そして、すっごいスースーしますよっ!もれなく風邪ひきますっ‼」


 ネイマールやクリスティン女医のように強調する部分が無いにしても、さすがに、それは女子としてどうなのだろうか。

 珍しく、羞恥心が先だった。


「そうね。その上から、ショールを羽織れば大丈夫。それにね、ウィンチ君が車を出してくれているから、晒し者にはならないわ」


 ウィンチ君って……


「なんで、ウィンチさんが来てるんですか⁉」


「昨日、生垣の所で見かけて、挨拶をしたんだけど、その時に「荷物を持って帰るの大変だわって」話したら、荷物を持ってアパートまで帰るの大変だろうからって、車を出してくれたのよ」


おおう。意図的なのか天然なのか、その年になって。〈女子〉を武器として使うとは、自分の祖母にして、恐ろしいとヴェラは思った。


「そうだ、退院の書類グランマにお願いしてもいいですか?多分、読める字が書けないと思うので」


「えぇ、そのつもりよ。でも、お婆ちゃん、眼鏡を忘れてきてしまって、見えるかしらね」


 そう言えば田舎の家に居た時、クラーラは眼鏡を愛用していた。時々は外していたから、てっきり、外しているのだとばっかり思っていた。


「取りに帰らなくったって、こっちで新しいのを買えばいいですよ。お金ならあるんですから」


 ヴェラは思い切って言って見た。クラーラがその言葉に込められたヴェラの気持ちに気が付くか否かは定かではなかったが、はっきりとはどうしても言えなかったので、含んだ言い方をした。

 不器用だと自分でも認識している。


「ヴェラちゃん……」


「はい。なんですか、グランマ?」


「お婆ちゃん、しばらく、ヴェラちゃんのところに居ても良い?」


「えっ‼」


 ヴェラは、心臓が口から飛び出るくらい驚いたので、それに相応しい声量を叫んだ。


「やっぱり駄目かしらね。執筆の邪魔になるものね」


「違います‼居てくれるんですか⁉実は、このままグランマが居てくれたらなぁって思ってたんですっ!」


 またこれで、しばらくはクラーラと一緒に暮らすことができる。ヴェラは嬉しくて仕方がなかった。


「あらあら、うふふっ」


 クラーラは特別、何も言わなかったが、ヴェラに注ぐ優しい微笑みが全てを語っていた。


「グランマ、タイプライターは私が持ちます。それを抱えていれば前が隠れるので」


 「あらそう?重いわよ」クラーラはそう言いながら、ヴェラにタイプライターを渡した。

 なるほど、ズシリと左腕に食い込む感じがなかなか辛かったが、重心をギプスの上に移動させると、我慢できない重みではなくなった。

 一階に降り、クラーラに待合所で待っているように言われたヴェラはタイプライターを携えたまま、柱に背をもたせて人間観察をしていた。

 椅子に腰かけ診察の順番を待つ人、薬の待つ人、支払いを待つ人。色々な人が居るが、一様に顔色が悪かったり、咳込んでいたり、包帯を巻いていたり、見ていて楽しいものではなかった。

 ここに居るのは全員が病人であるのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが……

 受付を見やると、クラーラが何やら書類に記入をしていた。

 きっと、書類を書いてから、また順番に並ぶのだろう。

 時間がかかることを予想したヴェラは、外に出ると、日当たりの良いベンチに腰を下ろして待つことにした。

 風が吹けば肌寒かったが、降り注ぐ日差しがある限りは、丁度良い塩梅だった。

 日の光に当てられて、熱を帯びるタイプライターを撫でながら、自分もタイプライターが欲しくなった。

もちろん、チーンとベルの鳴らないタイプを。


「あれ?ヴェラじゃない、どうしたの?こんなところで、もしかして、病室を追い出されたとか⁉」


 何をするでもなく、眠気に弄ばれるがままになってやろうか。ヴェラが幸せな心地で居ると、聞き覚えのある声が投げかけられた。


「なんでそうなるんですか。見ての通り、退院するんですよ」


「そうなんだ、遠目には着の身着のまま、放り出されて途方に暮れてる人みたいに見えたから」


 このファッションだとそんな風に見えるのか。


「今、グランマが退院手続きをしてくれています。ところでレイチェルはどうしたんです?いつもエマの後ろを金魚の糞みたいについて回ってるのに」


「もう、そんな風に言うとレイチェル怒るわよ。レイチェルってば、何やったんだか、病院へ出入り禁止になっちゃったみたいで、お留守番してるわ」


 そう言えば、駐車場で盛大に守衛さんを追いかけっこしてたもんなぁと、ヴェラは、とある夜のことを回想しつつ、ネイマールが仲裁に入っても出入り禁止とは、レイチェルはいったい何をやらかしたのだろうか? 


