Ⅵ 再会とそんな真実

 

 やってしまった。


 燦々と差し込む太陽の光を恨めしく見ながら、ヴェラの目元は寝ぼけたまんまであった。

 せめて、朝食が配膳されるまではタイプしよう。そう思って、机に向かうと、机の上にすでに朝食のトーストが置かれてあった。


「……いただきます」


 傍らに置かれた苺のジャムが美味しそうだったので、とりあえず、朝食を食べることにした。

 エマ達が帰った後、ほどなくして、エマの書いた説明書を見ながらタイプライターを使って、ポチポチと執筆をしてみた。

 ボタンも軽く、右手も使えて、とても効率が良い。

 何より、ポチポチやるたびにカシャカシャと鳴る機械音がとても耳心地がよく、すぐにタイプライターを気に入ったヴェラは今夜も徹夜だっ!と意気込んだ。


 意気込んだのだが……


「消灯時間だから、し・ず・か・にっ!してくださいね。と言うか寝てくださいっ!」


 と二十二時を回った辺りで見回りで病室を訪れたオーバーロードに下知を下され、あえなく作業を断念せざるを得なかった。

 ポチポチするのも楽しいし、乱暴にタイプしようが、優しくタイプしようが、同じ文字が印字されるのだから、ポチポチするヴェラは気楽なそのもので、久しぶりに執筆作業が楽しく思えたというのに……

 思わぬ落とし穴だった。


「このベルだけでもなんとかならないんですかねぇ」


 このタイプライターは用紙の最終行までくると、チーンッと甲高いベルが必ず鳴る。

寄稿文店でも何度なく聞いている音だから仕様なのだろうが、タイプ音はなんとか消音できても、このベルだけはなんともならない。

 ベルが鳴る前に用紙を引き抜いても見たが、引き抜く際に変な音がしたので、二度とする勇気もないし……強行して今晩も屋上で執筆しようか……

 そう思ってみたものの、窓を打つ強風の音にすっかり、その気概は萎えてしまっていた。加えて、あのオーバーロードが屋上行を許可も黙認もするはずがない。

 すでに「寝ろ」と言う絶対君命も下っている。


「ふぅむ、仕方がないですね。今日は寝て明日の早朝から続きをしよう。うん」


 絶対君命は絶対なので、さすがのヴェラも大人しく受諾するしかなかった。


 そして、明けた翌朝。


 イチゴジャムを塗ったトーストをムシャラムシャラとやっている現在に至るのであった。 

 トーストを食べ終え、トレーを返却してから、昼前までポチポチとやって、目が疲れたので、昼食まで寝ようか、と伸びをしたところ、クラーラが見舞いにやってきたので、どちらにせよヴェラはベッドの上に移った。


「今日もいいお天気ねぇ」


「はい。外に出られないのが憎々しいくらいにいい天気ですよ」


 惰眠日和であるこんな日は、川のほとりのベンチで惰眠を貪るに限る。


「退院したら、ピクニックにでも出かけましょうね」


「そうですね。川のほとりに、お気に入りの公園があるんですよ。そこに行きましょう」


 決して裕福な環境になかった、ヴェラの楽しみと言えば、クラーラ特製のお菓子とお昼ご飯をバスケットに詰めて出かけるピクニックだった。

 とても懐かしくも、楽しい想い出である。


「その、グランマ。すみません」


「どうしたの急に?」


「いえ、冷蔵庫に何も入ってなかったと思いますし、洗剤とかその辺りも無かったと思うので……」


 恥ずかしながら、〈足りない〉とか〈心もとない〉とか言うレベルではない。

全くない。

冷蔵庫に関しては、電気さえ通していなかったのだから……クラーラが何も言わないところ見ると、壊れてはいなかったようだが……


「一人暮らしは大変だものね。私も、若い頃はヴェラちゃんのアパートの近くに住んでいたことがあるのよ。建物自体はもうないけれどね。だから、一人暮らしの大変さはわかるつもりよ」


