Ⅴ メシアと書いてクラーラ・クリスティと読む
その日は、小春日和の祝福を受けた、とても過ごしやすい日だった。
病院の屋上と言うこともあり、外界の喧騒からも解放され、時折、耳を撫でるそよ風がどうして、こんなに気持ちがいいのだろうかと、ヴェラは明晰夢のように、微睡みながら惰眠を貪っていた。
今は何時頃なのだろうか……?
薄眼で見た時、シーツが沢山干してあった。いつの間に干したのだろうか?そして、昨晩はこんなに、たくさん物干し台が並んでいただろうか?
夜と昼とでは風景が異なるが、まるで別世界のようで摩訶不思議だった。
「うぅ、お腹が……すいた……」
あと数時間は眠っていたいと思いつつも、空腹に激しくがなり立てる腹具合が、どうしてもそれを許してくれない。
親玉に反抗するとは、空腹のくせに生意気である。
「ふぁ~」
ヴェラはとりあえず、大きく伸びをしてみた。思った通り、体の節々が、特に腰の辺りが痛んだが、昨晩のそれとは痛みの質が全然違った。
「白雪姫は、やっとお目覚めね」
朝食と昼食を食べに、病室へ戻ろうかと立ち上がると、そんな懐かしい声と共に、懐かしい人物が突然、現れたので、ヴェラは驚いた。
「えっ、なんで……なんでっ⁉グランマがここに居るんですか⁉」
遠く郷里に居るはずの、ヴェラの祖母にあたる、クラーラ・クリスティ。
朗らかな目元と、優しい口元。皺は増えたが肌の色は白く、健在である艶やかな赤毛は彼女を実年齢よりも、ずっと若く見せている。
取り留めて強調性のない体躯と同じ色に近い赤毛から、ヴェラはクラーラ似であると昔から言われて来た。
「可愛いヴェラちゃんが入院したと聞いたら、居てもたっても居られなくなってしまって、昨日、こっちについたのよ」
いつも通り、朗らかに笑顔を讃えるクラーラ。だが、ヴェラがその口角の端が、何から赤っぽいものがついていることに気が付いた。
口紅か何かだろう。いずれにしても、些細なことだ。
「あれ?私が入院したことは、グランマには伝えていないはずなんですけど」
「病院から連絡がありましたっ。入院手続きと保証金を入金に来てほしいと」
「あぁ……ごめんなさい。どうやら、私が意識を失っている間に病院が勝手に連絡したみたいですね。お金は退院したら返しますから」
「お金のことはいいの。そんなことよりも、どうしてすぐに連絡をしないのっ!今しがた、事情を聞いてお婆ちゃん吃驚しちゃったわっ。三日間も意識が戻らなかったそうじゃないの」
そう言いながら、クラーラはハンカチを取りだすと、涙を拭う仕草をした。
「そうみたいです。本人である私も驚きました。まさか、自転車に撥ねられたくらいで、死線を彷徨ことになるなんて」
「ははは」とヴェラは自嘲気味に笑った。
「転んだって、打ち所が悪かったら、死んでしまうものよ。三軒隣のジョゼフさんなんて、この前、鍬に蹴躓いて、肥溜めに落ちちゃって、見つかった時は溺れ死ぬ寸前だったんだからね」
目元に力を入れて力説するクラーラ。
「うわぁ、肥溜ですか……死んでも地獄、生きても煉獄ですね……」
つい想像をしてしまったヴェラは顔を引き攣らせてそう言った。
肥溜めで溺れ死ぬのだけは絶対に勘弁だ。
ある意味、伝説の人になれるが、やはり、肥溜めで溺れ死ぬのだけは勘弁したい。
「グランマ。私はお腹が空いたので、病室に帰ります。グランマも来るでしょう?」
祖母の分の昼食はない。量は少なくなるが、半分ずつにすれば良い。
大好きで大恩のある祖母には、それくらいはして当然なのだ。
「あらあら、病室に戻ってもお昼ご飯はもうないわよ」
クラーラは眩しいくらいの笑顔でヴェラにそう告げた。
「ん?もう、昼食がさげられる時間ですか?あぁ、それは勿体ないことをしました。朝食も食べてないままだと言うのに、あぁ、二食分の食費がぁ」
ヴェラは、寝坊助な自分を悔いて頭を抱えた。
「あらあらぁ、ヴェラちゃんが起きないからぁ」
「んっ!」
ヴェラの本能が……もとい、観察眼が直感に訴えかけた。
祖母の口周りについている汚れは、口紅ではないと、確信したのは献立表を思い出したからだったが……
「グランマ」
「はぁい」
「お昼ご飯にナポリタンを食べましたよね。病院で出されたナポリタンを‼私が食べるはずだったナポリタンを食べたんでしょ‼」
