Ⅲ 破滅の使者で救世主で

 

「もうっ、病院から電話があった時は、コーヒー吹き出しそうになったじゃない!」


 宵の口前、キャシーがお見舞いに来てくれた。


 丁度、お隣さんに頂いたカヌレを食べているところだったので「一ついかがですか?」と進めると、


「あなた……本当に打ち所が悪かったのね……」と、キャシーにとても心外な心配のされ方ををされた。


「いらないなら、あげません。私が食べるまでです。相変わらず、人の優しさのわからない人ですね。そんなだから、いつまで経ってもエマに嫌われたままなんですよ」


「なっ!ちょ!なんでエマの話が出てくるのよっ‼そっ、それに、エマには嫌われてなんてないんだから。けど……その…、エマが何か言ってたりとか?」


 可愛いなぁ。とヴェラは顔中を真っ赤にしているキャシーにもう一度、カヌレを差し出した。


「心配しなくても、私は何も聞いてませんよ。あくまでも私は」


「あによ、その含みを持たせた言い方っ!」


 キャシーはそう言いながら背負っていたランドセルを床に置く。すると、フローリングの床が軋んだ。


「気になってたんですけど、なんなんですか、その頑丈そうなランドセル?そして、どれだけ詰め込んでるんですか⁉床が軋みましたよ……」


「あぁ、これ?このランドセルは、曾祖父の形見でね。曾祖父が戦争の時に工兵だったらしくて、このランドセルに工具はもちろん、弾薬からニトロまで入れてたらしいわ。だから、丈夫だし、防水だし何より、お弁当も書類も一緒に入れられるところが気に入ってるのよね」


 「ちょっと、重いけど」と続けて言ったキャシーの足元にある歴戦のランドセルは、なるほど、所々修繕が施されてあるのがわかった。


「そう言えば、エマとレイチェルに連絡してくれたのはキャシーですか?」


「えぇ、そうよ。ひょっとして、二人来たの?主にエマが来たの?」


「はい。二人揃ってお見舞いに来てくれましたよ」


 ヴェラがそう言うと、急にキャシーがそわそわしだしたので、「お昼過ぎの話ですよ」と付け加えて言うと「べっ、別にエマがいつ来たって私には関係ないもの」と言いつつ、露骨に肩を落としていた。


「そう言えば、どうして、キャシーのところ電話がいったんでしょうか?私は事故から、今朝まで意識がなかったようなので、連絡なんてできませんでしたし、そもそも、キャシーの電話番号を知らないのですけど」


「スカートのポケットに名刺が入ってたらしくって、身分証明書もないし、とりあえず、そこに連絡とってみたら私が出たってわけよ」


「あぁ、そういう事だったんですね。エマ達が帰った後から気になってたんですよ、誰がどうやって連絡したんだろうって。真実は小説よりも奇なり。ふむっ」


 ヴェラはしみじみ何度も頷いた。


「そんなことよりも、骨折以外、どこも痛いところとかないの?主に頭とか?」


「この通り、大丈夫ですよ。自転車ですよ。自転車ごとに三日間も意識を持ってかれて、挙句の果てに商売道具の右腕まで粉砕されてしまって。ふっ、自転車に人生までもってかれてしまいましたよ」


 ヴェラは自嘲して力なく笑った。自転車にやっと掴んだ成功も、一握りの希望も全部、全部持っていかれてしまった。

こんなことなら、いっそ、意識を失ったまま一生眠り続ければよかったのに!そんな言葉さえ喉元まで出かかってしまった。

 キャシーに泣き言を言っても、八つ当たりをしても仕方がないとわかっているのに。


「何言ってんのっ。自転車だって、立派な車両なんだからねっ!ひき逃げした犯人は私が必ず捕まえてあげるから。ヴェラは心配しないで、執筆に集中したらいいわよっ。一昨日、から編集部の連中が私のとこにヴェラの居場所を知らないかってしつこくて、しつこくて、今日なんてマグカップ投げてやったわよ」

 