 クラーラは微笑みつつそう言うと、「これ、お見舞いに来てくれたお友達と食べなさいね」とクッキー缶をヴェラに渡した。

中味はクッキーではなく、マドレーヌだった。


「グランマもあの辺に住んで居たんですね。初耳です。もしかしたら私のお気に入りの公園も知ってるかもしれません」


「どうかしらねぇ、川沿いの方にはあまり出掛けなかったから……」


 そう言いながら、窓の外へ一度視線を向けたクラーラは、すっかり、萎れてしまった薔薇を一瞥すると、「ヴェラちゃん、お水替えなかったのね」と口にした後、立ち上がると花瓶を手に出入り口の方へ歩きだす。

 その時のクラーラの寂しそうな顔を見るや、ヴェラはとても悪いことをしたような面持になった。

 なんだか釈然としないままだったが、水替えをするのをすっかり、失念していたのは事実なので、ヴェラは釈然としないままだったが、とりあえず、窓を開けることにした。


 コンコンッ


 そんなタイミングでドアをノックする音がした。


「はい、どうぞ」


 こんな殊勝な心掛けをするのはネイマールかな?と思った矢先、開いたドアから深紅の薔薇の花束を抱えた見知らぬ初老の男性が現れた。ヴェラはドアが開いたと同時に流れ込んだ風に揺れるカーテンのようにたじろいで驚いた。


 やや幼い印象を受ける目元と、高い鼻、薄い唇。典型的なイギリス人な風貌に深みのあるブラウン色の背広の上下に蝶ネクタイ、髪の毛はポマードで塗り固めてあるのだろうか、独特の香りと光沢が見て取れる。

 そんな容貌で、薔薇の花束を抱えているのだから、さながら、劇中でプロポーズの待ち合わせに現れた主人公のようであった。


「私はウィンチ・ホースと言う者だが、ヴェラ・クリスティさんの病室はこちらで間違いないかね」


 男性は、病室の中央付近まで歩み寄って、窓枠に腰を密着させて身構えるヴェラに静かにそう尋ねた。


「ヴェラ・クリスティは、わ、私です、おっお名前をどうぞっ!」


「……私の名はウィンチだ。すると、君が事故に遭った女性なのかね?」


「はい、そうですとも。私が自転車に撥ねられた女性ですともっ。これが証拠ですっ」


 ヴェラはそう言いながら、右手のギプスを突き出して見せた。


「そうか、君か……」


 ウィンチ氏は、呟く様に言うと、視線を床に落とし込んでしまった。傍から見ると、それはとても落胆した姿に見えた。


「む……」


「はぁ……」


「あらあら、お客さんなの?わざわざ、お見舞いに来て下さってありがとうございます。さぁさぁ、どうぞお座りになって」


 嫌な沈黙が束の間あった後、沈黙を破ったのは、嬉しそうに入って来たクラーラだった。

 ウィンチ氏に座るよう、促して後、水が入っていると思しき花瓶を机の上に置いた。


「それで、ヴェラちゃん。こちらの方は?」


「ウォンチ……えっと…」


「ウィンチ・ホースです」


 ウィンチ氏はなぜか上ずった声で短くクラーラに自己紹介をしてから、


「こっ、これをっ!」と震えた両手で薔薇の花束をクラーラに差し出したのである。


 なんだこれ……ヴェラは頬を掻きながら、初々しい仕草のウィンチ氏を見ていた。


「あらあら、以前も綺麗な薔薇の花を頂いたみたいで、本当にありがとうございます」


 「まぁ立派な薔薇だこと」クラーラは続けてそう言いながら、ウィンチ氏から花束を受け取ると、包紙ごと花瓶に生けた。


 この男は私のお見舞いに来たのではないな。ヴェラはずっとクラーラに釘付けになっているウィンチ氏を薄眼で見ながら、そう思った。

と言うよりも、そもそも、この男が自分の所に見舞いにくる理由がない。見たところ、ファンでもなさそうだし……わかりやすく、クラーラに惹かれている様を見やるに、大方、病院内か町中でクラーラを見つけ、ストーキングの末にこの病室にたどり着いたのだろう。