「いえ、最初は食べるつもりはなかったのよ。でもね、病室で待てど暮らせどヴェラちゃん帰ってこないし、折角のお料理が冷めちゃうしと思って」
「そう思って、食べたんですね」
「一口だけって、思ったんだけどね。一口食べたら美味しくってっ。今時は病院食も美味しいのねぇ。お婆ちゃんが入院した頃なんて、毎食、脱脂粉乳が付いてきて、お料理も粗末で美味しくなかったの。レストランにも負けない味よね、ほほほ」
上品に口元を隠して笑うクラーラ。
決定的な一言は言わないながらも、ナポリタンを食べた犯人はもはや、疑う余地もなくクラーラで決定だ。
祖母の事は大好きだし、大恩もあれば尊敬もしている。だが、食べ物の恨みとそれは別なのである。〈食べ物の恨みは死んでも忘れるな〉多分、クリスティ家の先祖の誰かは家訓にしたと思う。
さて、どうしてくれようか……
「ほら、だって、ヴェラちゃんピーマン苦手でしょ?沢山入っていたわよぉ、それはもう山盛りっ」
ヴェラの危ない視線に気が付いたのか、クラーラは取り繕うように慌てて付け足した。
「ピーマンはとっくの昔に克服しましたっ!どんなに苦くったって、雑草よりは美味しいんですっ‼いくらグランマでも許しませんよっ!」
ヴェラは毛布を脱ぎ捨てると、戦闘モードに移行した。
「ごめんなさいね。突然の電話でヴェラちゃんの事故のことを聞いて、取るものとりあえず、こっちに来たんだけど、ヴェラちゃんの部屋に行っても、冷蔵庫は空だし、夜は怖くてお買い物にも行けないし、今朝も、病院に来る途中でお買い物しようと思ったのよ。でも、最寄りのバス停の周りにお店もなくて、結局、何も買わずに病院にお見舞いに行ったの。お婆ちゃん、お腹ペコペコで……」
「そんなに怒るなんて思わなかったのよ。私の可愛いヴェラちゃんなら、笑って許してくれると思って……本当にごめんなさいね……」
背中を丸めて、懇願するように言うクラーラだった。
「……じょっ、冗談に決まってるじゃないですか。ナポリタンの一皿や二皿くらいで、飛びかかったりしませんよ。なんてったって、今、巷で大人気爆発中の人気小説家の私なのですよっ!」
ヴェラは、祖母に対する激しい罪悪感から、そんなことを言ってはぐらかした。
「冷蔵庫は空だし…」その一言が何よりも心に突き刺さった。
「それはそうと、よく部屋に入れましたね?大家さんは自宅は結構、離れたところにあるので、大変だったでしょう?」
「えぇ、お隣さんに大家さんのことを聞いて、今夜、どこに泊まろうか、途方に暮れていたのよ。もう夜も八時を過ぎていたし。どうしようか考えていたら、キャシーさんって方が、貴方の部屋の鍵を持ってきてくれてね。それで入れたのよ」
「なるほど、キャシーとタイミングよく出会えたんですね」
そうか。そう言うことなら、キャシーに部屋の中を見られていないことになる。ヴェラは内心ほっと胸を撫で降ろして、その日その時、部屋の前に祖母が居てくれた偶然に感謝したのだが、
「キャシーさんってヴェラちゃんのお友達なの?とても礼儀正しくて可愛らしい子だったけれど?そうそう、冷蔵庫に何もないわ。って言ったら、自分のお夕飯用に買ったサンドウィッチをご馳走してくれたのよっ」と、クラーラが笑顔を咲かせて話したのを聞いて、
「えっ、酷い…酷いですよっ!グランマさっき、昨日から何も食べてないって言ったじゃないですかっ、ちゃっかりサンドウィッチ食べてるじゃないですかっ‼」ヴェラは涙を一杯溜めながら猛抗議をした。
「あら……」
しまった。とクラーラは視線を猛抗議するヴェラから外して、口元を押さえた。
「もう救いも何もあったもんじゃないですよっ‼ナポリタンッ!楽しみにしてたのに食べられないしっ!キャシーには一番知られたくない事を暴露されるし、もう私には何も残ってませんっ、人としての尊厳もお昼ご飯もっ‼この報われない時間を返してくださいよぉ……」
悲しいやら、腹立たしいやら、不完全燃焼を起こしながら荒ぶった感情は、どこに投げつけられる訳でもなく。やがて、溢れ出る涙となって吐き出されるしか行き場がなかった。
O
うむ。私は冴えている。
空腹に腹を鳴らしていたとしても、頭脳明晰は健在だ!
