Ⅱ 籠の鳥のポルカ
とにかく、暇だったヴェラは、配られた献立表を読み返しては明日の昼食がナポリタンである事実に溢れる涎を裾で拭った。
ピーマンが嫌いだったヴェラは幼い頃からずっとナポリタンが苦手だった。だが、ロンドンに出て来て、食うや食わぬやの日々を過ごすうちに、あれほど忌み嫌っていたピーマンをも食べられるようになってしまった。
空腹とは最上の調味料と言うがそれ如何に。である。
ピーマンを克服したヴェラにとってはナポリタンはすでに、五本の指に入るほどの、好物へと昇り詰めている。
明日の昼食がとにかく楽しみで仕方がない。
窓際には深紅の薔薇が飾られてある。その薔薇を見て担当編集に連絡をしなければならないことを思い出した。だが、持ち合わせの無いヴェラには電話を掛けることができないし。まだ、安静にしていないといけないから、病院から出掛けることもできない。
事情を話せば、電話を貸してもらえるだろうか……
「あぁ……」
少し焦って考えてみたものの、考えてみれば、いつも編集部から電話かかってくるのであって、ヴェラから掛けたことがない。
従って、ヴェラは電話番号を知らないのだ。
名刺をもらった気もするが……
「えっと、鼻紙に使ったっけ……」
ちり紙が切れていたので、名刺で鼻をかんで捨ててしまったことを思い出した。
なので、結局はお手上げである。
「はぁ」
人生万事塞翁が馬。
やはり、自分にしては話が出来過ぎていた。気まぐれな投稿で新聞連載の仕事を貰えて、その連載に人気が出て、書籍化が現実になって……
自分自身でも夢ではないだろうか。と、思っていたが、こんな結末が待っていようとは……神様とやらが本当に存在して、試練の名の元に人の人生を弄んでいると言うのであれば、ロンギヌスの槍とか神殺しの最強魔術とか、とにかく何かで仕返しをしてやりたい。いいや、してやろう。
一番大切な時に大切な商売の道具を骨折してしまった。これでは執筆ができないから、締め切りを守れない。つまり、連載に穴を空けることになる。
そうなれば、即、連載は打ち切りで私はお払い箱になってしまう。
連載担当になって、編集長に挨拶に行った時、明確に忠告されたし。前任者も二回穴を空けてクビになったらしい……
「代わりなんていくらでもいるんだからな、精々、このチャンスにしがみ付くことだ」
洗礼のように言われた、この言葉は果たして激励だったのか警告だったのかわからない。そもそも、誰に何を言われようと、物書きで給料がもらえると言う現実に私は完全に舞い上がっていたのだった。
女手一つで、育ててくれたお母さん。事あるごとに、将来は、「教師になりなさい」と本を沢山買ってくれた。
読書が好きだった私はお母さんが買ってくれた本を夢中で読んだし、お母さんが買ってくれない、娯楽小説はお婆ちゃんが買ってくれた。
本を読むうちに、私は自分で物語を書きたくなった。いいや書いた。お母さんに見せると、「こんなものを書いてる暇があったら、勉強をしなさい」と読まずに捨てられた。
落ち込んだけれど、書くことが好きだったから、今度はお婆ちゃんのところへ持って行った。すると、お婆ちゃんは「ヴェラちゃんは将来、小説家になれるねぇ」と頭を撫でてくれた。
私は、この時はじめて〈教師〉以外になって良いんだと思った。
だから、私は小説家になることにした。人見知りの私が教壇に立てるわけがない。そう思ったのもあったが、大好きな物語を書くと言う事を仕事にできたら、どんなに幸せだろう。単純にそう思ったからだ。
もちろん、お母さんは猛反対をされたし、私がしつこく食い下がると、お母さんに頬をぶたれた。
はじめてだった。
次の日、学校から帰ると、隠しておいた、執筆途中の原稿と娯楽小説が全てなくなっていた。
お母さんを問い詰めると「必要のない物は処分しました」と一言だけ言われて、後は何を言っても無視を決め込まれた。
激高した私は、食器棚から母が大切にしていた、マイセンの大皿を取り出すと、床に思い切り叩きつけた。
ものすごい音がして、大皿の破片が床に四散した。
また、ぶたれると覚悟していたけど、お母さんは悲哀に満ちた表情で私を一瞥して、すぐに破片を片付けはじめた。
私は、居た堪れなくなって、その日の内に、身の回りの物をリュクサックに詰め込んで、雪の振りしきる中、お婆ちゃんの家に行った。
怒ってくれた方が良かった……ぶってくれた方が良かった……あの時のお母さんの表情が私をとても苦しめた。
お婆ちゃんは、雪と涙でぐしょぐしょになった私を、抱きしめてくれた。そして、訳も聞かずに、家に泊めてくれた。
それから、私はお母さんの家に帰っていない。
いつまでも、おばあちゃんは何も聞いてこなかった。それが気持ち悪くなった私が我慢できずに、お婆ちゃんに夢のことを話すと「ヴェラちゃんの思う通りにしてごらんなさいな」と言ってくれた。
だから、私は夢を追うことにした。
先生にも笑われたし、クラスメイトにもバカにされた。それでも、私は私の夢の為に、煙突掃除から食用カエルの捕獲まで、掛け持ちでアルバイトも頑張った。「最後にほくそ笑むのは私なんだっ‼」と自分を鼓舞して頑張った。
卒業間近になると母が頻繁にお婆ちゃんの家にやってきて、私の事でお婆ちゃんに色々と酷いことを言っていた。でもお婆ちゃんは最後まで私の見方でいてくれた……
卒業と同時に、ロンドンにやって来て、自分の追っている夢がどれだけ、無謀で儚いものであるかを知って挫折した。
お婆ちゃんからの仕送りの申し出を断って、自分の貯金だけで生活をはじめたけど、みるみる内に、貯金が減って行った。なのに、執筆は全然できなくて、もう、田舎に帰ろうかと何度も思った。でも、私を信じてくれたお婆ちゃんの為に簡単に諦めるわけにはいかなかったし、郷里で私のことを笑った教師とクラスメイトどもに、見返してやるためには、奴らの前で腹の底からほくそ笑んでやるためには、引くに引けなかった……あと、割ったマイセンの弁償もしたかったし……
ロンドンに出て来て2年目の春、ついに蓄えも底をつき、目ぼしいアルバイトも軒並みクビにされ、冷蔵庫が空になって、電気とガスが止められ、いよいよ水道も止まると言う、窮地にあって、ポストに入っていた一枚の封書が私の人生に光明をもたらした。
それが、アミューズブーシュ新聞社主催の小説コンテストの入賞通知だった。
「はぁ……ぁ」
悲惨の過去を思い越せばこそ、この成功目前での事故はヴェラにとっては、人生そのものの破綻を意味していた。
不安定ながらも、小説家としてなんとかやってきたここ数ヶ月。単行本が発売されたら、イの一番にお婆ちゃんに、本を添えて、報告の手紙を書こう。そう思って、その手紙が書ける日を楽しみにしていたと言うのに、よりにもよって自転車に轢かれたくらいで、全てを失いことになろうとは、想像力豊かなヴェラでも予想はできなかった。
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