見たところ、クラーラよりも年下のようだったが、モテそうにもないし、恋愛経験もなさそうだし……老人の一目惚れは、老い先短い分、危険な方向に一線を踏み越えるのも早いと聞く。

 ここは、愛すべきグランマの為に、釘を刺しておこう。

ヴェラは自分のファンではないことを窺い知ると、簡単に非情になれた。


「それで、ウィンチ氏。あなたは、どうして今ここにいるのですか。私はあなたと初対面なんですが。あれですか、一目惚れしちゃったんですか?ストーキングしちゃいましたか?町中でお茶目に買い食いをして歩く、グランマに………………に似ている私にっ!」


 相手が、たとえ祖母であっても、ヴェラの中にある乙女心が一さじ程度、燃えて気が付いた時にはそんなことを口走っていた……

 見れば、なかなか高級そうな腕時計をしているし、靴だって磨き上げられてある。袖元で光るカフスボタンにはダイヤくらいはついているかもしれない。

 安易にファンではないと切り捨ててしまうのは、勿体ない。


「なっ!なんてことを言うんだっ。ストーキングなどするものかっ!事故に遭ったのがクリスティと言う名前だと聞いて……その…昔の知り合いかと思ったんだ」


「昔の恋人か逃げられた奥さんかもしれないと、花束抱えて結果オーライ病室突撃訪問しちゃったんですかっ!」


 一呼吸にヴェラは言ってやった。

 一目惚れの件は否定しないんだ。と言う細かいツッコミを入れるのを忘れた事を言い終わった後に気が付いたが、言い切った手前、付け加える隙がなかった。


「あらぁ、やっぱり、ホースさんなのねっ。昨日、お家の近くを通りかかったのだけど、相変わらず素敵なガーデニングだったわぁ」


 え?


「ちょっと、グランマ何を言ってるんです?まさか、この人と知り合いだとか言い出さないでくださいよ」


「知り合いよ。ウィンチ君も立派になったから、今の今まで確信が持てなくって」


 えぇー


「やっぱり、クリスティ先生なんですねっ!お久しぶりです、さっき一目見てそうなんじゃないかと思ったんですっ!先生はお変わりなく、綺麗なままですねっ」


 おいおい……


 そこそこ、貫禄のあったウィンチ氏がまるで少年のように瞳をキラキラさせて、軽快にそんなことを言いだした。


「あらやだ、お上手になったのね。あんなに口下手だったのに。ご両親はお元気でいらっしゃるの?」


 おいおいおい……


 クラーラまで、乙女のようにキャイキャイとやりだした。元々、仕草や言動に可愛らしさのある人だが、ヴェラの眼にはその後ろにお花畑が見える。


「両親はすでに亡くなりました。今は私が、あの庭を受け継いで、我流ですけど世話をしているんです」


「あらそうなの、もう一度、ご両親ともお会いしたかったのに、そうよね。お互いに年をとったものね」


「ちょっとっ!あなたは私に、花を持って来たのではないんですかっ!この際、私が目当てと言っても変態と呼ばわりしませんからっ!無視しないで下さいっ!」


 ヴェラは二人の会話が途切れた間隙を狙って、声を荒げて言った。

 そして、つい最後に本音が出てしまった……と顔を紅潮させた。


「私は、事故当日、怪我人を介抱するレスキュー隊員が「クリスティさん」と声を掛けているのを聞いてだね。もしかしたら。と思ってお見舞いに行ったんだ。先生だったらこの薔薇をみれば、私を思い出してくれると思って。だが、一昨日来た時は、詰所で追い返されてしまった。それでも、どうしても諦めきれなくて、今日も来てみれば、なぜか病室に入る許可が出た。だから、本人で間違いないと思った、ただそれだけだ」