病室に戻ったヴェラは、怖いくらいの自分の閃きに身震いをしていた。
「ふふふっ、キャシー、来るならいつでも来るが良いです。万策万端、八面六臂死角なしです‼」
ヴェラはベッドの上に立ち上がり、力強く右腕を突き上げると、瞳の奥をキラキラさせていた。
「ヴェラちゃん、ベッドの上に立つだなんてお行儀が悪いですよ」
水差しに水入れて帰ってきたクラーラが、今にも飛び跳ねだしそうなヴェラを制した。
「うぅ、なんてタイミングの悪い……」
「お行儀にタイミングも何もありません。それはそうと、この綺麗な薔薇はどなたが持ってきてくださったの?」
クラーラは不意に真面目な顔をになって、ヴェラに尋ねた。
これに対して閃き絶好調であるヴェラは、
「私のファンの人が持ってきてくれたものです」と言い切った。
「ヴェラちゃん。お婆ちゃん真面目に聞いているのよ。どうしてそんな嘘をつくの?」
だが、すぐに見破られてしまったので、「あぅ、えっと、事故の関係者の人らしいですけど、ナースが気を利かせて、部屋番号を教えなかったので、直接、姿は見てません」
「そう……」
クラーラは薔薇の花を一本、花瓶から引き抜くと、懐かしむように花びらを優しく撫でた。
「薔薇に思い入れでもあるんですか?」
「薔薇にと言うわけではないけれど、〈この薔薇に〉は思い出があるのかもしれないの。ヴェラちゃん、きっと、この薔薇を届けてくれた人はもう一度、訪れると思うの、もしその時、お婆ちゃんが病室にいたなら、お通ししてもいいかしら?」
「別にいいですけど……?」
首を傾げてみるヴェラだったが、クラーラはそれ以上を語ることはなかった。
「それじゃあ、今日はもう帰るわね。暗くなる前にお買い物もしておきたいし、お洗濯物も干してきたままだし」
「わかりました。昨日の今日で疲れているのに、来てくれてありがとうございました」
「何を言ってるの、当たり前のことですもの。また明日来るわね」
そう言うと、クラーラは小さなハンドバッグを小脇に抱え、病室を出て行った。
窓の外の日は高かったが、後数時間もすれば、薄暗くなってくるのだろう。どうしてだろうか、急に一人に、静かになると、言いようもなく胸の内がざわめいてくる。
一人で居ることが常であるから寂しいはずがない。
一人と独りは違うと言うことなのだろうか……
こんな不安定な気持ちのままでは、夕日はとても見られない。きっと、泣いてしまうだろう。ヴェラは、浅く息を吐くとカーテンを閉め、机に向かうと小説の続きを書き始めたのであった。
待ちに待った夕食を経て、ヴェラは依然として順調に筆を進めていた。それはもう、溢れる創造力を文字として記す左手の不甲斐なさに苛立つほどに。
昨日まで煩悶とした日々は一体なんだったのだろう。既存のザ・ミステリー小説に肩を並べなければならないと、落ち込んでいた日々が馬鹿みたいである。小説のタネもネタも周りにいくらでも落ちているではないか。それを有効活用せずに、別の畑に足を踏み入れるなんて愚の骨頂。アホの絶頂だ。
他の畑を荒らしに行くのは、もっと、地盤を固めてからでも遅くはない。今は極力作品同士が似寄らないように気をつけつつ、自分の得意分野をガンガン押して行けばいい。
「やっほー、来たよーっ」
「こんばんはぁ」
夕食後の一時を経て、窓の外に夕陽が消えた頃、ヴェラがカーテンを開くと同時に、レイチェルとエマが病室を訪れた。
「面会時間ギリギリにわざわざどうもです」
一人と独り。似ているようで意味の異なる〈ひとり〉。こうして、面会に訪れてくれる人が後を絶たないことを素直に喜ばなければならないし、感謝もしなければならない。
ヴェラは執筆の手をとめて、二人に向き直った。
のだが……
「折角、来たのに、そんな言い方ないと思うなー」とレイチェル。
「うん。私もそう思う。ヴェラの為を思って来てるのに、それじゃ、迷惑みたいじゃない」とエマ。
あれ?そんなつもりで言ったつもりはないのに……誤解されてしまっている?