「っで、、どうしてウィンチさんが居るのか聞いてもいいのかしら……?」


「どこにですか?確か、車をどうとかグランマは言ってましたけど?」


 ヴェラが首を傾げながらエマに聞くと、エマは徐に、ベンチの端を指さした。


「はうっ‼いつから居たんですかっ⁉忍びですかあなたはっ!」


 確かにベンチの端にウィンチ氏は居た。

 ヴェラは驚いて、思わずタイプライターを落としそうになってしまった。


「さっきから居たさ、その、声が掛けず辛くてね」


「あの、初恋の相手にここまで入れ込んでいいんですか?夫婦喧嘩の種になっても、責任とりませんからね」


「なっ、はっ!初恋の人だなんて誰が言ったんだっ!まっ、まさか……クラーラ先生が……?」


 思いっきりわかりやすく狼狽するウィンチ氏。


「なんですか、グランマにはもう魅力はありませんか。そうですか、皺が増えたら、知らんぷりなんですね。これだから男って生き物はっ!」


 ヴェラは軽蔑の眼差しをくべながら、全力でウィンチ氏に毒舌を並べた。

「ちょっと、いくらなんでも失礼よ」エマが困惑した表情で間に入ろうとしたが、ヴェラはそれを許さなかった。


「勝手なことを言うのはよしてもらおうっ!クラーラ先生は今でも昔とかわらず、お茶目で品があって、とても魅力的な女性だっ」


 ウィンチ氏は髪の毛を振り乱して、これを否定し、少し声を細めて「妻は十年前に亡くなった。私たちの間には子供を授かることができなかったから、今は一人だ。やましいことなんて一つもない」と言った。


 ヴェラは表情一つ変えず、ヴェラに厳しい視線を叩きつけるウィンチ氏を見上げ、


「そうですか。そう言えば、グランマは眼鏡を忘れてきてしまって、今頃、書類記入に手間取っていると思います、だから、誰かが、手伝いに行ってあげた方がいいと思うんです」と告げた。

 

「そ、そういう事は早く言うものだ」


 ウィンチ氏は怒っているのか照れているのか、よくわからない顔をして、玄関の方へと歩き出す。

ヴェラは口に手を添えて、その背中に向かって「グランマはしばらく、こっちに居ることになりましたが、きっと毎日、暇を持て余すと思うので、綺麗な庭でお茶の相手をしてくれる人なんかが都合よく居れば、いんですけどね」そう言ったのであった。


「お、大人をあまり揶揄もんじゃないっ!」


 ウィンチ氏は立ち止まると、一度振り返ろうとしてこれをやめ、玄関のガラス戸に向かって大きな声で言う。

 ガラス戸には、はにかむウィンチ氏が映っていた。





「もうっ、ヴェラったら、なんでもっと器用にできないのよ。いつもみたいに喧嘩売ってるのかと思っちゃったじゃない」


 ウィンチ氏の姿が病院内に消えてから、エマが安堵の息を吐きながら、ヴェラの横に腰を下ろした。


「グランマも今は一人で寂しい身の上ですし、ウィンチさんも同じく一人です。これを機にお茶のみ友達になったらいいのですよ。ウィンチさんの庭はその辺の奥様方が、やっかむほど立派な、イングリッシュガーデンですし、グランマは草花が好きだから、話も合うと思います」


 人と人の縁が予め決められていて、それを運命というのであれば、遠い昔に出会いそして、離れ離れになって、幾星霜の後にまた会いまみえた奇跡もまた運命と言って差障り無いのではないだろうか。