 クラーラが居る手前、言葉を選んだようだったが、見るからにヴェラに説明ウィンチ氏は面倒くさそうであった。


「そうだ、ウィンチ君、お昼まだよね?」


「はい。帰りにすませようかと」


「だったら、昔、行ったあのお店、なんて言ったかしら?川沿いにあるハンバーグの美味しいお店」


「あぁ、ロイヤルキングスですねっ。五年ほど前に店舗は新しくなりましたけど、味は変わってませんよ」


「あらそうなの。懐かしいわぁ。今日のお昼はそこにしましょう。ウィンチ君時間ある?」


「はいっ!是非、ご一緒しましょうっ!」


 ヴェラをほったらかして盛り上がった二人は、ヴェラ一人を残し、連れだって病室を出て行ってしまった。


「主役であるはずの私が。この病室では絶対的主役であるはずの私が、空気扱いですか。へっ‼」


 ヴェラは乱暴にベッドに横になると、毛布を頭から被って拗ねた。

 

皮肉なことに、昼食はハンバーグだった。

 

  



 ハンバーグには恨みはなかったが、腹立ちまぎれにいつもより、がっついてハンバーグをやっつけたヴェラは、想像以上にジューシーで肉厚だったハンバーグの美味しさに機嫌を直して、執筆作業に戻っていた。


 とは言え、


「なんなんですか、あの二人の関係はっ。グランマもグランマです。川沿いは行ったことないって言いながら、行きつけの店があるじゃないですかっ!しかも先生ってなんですか⁉先生ってなんなんですかっ⁉グランマが教師をしていたなんて聞いてませんよっ!」

タイプライターを操作しながら、ぶつぶつ言い続けていた。

本当にあの二人はなんなのだろうか?どうも、過去に親密な関係にあったことだけは窺い知れたが、果たしてそれがどういった類のものだったのか。教え子と教師の禁断の関係?それとも、それとも……


「それしか思い浮かびませんよっ‼」


 母からも、クラーラについてはあまり聞いてはいない。けれど、クラーラに限って、若気の至りと火傷をするような火遊びをするとは到底思えない。

 これが、他人事だったら、面白可笑しいメロドラマのように、想像してニヤニヤできる。だが、身内の、しかも一番傍に居てくれた大切な人の事ともなると、安易な想像もしたくなければ、理性的にインモラル方面に思考をすら向けたくない。

 

「そんなことはどうだっていい……」


 結局のところ、ウィンチ氏とクラーラが過去にどういった関係にあったのか?それはとても気になる。好奇心から根掘り葉掘り聞いてみたい。

 だがしかし、結局のところはそんなことはどうだってよかった。ヴェラがショックだったのは、一番大切な人に、自分をのけ者にして隠し事をされたように感じたことだった。


「内緒話は、隠れてやればいいんだ。私が居ないところでやればいいんだ。どうして私の居るところでするんだっ!された方の身になってみろっ!」


 中等部の時に、親友だと思っていた女子に目の前で内緒話をされたことを思い出して、ヴェラは怒りを全てタイプライターのボタンにぶつけた。

 夕食を挟んで、オーバーヒート寸前の前頭葉を窓ガラスに密着させて冷却していると、病室のドアが開く音がした。

 振り返ると、そこにはお馴染みのランドセルを背負ったキャシーの姿があった。


「やっほー、執筆進んでる?」


「はい、エマがタイプライターを貸してくれたので、とても進んでいますよ。そろそろ新作のプロットが書き終わります」


 どうだ。と無い胸を張って言うヴェラ。

 それに対して、キャシーは頬を掻きながら、


「それは良かったわね。来週分の新聞小説の原稿できてる?もらって帰るつもりで来たんだけど」


「あ……」

 