「ちょっ、ちょっと待ってください。私はそんなつもりで言ってません、本当です」
二人の思わぬ、反応にヴェラはしどろもどろになって、それだけやっと言えた。
「そうかなぁ。言葉尻が嫌みっぽかったけどなぁ」
「トゲトゲしてたよっ!」
「うぅ、いや、本当にそんなつもりはなかったんですって、これでも感謝してるんですから、お菓子もお茶もありませんが、とりあえず座って下さい」
半信半疑なのだろうか、エマはじとぉとした目元でヴェラを見ながら、尖らせた口を直さないまま、椅子に腰かけた。
足元に置いた、キャリーバッグが気になったが、まずは誤解を解く方が先である。
「んーっと、どうしよっかなぁ、帰っちゃおうかなぁ」
エマは別にはちゃんと懇切丁寧に誤解を解くとして、ない胸を張って、偉そうにのけ反っているレイチェルはどうしてくれようか、この子の場合は完全に確信犯で間違いない。
「レイチェルは帰っても良いですよ。無理に引き留めるのも心苦しいですし」ヴェラは視線に哀愁を乗せて、レイチェルにさらっと言ってから、何事もなかったのかのように、
「エマはどこかに出掛けるんですか?キャリーバックなんて持って」と尋ねた。
「ちょーっとっ‼今の酷いと思うんだよねっ‼私が帰っちゃうんだから、エマも帰っちゃうんだからねっ‼エマ帰ろっ‼ヴェラなんて放っといて、今すぐ帰るっ!そうだ、帰りに、ピザ食べて帰ろう、厚切りベーコンがずっしりの熱々ピッツァ~、病院じゃ食べられないよねぇ~熱々のピッツァだもんねぇ」
軽くあしらわれたレイチェルが地団駄を踏んで、吠え散らかした。
が、
「これをヴェラに届けに来たのよ。あと、レイチェル、病院なんだから静かにしてよね」
エマもレイチェルを軽く受け流して、キャリーバッグを空けると、見覚えのあるタイプライターを出して膝の上に置いた。
「それって、エマのタイプライターじゃないですか。どうしたんですか?」
「うん、ネイマールから、ヴェラが利き手が不自由で執筆に困ってるって聞いてね。ほら、私は、タイプライター使わなくても手書きできるし」
「ありがとうございます。本当に助かります。左手が想像以上に使えなくて、困ってたんですよ。タイプするだけなら、右手も使えますし、執筆もはかどると思います。でも、実はタイプライターを使ったことがないので、エマ教えてくれませんか?」
「うん。そうだと思って、一様、説明書モドキも作ってきたから。これから、教えるけど。私が帰った後、わからないことがあったら、使ってね。それじゃあ、」
とエマがタイプライターの使い方の説明をはじめようとした次の瞬間、
「だぁっとっ!ふっふっふっ、そうは簡単に行かないのだっ‼さぁ、返してほしければ、力ずくで取り返してみろっ‼」
レイチェルがエマの膝からタイプライターを引っ手繰り、頭上に掲げると、誘拐犯の常套句のようなことを口走った。
「レイチェルは何をしてるんですか。面会時間終了まで時間がないんですから、悪ふざけはよしてください」
「そうよ、レイチェル。今は遊んでる場合じゃないの、ピザなら帰りに買って帰ればいいでしょ?」
レイチェルに対して、大人な対応の二人。
「ちょ、二人してその塩対応はなんなのさっ‼こうなったら、タイプライターぶっ壊して、私も……私は逃げるっ!」
自分は逃げるんだ。ヴェラとエマは二人揃って、意外と冷静なレイチェルに頬を掻いた。
とは言え、タイプライターを頭上に掲げたまま、そんなことを言うレイチェル。レイチェルがレイチェルだけに、冗談とも言い切れず……ヴェラはどうしたものか対応に困った。
一方のエマは、愛用しているタイプライターの危機状況に戦慄している様子である。
んー仕方がない。
あまり気は乗らないが、ここでタイプライターを壊されては本末転倒だ。ここは、自分が大人になるしかない。
「レイチェル、貴方は今、正義を見失っているっ!」
ヴェラはベッドから床に飛び降りると、レイチェルに相対して、凛としてそう宣言した。