鼻息を荒くして話すキャシーはいつの間にか腕組みをしていた。

 ヴェラは、犯人が捕まっていないことを知った。そして、編集部が自分の入院の事を知らないことを知った。そして、腕組みをしても強調されないキャシーの胸元を見て、なんだか安心した。


「うへぇ。キャシーお願いです。編集部には入院のことは言わないでください。押しかけられたって、こんな腕じゃもう書けませんし……」


 ヴェラは苦笑しながらそういうと、右腕にまかれたキプスでベッドの手すりを何度か叩いて

みせた。


「はぁ?」


 キャシーは驚いたように、目を見開くと身を乗り出してから眉間に皺を作った。


「なんですか、急に変顔選手権の予選開始ですか。生憎、私のこの整った顔は崩そうとしてもそう簡単には崩せないので、他を当たって下さい」


 ヴェラはそう言いながら、おぞましい物でも見るような視線と共にのけ反ってキャシーから距離を取った。


「だっ!誰が、変顔選手権の予選なんてするかっ!」


 キャシーは、耳まで顔を赤くして、椅子に座り直すと、コホンッと前おいてから、


「右腕が使えないくらいでなに、ヘタレたこと言ってんのっ!右手がダメなら左手で書けばいいっ!左手がダメなら口でも足ででも書くっ!それが、文章を生業にする者の覚悟ってもんでしょ!何、それじゃあ、雨が降ってるから雪が降ってるからって郵便配達が休んだりするの?路面が凍ってたって新配達は一番寒い時刻に配達して回ってるのよっ‼」


 今までに見たことがないキャシーがそこに居て、その人はとても熱く真剣で暑苦しく、そして極めてウザかった。


「わっ、私はっ!」


 いつもみたく、とにかく反論してやろうと口を開いたのだが、この時は珍しく、一言も毒舌が出てこなかった。


「事故のショックもあると思うけど、連載作家の椅子だって競争激しいんでしょ?それに、聞いた話じゃ、書籍化も決定してるそうじゃない。こんなチャンス、きっともう一生巡ってこないんだからねっ。死んでも書かなくちゃ」


「死んだら書けませんけどね」


「屁理屈禁止っ!はい、これ原稿用紙。私のやつだけど下書きくらいにはなるでしょ?それから、この万年筆は大切な物だから大事に扱ってよね。壊したら……滅すっ」


 そういうと、キャシーはランドセルの中から、まっさらな原稿用紙の束を机の上に置くと、その上に万年筆を一本乗せた。

 目がマジだったので、ヴェラはそんな物騒な物、置いて行かないでほしいな。そう思った。


「それから、部屋の鍵を出すっ!必要なもの取って来てあげるから」


「えぇ、いえ別に大丈夫です。入院着は病院の貸し出しのやつですし、お風呂セットも貸してくれるそうなので」


「下着は?いくら動かないからって、女の子なんだから下着は毎日替えないと駄目だし、ヘアブラシだっているじゃない。あと、鏡も」


「いえ、ですから、大丈夫ですから」


 と食い下がってみたヴェラだったが、結局、キャシーに押し負けて部屋の鍵を渡してしまった。

 「今度来るときは、下着とかの他に何か美味しい物持ってきたげるから、楽しみにしてなさいねっ」と言い残し、キャシーは足早に病室を出て行ってしまった。


「むー」


 相手がキャシーでも、恥ずかしい。

何が恥ずかしいって、何も無さすぎる部屋の中を見られるのが恥ずかしい。

ヘアブラシも無いし、鏡もない。下着だって二セットしか持っていない……


「あうぅ」


ヴェラは、久しぶりに恥ずかしさ余って、頭を抱え、そのまま枕に顔を埋めた。  

 そのまま、枕に顔を押し付けウリウリしたりしながら、ヴェラはキャシーが次に見舞いに訪れた時、なんと言い訳をしようかと必死になって考えていた。

 貧乏だと悟られないようにするのは、どう言い繕えばそう思われずに済むだろうか。

 近々、引っ越す予定だから……と言えば、引っ越し先を聞かれるだろうし。

いっそ、架空の同居人でも創造しようか……冷蔵庫の中身が空の理由にはなっても、二人分にしては圧倒的に衣類が少なすぎる。

致命的なことに、靴も無ければ洗面所に歯ブラシを一本しか置いていない。


「(帰ったら、歯ブラシをもう一本出しておこう)」


 そんなことよりもっ!