 一瞬でヴェラの顔から余裕の笑みが消え、みるみる内に蒼白と化してゆく。


「あ。じゃないわよ……まさか、それ忘れてたんじゃないでしょう?」


「もももっ、もちろんっ書いてないわけないじゃないですか。ただ、ちょっと、家に置いたままなだけです。」


「そうなんだ。今日受け取って、編集へ持っていくつもりだったのに。それじゃ、ヴェラの部屋に取りに行ってあげるわね」


「だっ、駄目ですっ!それは駄目ですよっ。プライバシーの侵害です‼」


「あのねぇ。私がヴェラの原稿滞りなく届ける条件で担当編集に目瞑ってもらってるのよ?こんなこと言いたくないけど、本当だったら、この椅子には担当者が目を光らせてるはずだったんだからねっ」


 長くしなやかな指でヴェラを指し、呆れて言ったキャシーは、少し小声で「大体、友達なんだから、部屋に行くぐらい、いいじゃない」と続けて言った。

 

「へっ……」


 キャシーの意外な言葉に、ヴェラが呆気に取られていると、その姿を見たキャシーは慌てて、視線を窓の外に逃がし、照れ隠しだろうか、腕を組んだ。

 相変わらず盛り上がり強調される胸元に目が釘付になったが、今日は何時もみたいに鷲掴みにしたい衝動には駆られなかった。

 友達……なかなかいい響きだった。

 面と向かってはじめて言われたその単語に、ヴェラでさえも、子揺らぎして照れてしまう始末である。

 

「部屋に行っても、無駄なんですよ」


「なんでよ?クラーラさんがいるでしょ?」


「確かにグランマは居ますけど、原稿がどこにあるかわからないと思いますし……」


「それはないわよ。だってリビングに机しかなかったし」


「やっ!言っておきますけど、あの部屋は私が借りている複数あるアパートに部屋の内の一室に過ぎないんですっ‼そして、ボロいので一番使わない部屋なんですよ。だから、冷蔵庫のコンセントが抜いてあったり、家財道具が少なかったりしたわけですっ!」


「えっ⁉そうなの?冷蔵庫のコンセントが抜けてたのも、一人暮らしで自炊しないからだと思ってた。クラーラさんもそんな風なこと言ってたから、てっきり……でも本当かなぁ、怪しい」