「ヴェラ。怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬように心しなければならないんだよ。私はもうこっち側の怪物なんだよね。そうだっ‼我こそは血も涙もない怪物レイチェルなのだぁ!わーはっはっはっぁ‼」
むっ。大人の対応をするつもりでレイチェルのペースにのったのだが、その台詞を言われては……その台詞を言われてはっ‼
「ふっ、レイチェルが怪物と言うのであれ、私はそれを統べる魔王にでもなりましょうか。忘れていませんか、我が右手に宿りし大いなる力の事をっ‼」
そう言いながら、ヴェラは不敵に笑うと、右腕を突き出すと、滑らかに指を動かし拳を作り、
「あーはっはっはっはっ!これぞ、世界を滅ぼす封印されし右腕なりっ‼」と高笑いを上げた。
「うぐっ、そっそれは、世界を破滅に導く伝説の……伝説のロケットパンチ……」
レイチェルは額に汗を浮かべて、半歩、後ずさった。
「えぇ、世界を破滅させるの、ロケットパンチなの?ねぇ、レイチェルもヴェラもそろそろやめようよぉ」
おっかなびっくりエマが口を挟んだが、二人の世界にその声は届かなかった。
「行きますよ怪物レイチェルっ‼おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくお前を見返すのだぁ‼」
ヴェラはそう言い終わる前に、両足に力を込める。左手をギプスに添えると、発射体制を整えた。
タイプライターを胸の前に構え、来る攻撃に備えるレイチェル、ヴェラの中でカウントダウンがゼロに迫る。
もうここまで来たら、誰にも止められない!タイプライターが壊れてしまうかもしれないが、それも仕方がない。
発射っ‼
ヴェラが両足にそう命令したその刹那、
「ちょっとっ!もう面会時間はとっくに過ぎてますよっ!あと、病室では騒がないっ‼」
突如として、ドアから現れたのは、昨日、ヴェラとレイチェルとの間に勃発した戦争を瞬く間に鎮圧した、恰幅の良すぎるナースであった。
低く平静を装った声とは裏腹に、額には青筋が浮き出ている。
オーバーロードの出現により、レイチェルとヴェラの間に再度勃発した幼稚な争いは、争いとしての体をなす前に再び鎮圧されてしまったのであった。
「「イ…イエス、マイロード……」」
二人してそう呟いた。
ヴェラは右手を静かに下ろした。
レイチェルは、ゆっくりと、タイプライターを机の上に置いた。
「何ですって?」
「「ごめんなさいっ!」」
二人して、全力で頭を下げた。
「ったく、仕事を増やさないでっ!」
泣きそうな二人を順番に見てから、オーバーロードは病室から出て行った。
「うへぇ、やばかった……」
「今度こそ、殺られると覚悟しましたよ」
二人は、魂が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。
「もう、また怒られちゃったじゃないっ!私、何も悪いことしてないし言ってないのにっ!」
「ふっ、エマったら一蓮托生に決まってるじゃんか」
レイチェルは脱力しながらもヘラヘラと乾いた笑い声をあげた。
「ヴェラ、これ説明書き置いとくからね。レイチェル早く帰りましょ、長居してたら、またあの人に怒られちゃう」
エマはよほど、堪えたと見えて、メモ紙の束を机の端に置くと、レイチェルの手を取って出入り口へと足早に向かう。
そして、ドアを開けてから、
「明日も、来るから、またねヴェラ」とエマが早口に言い、「まったねぇー」とレイチェルが言うと、ドアが閉まり、また病室に静寂が訪れた。
「嵐の如くとは言いますけど、これまさにですね」
窓から、駆け出してくる二人の姿を見ながらヴェラは、その姿を微笑ましく見送った。
そして固く誓ったのである。
次からはミイラ取りがミイラにならないようにしよう。と。
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