 そうだ、引っ越ししてきて、まだ荷解きを終えていないことにしよう。


うむ。それが良い。そうしよう……って!部屋のどこにそんな荷物があるんだあぁっ!


「(帰ったら、ダミーの段ボール箱を何個か部屋に転がしておこう。煉瓦でも入れて〈開封厳禁〉と書いて封をしておけば、開けられる心配もないだろうし)」


 そんなことよりもっ!


 ヴェラは、足をジタバタさせて悶々とした。

 そもそも、条件が厳しすぎる。空の冷蔵庫に、数枚しかない下着、そして一枚しかない外着。後は、机以外には書籍が散乱している以外に、家財道具が何もないこと。

 これらを網羅していて、さらに、キャシーを納得させる理由で無ければならないのである。

 そんなの無理ゲーだ。


「(詰んだ……)」

 

ヴェラはバタバタさせていた足を力なくシーツに並べると、息苦しくなってきたこともあって、


「ぷはぁっ」と枕から顔をあげた。


 すると、 


「こんばんは」


 そこには、リンゴの皮を剝いているネイマールの姿があった。

 

「ネイマールさん、こんばんは。えっとですね。その、一日中寝ていると体が鈍るので、それでその、ドルフィンキックの練習をしてたんですよ」


 ヴェラはなぜか、ベッドの上に正座をしてネイマールに挨拶をした。


「あらあら、元気そうでよかったわ。最初、キャシーちゃんから、意識不明だったって聞いて驚いたんだけど、私もそうだったけど、キャシーちゃんもすごい心配していたのよ」


 そんなヴェラを見て、ネイマールは果物ナイフを携えた右手を頬にやって、静かに微笑んでいる。

 ヴェラはネイマールが苦手だ。レイチェルやエマ、キャシーは表情から大体何を考えているか推測ができる。だが、ネイマールに関しては全く何を考えているのかが窺い知れない。

 邪悪な人間でないことはわかっているものの、得体がしれないという点で、どうしても構えてしまう。


「そーですか、そーですかっ。キャシーが大袈裟に騒いだだけですよ。もう、相変わらずあの人は大袈裟なんですからっ」


 ヴェラは即座に正座を胡坐に組み直して、腕組みをすると、まんざらでもないと言わんばかりのドヤ顔でネイマールに言う。

 誰かに心配されるのは悪い気がしない。


「はい、林檎。今日、お得意様から頂いたの。蜜がたくさん入っていてとてもおいしそう」


「ありがとうございます。頂きます」


 遠慮なくヴェラは林檎を抓むと、そのまま口へと運んだ、シャリシャリした食感と林檎とは思えないほどの甘さに、ヴェラはつい、何切れも抓んでは口の中いっぱいに頬張ってしまった。


「こんふぁに、ほぉふぃひぃひぃんごは……んっ、はじめて食べましたよ」


「よかったぁ。まだまだあるから、何個か置いて帰るわね」


「すみません、ネイマールさんがもらった物なのに。でもそう言ってくれるなら遠慮なく頂きます」


「えぇ、沢山もらっても食べきれないもの。残りも食べてね。さっき、お夕飯頂いたところだから」


「そうですか、林檎は早く食べないと黒ずんでしまいますからねっ。そういうことなら、いたふぁひぃまふ」


 そう言って、ヴェラが残りの林檎をむしゃらむしゃらとやっていると、不意にネイマールが、


「ヴェラちゃん。締め切り間に合いそう?」と聞いてきたので、ヴェラは動揺して林檎を喉に詰めてしまった。

「うぐぐうぬ」と胸を必死になって叩くヴェラに「はい。ヴェラちゃんお水っ」とネイマールが手際よく、水差しから注いだ水の入ったコップを渡してくれたので事なきを得た。

 