 あぁ、わざわざ墓穴を掘ってしまった……

気の利くクラーラがフォローしてくれていたと言う可能性をすっかり失念してしまっていた。

 ヴェラはキャシーの追求をかわすために、話題を変えることにした。


「あがってないんです」


「えっ?何が?何よ急に」


「だから、原稿が書きあがってないんです」


「どういう事よ。来週分書きあがってないのに、新作書いてたって言うの?」


「そのなんて言うか、すっかり忘れてました。多分、初日の屋上で徹夜したのがいけなかったんだと思います。えぇ、そうですとも」


「はい?この超寒い中、屋上で徹夜?何、わけのわかんないこと言ってんのよ。今日中に私が取りに行って持ってくるから。その代わり、一日で仕上げてよね」


「うぅ……わかりました、善処しまふ……」


 どこまで書いてたっけ?ヴェラはキャシーの設定したカウントダウンに、急に自信が無くなってしまった。

 まぁ、締め切りギリギリなのはいつものことなのだが…… 


「それじゃね」


 そう言って、キャシーが腰を浮かせたところで、ドアがノックされた。

「どうぞ、開いてますよ」とヴェラが言うと、開いたドアから、老いた男性が現れたので、ヴェラはもとより、キャシーは相当に驚いている様子だった。


「夜分にすまない。どうしても謝っておきたくて。本当は昼に来た時に謝罪するつもりだったんだがその……思わぬ再開で、謝罪することができずじまいだったのでな」


 服装は変わっていたが、よくよく見ると、それは昼間、薔薇の花束を持って現れた……確か……


「あぁ、えっと、ウィンツ・ハウスさんでしたか。謝罪だなんて、どういうことですか?」


「ウィンチ・ホースだ」


 ウィンチ氏はコホンと小さく咳ばらいをしてから、早口で訂正した。


「ねぇ、この人誰よ」


 帰りかけたキャシーは再び、椅子に腰を下ろし、ヴェラに耳打ちをした。

すでにメモ帳と鉛筆を構えているところが、さすがと言ったところだろうか。


「えっと、そこの薔薇の送り主であり、自称、事故の関係者であり、自称グランマの元生徒です」


「えぇ、何それ、あからさまに怪しいじゃない。元生徒って何よ」


「知りませんよ。グランマも教えてくれませんし」


「その件について、どうなんですかウィンチさん」


 極自然な流れを装って、キャシーはウィンチ氏に向き直った。


「いや、それは……って、会話の流れで聞かんでもらえるか。そもそも、君は誰なんだね」


「はじめまして、私は、キャシー・ミンスです。ヴェラの…ヴェラの友達です‼」


 なぜか顔を赤くして言うキャシー。


「そんなことよりも、ウィンチさん、病室にリバイバルしたのは、私が目的ではありませんよね?グランマなら見ての通りいませんよ」


 ヴェラは少し棘のある言い方をした。


「ちょ、そんなことって何よっ!」


 顔色一つ変えないウィンチ氏とは対照的に、オーバーに反応したのはキャシーの方だった。

 キャシーに立てた棘ではないのに……やや面倒くさくなりながら、ヴェラは肩を揺らしてくるキャシーにされるがままになっていた。


「それはさっきも言ったと思うが、君に謝罪をしに来たんだ」


「謝罪って、どうして私があなたに謝罪をされないといけないんですか?あなたが私を自転車でぶっ飛ばしたって言うんですか?だったらっ、だったら薔薇も謝罪もいりません‼」 


 ヴェラはそこまで言い切って、言葉を一旦止めた。そして、キャシーとウィンチ氏が息を飲む中、一呼吸おいてから、


「代わりに、冷蔵庫いっぱいの食糧を下さいっ‼」と力強く言い放ったのであった。


 迫力を伴って言い放った一言のわりに、聞き取ったキャシーとウィンチ氏は反応に困っているようだったが、呆れてヴェラを見れば目が真剣そのものだったの、余計に反応に困る。


「そこは普通、お金とか時間を返せ。とかじゃないの?食料って……しかも、冷蔵庫いっぱいって……」


「キャシーは知らないんです。冷蔵庫が空で驚いたって話した時のグランマの緋想に満ちた笑顔をっ‼あの、食うにも困る超絶貧乏極貧生活を慮ったかのような優しい眼差しをっ‼」


 いつでも、冷蔵庫に食べ物のあるキャシーとは分かり合えることはないだろう。所詮、どれだけヴェラが切実に語ってところで、永久に交わることのないベクトルなのだ。


「いや、当事者でもないし、私もそこまで生活に余裕があるわけではないから、保証などはできないんだが……」


「じゃあ、何しに来たんですか⁉」


「撥ねられる前、そこの花瓶に生けられた薔薇に見覚えがないか?」


「見覚えといわれましても、どこにでもある薔薇じゃ……あ…」


 ヴェラは首を捻りながら、どこにでもある薔薇だと言おうとした。だがその瞬間、断片的な記憶が鮮やかに蘇ったのである。


「えっ見覚えあるの⁉」


「はい。確か、この薔薇を避けて車道側に出た瞬間に……この薔薇、あの迷惑な薔薇だったんですか」


 ヴェラのアパートから大通りに出るまでの道路は、自動車がやっと一台通れるほどの道幅しかない。だが、幹線道路から川沿いの道路への近道ということもあり、道幅のわりに交通量は多い方だった。