 人は生まれながらに、魂の片割れを探す旅に出る。幾多の出会いと別れを経て、その片割れに出会ったと錯覚して尚、永久の別れに落胆して、再び出会えたというのであれば、それこそが真の片割れなのかもしれない。

 

「ヴェラったら、良いとこあるじゃない」


「ふっふっふっ、あーはっはっはぁっ」


 えっ⁉エマは急に隣で、怪しい笑い声を上げだしたヴェラに向き直った。


「急にどうしたの?えっと、今のとってもいい話なのよね?ヴェラはクラーラさんとウィンチさんのためを想って言ったのよね?」


「もちろんじゃないですか。ただ、グランマが持ち帰って来る美味しくて珍しいお菓子を、ももらうだけですよ」


「ちょっと何言ってるのかわからないけど、どうして、クラーラさんが美味しくて珍しいお菓子をもらって帰ってくることになるの?」


「エマは、鈍い子ですねぇ。見て聴いてたでしょ?私のグッドなアシストにして、エクセレントなアテンドっぷりをっ!ウィンチさんも遅咲きの春を謳歌できて、私も美味しい物をたらふく食べられる。まさに、これ以上にないウィンウィンなっ!ウィンウィンウィンな関係なんですよ」


「答えになってないよっ!」


「本当に鈍い子ですね。将来が心配になりますよ。いいですか、ウィンチさんはグランマに首ったけなんです。気になる女性を自分の自慢の庭に招待するとなると、色々と気合をいれるはずです。お茶を淹れるなら、ベノアの茶葉を、茶葉がベノアならお茶菓子だって、一級品でなければ釣り合いません。グランマは甘いものがあまり好きではありませんから、当然、余ります。そしたら、当然の流れとして、ウィンチさんはグランマにお土産として持ち帰らせることでしょう。ほらね。結局は、家で待っている私の口に入るわけです」


 ヴェラは腕組みをして得意げに、エマにお菓子が自分の口に入るまでのアルゴリズムを説明して聞かせた。


「何それ……じゃあ、ヴェラは美味しいお菓子食べたさに、自分のお婆さんを利用したっていうこと⁉」


 エマは信じられないと言わんばかりに、激しくヴェラに迫った。大量にエマの唾がヴェラの顔にかかったので、ヴェラはそれをショールで拭うのに必死だった。


「利用だなんて人聞きの悪いことを言わないでくださいっ!グランマだって一人暮らしで寂しいのは本当ですし、草花が好きなのも本当なんですからっ!」


 今度はヴェラの反撃の番とばかりに、わざと唾を大量に飛ばした。


「わっ、ちょっ、ヴェラ、唾とばし過ぎっ」


 エマは、慌てて、ポーチからハンカチを出すと唾を拭った。

 そんな風に二人が騒いでいると、病院からクラーラとウィンチ氏が二人揃って現れ、


「二人とも、何を騒いでいるの?さぁ、帰りましょ」いがみ合う二人にそう言ったのであった。

 エマは全然納得していない様子で隙あらば、ヴェラに何か言いたげな顔をしていたが、ヴェラはすでに満足であった。

クラーラとウィンチ氏。一人であっても決して独りではない。

 前を歩く二人を見ていると、ヴェラはなぜか嬉しくなった。


 だから、声を弾ませて、


「折角、車があるんですから、このまま皆で美味しい物でも食べに行きましょうっ‼」


そう言ったのだった。


 駐車場をに向かいながら、ヴェラは少しだけ振り返って、白く聳え立つ病院を見上げた。そして自分が入室していたであろう病室と思しき窓を見つけると、加えて妙に感慨深かった。退院できて清々しているはずなのに、少し名残惜しいような・・・・・


 病院を見上げていて、不意に何かを忘れているような・・・・そんな気もしたが、思い出しもしないことなのだから別段、大したことでもないのだろう。そう思うことにした。


 でも気になる・・・ので、もう少し思い出してみようか・・・と思ったところで、


「ヴェラぁ~そんなところで何してるの~」とエマに呼ばれたので、


 思い出すのをやっぱりやめて「今いきますよーっ」とウィンチ氏の車のところへと駆けて行ったのだった。


 

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