「それがその、この手なもので……」 


 ヴェラはバツが悪そうに一つだけ残った林檎を見つめながら、呟くように言う。

 チラリとネイマールの挙動を見やるに、ネイマールはどこか遠くを見るように机の上を見つめていた。

 その物言わぬ横顔をヴェラは直視できなかった。


「あの原稿用紙と万年筆、キャシーちゃんが置いて行ったの?」


「はい。その通りです……?」


「思い出すなぁ。キャシーちゃんね。取材中に車に轢かれたことがあってね。手首と足と骨折しちゃって、入院したことがあったのよ。事故の時に、お気に入りの万年筆を無くしてしまって、すごく落ち込んでて、そんなのキャシーちゃんらしくないって思ったから。私、万年筆をプレゼントしたの」


「え……じゃあ、まさかこの万年筆ってネイマールさんがプレゼントした物だったり?」


「うん、そう。「病人に鞭打つなんて、ネイマールは鬼よ」って、散々言われたんだけど、キャシーちゃんとっても嬉しそうだった……松葉杖ついて、取材に出掛けてたわね、とても痛々しかったけど、頑張り屋さんのキャシーちゃんらしくて素敵だった」


 うっとりとどこかに視線を向けながら、一人で悦に入るネイマール。

 その視線の端っ子でヴェラが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


「ヴェラちゃん、私ね。キャシーちゃんが、その万年筆を置いて行ったのにはきっと、意味があると思うの」


 そう言って、窓の外を一瞥したネイマールは、もう一度優しく微笑むと徐に立ち上がり「それじゃ、また来るわね」といい香りを残して出入り口へ向かって歩いて行ってしまった。


「そんなこと、言われなくたってわかってますよ。二人ともバカにしすぎです」


 ヴェラはベットを降りて、机の前に腰かけてから真っ新な原稿用紙を一枚手前に引き寄せ落ち着かせた。

 次に、キャシーが置いて行った万年筆を左手に取り、何とか右手でキャップを引き抜いた。

 試しに、左手で持ってみたが、やはり違和感しかないし、右指と違ってペン胼胝がないから、万年筆が滑るようで書きにくい。

 というか……


「うおぉっ、これじゃ、象形文字の方がまともな字に見えるじゃないかっ‼」


二人羽織りをして書いたらこんな字になるかもしれない。何文字か書いてみて、ヴェラはすぐに挫けてしまった。

 とは言え、下書きくらいには……せめて、新作のプロットを少しだけでも……この際、ネタだけでもいい……

 とにかく、何かを書くことにした。

 思えば、何をヘタレたことを言っていたのだろう。骨折を理由にすれば、締め切りを伸ばしてもらえるかもしれないと思っていたのだろうか?思っていたと言えば、それは否だ。だが、期待をしていたと言えば……否定はできない。

 キャシーが言っていたことは事実だろう。今自分が投げだしたとしても、別の作家と首を挿げ替えられて、自分はお払い箱になるだけ。

 連載の日の目を求めて足掻いている作家なんて、救いを求める亡者のごとく、ごまんとひしめいていて、チャンスがあれば、連載を抱える作家の足を掴んで引きずり降ろそうと虎視眈々と狙っているのだから……

 つい数ヶ月前まで、ヴェラはこの亡者の中の一人だった。

 運か実力か、とにかく、一筋の蜘蛛の糸に掴まることができて、今はまだ雲の上に居て、なんとかしがみ付いているのだが……

 不運な事故の憂き目遭い、加えて、自ら投げ出そうとしている現状では、雲の端に腰かけて足をブラブラしている状況に違いない。

 後は、足を掴まれたなら、はいそれまでよ。


 掴む側が掴まれる側に回った。ただそれだけ……


「むぅ」


 それはとても面白くない。ヴェラは原稿用紙を筆先でつつきながら、眉間に皺を作って唸った。

 引きずり降ろすのに文句はない。だが、引きずり降ろされるのは胸糞悪いったらない。

そんなことをされたなら、きっと発狂して、よからぬことを世界規模でやらかすに決まっている。

 うん。その自信がある。 

 では、書かなければならない。


今日という日の奮闘が、やがては世界の平穏に直結しているのだから……



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