 幹線道路へ向かう方向に歩くと、途中にあるカーブの出口付近にひときわ目を引くガーデニングに凝った庭のある家があるのだが、その家の塀の一部が薔薇の生垣となっており、この季節には決まって綺麗な大輪の花を咲かせるのだ。問題なのはその薔薇が道路側にはみ出し、道路の見通しを著しく損なっていることだった。

 花の時期が終わると、選定され解消されるので、いち通行人でしかないヴェラは抗議をするまでもないと別段気にも留めていなかったのだが、聞くところによると、見通しの悪さから自転車と人との接触事故や、薔薇の棘で自動車ボディが傷ついたと抗議の声もあるにはあるらしかった。


「そういう事だ。私の我儘のせいで、人が死ぬところだった……本当にすまなかった。この通りだ。生垣は処分することにした」


 ウィンチ氏はそういうと、「申し訳なかった……」と頭を下げた。


「いや、謝られても困りますし。それになんですか、それでは、私のせいで今まで手塩に掛けて育てた生垣を処分するみたいじゃないですかっ。私に処分の理由をなすぐりつけるのはやめてください。そんなのはずるいです!」


 ヴェラはそう言うと、腕を組んで不快感を露わにした。


「いや、それはなんか違うと思うけど……」


 さすがに、何を言っていいのか困惑しているウィンチ氏が可哀想になったキャシーが助け舟を出した。

 キャシー自身も、まさか、そんな反論をするとは思ってもなかった。


「実は、あの生垣の薔薇がクラーラ先生との出会いの切っ掛けだったんだ。先生はあの薔薇の花が咲くのを楽しみにしていると言ってくれてね。先生がロンドンを離れてしまってからも、この薔薇の花さえ咲かせれば、いつの日か、先生がひょっこり、花を見に現れるんじゃないかと思って……笑ってくれて構わんよ。こんな年になっても諦めず切れずにいたんだ……」


 ウィンチ氏はそういうと自嘲気味に笑みを浮かべた。

 キャシーは、きっと、ウィンチ氏にとってクラーラは初恋の人なのだと確信した。そして、何十年もの時をずっとずっと思い続け、その気持ちを薔薇の花に託し続けた。そんな一途過ぎる純粋な恋心に胸を熱くした。


だが、


「そんなこと知ったこっちゃないですよっ!私への償い云々とか言っておきながら、結局はグランマに再会できたからっ!再開した上に、ちゃっかりデートまで出来て、本懐を遂げられたから薔薇を処分しても何とも思わなくなったんですよねっ、そうですよねっ‼これだから大人って生き物は嫌なんですよっ‼」


「なっ、なんてことを言うんだっ!」


 さすがに、これにはウィンチ氏も呆れを突き抜けて、怒りを露わにした。

 

「ほらねっ!ほらほらっ!図星なんでしょっ、だから怒るんです。どうせ、グランマの姿を見かけて、私の所へ薔薇の花束を持って来たんでしょ。思い出深い薔薇ならグランマも気が付くかもしれしれませんからねっ。盗人猛々しいとはよく言ったものですよっ!」


「なっ、それは誤解だ。そもそも、最初に薔薇を私が持って来たのは、クラーラ先生がロンドンに出てくる前の日だろう⁉」


 そう言えば……ヴェラは畳みかけようと開いた口そそのままに、少し考えて、そう言えばそうだったと思った。

 だから、言うに言えず、開いたままの口を声を出さずにパクパクとだけさせていた。


「そっ!それで、ウィンチさんは事故現場のすぐそばにお住まいと言うことですが、手掛かりになるようなことを、見たとか聞いたことかってことはありませんか?」


 決定的な一打に完全にノックアウトされてしまったヴェラの作った、居心地の悪い沈黙に耐えかねたキャシーがウィンチ氏にそんな質問をした。



「警察にも話したことなんだが、犯人の姿は見てない。だがね……」

 

 そんなキャシーの問いに、ウィンチ氏は少し考えてから、表情を険しくて声量を絞って言ったのである。


「君を撥ねたのは、自転車ではない」


 と。


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