Ⅰ 薔薇の送り主

 

 ヴェラはベッドの上に座って、窓の外に広がる川のある風景を眺めていた。

 

土手の上を歩く親子の姿、釣りに興じる老人。犬の散歩をしている婦人に中年ジョガー。こんな何気ない光景さえも病室から眺めるとこんなにも羨ましい世界に見えるんだ。

まさか、自分が土手を通る時に時折、見上げていた病院の中から、外界を見下ろすことになろうとは……


「ふっ」


 自嘲気味に笑ったヴェラはベッドに横になると、ズシリと重い右腕を持ち上げて、私のくせにそんなにうまく行くはずがない。天井に翳したギプスの巻かれた右腕を見て、もう一度、自嘲気味に笑うのである。

 それはほんの一瞬の出来事だった。生クリームのせのプリンを片手に道端を歩いていたら、突然、目の前に自転車のような物が現れ、気が付いたら、病室のベッドの上に寝ていた。

事故に遭ったらしく、その時に右下腕を骨折してしまったようだ。 


どうやら自転車に撥ねられたらしい。


 らしい。と言うのはヴェラ本人が覚えていなからである。

薔薇の花と、体がふんわりとした感覚と空の青さは覚えているものの、その先の記憶が一切なく、次に意識を取り戻した時にはすでに病院のベッドの上だった。

 ドクターの話では打ち所が悪かったようで、三日間ほど、死線を彷徨っていたらしい。


「はぁ」


 それにしたって、相手が自転車って……ヴェラは大袈裟に、ため息を吐いた。相手がトラックなら恰好がつくし、トラックに跳ねられて腕の一本くらいで済んだのなら、それはそれで武勇伝になる。

 よしんば、三輪自動車でもまだなんとか高らかに誇れるだろう。

 最悪、オートバイでも……


「ふっ、自転車って」


 重いギプスを巻いた腕で宙に円を描いてみたりして。

すると、右腕をハンマーにでも改造されたようで、なんだか強くなった気持ちになるから不思議だった。

 とは言え、自転車に轢かれた挙句、商売道具である右腕を持っていかれて、三日も死線を彷徨ったなんて、恥ずかし過ぎて誰にも言えやしない。

 特にレイチェル達には言えやしない。馬鹿にされるに決まっている。

 ヴェラは絶対にレイチェル達には教えないでいよう。そう決めたのであった。


 だから、昼食を食べ終わった辺りで、エマとレイチェルが見舞いに訪れた時には冷や汗が止まらなかった。


「ヴェラ、具合はどうなの?今朝、キャシーから電話があって、本当に驚いたんだから、押しかけて迷惑になったら駄目だから、ゆっくりにしたんだけど。さっき、詰所で三日間も意識なかったって聞いて、さらに驚いたわよ」


 声のボリュームを押さえる代わりに、手振りを大袈裟にしてエマが言った。

 どうやら、エマは本当に自分のことを心配してくれていたのだと、嬉しくなった。


 一方、


「ヴェラ、元気そうだよね。エマが血相変えて「ヴェラが交通事故に遭って入院した‼」って騒ぐもんだから、てっきり、集中治療室とかに入ってるのかと思ったのにー、ちっ」


レイチェルはいつも通りヘラヘラしていた。


「今、舌打ちしましたねっ⁉なんですか、それじゃ、もっと包帯グルグル巻きだった方が良いって言うんですか⁉」


「うんっ‼」


「この子は、やっぱりアホな子です!どうしようもないアホな子です‼」


 喜色満面と頷いたレイチェルにヴェラが尽かさず噛みついた。


「それだけ、元気があれば大丈夫だねっ!」


「ズルイですよレイチェル。そう言う風に落とされると、私がアホな子みたいじゃないですか」


 ヴェラがいつも通りレイチェルに噛みつくと、レイチェルは悪戯な笑みとは別な安堵の笑みを浮かべながらそんなことを言うのである。

 もしかしたら、レイチェルはレイチェルなりに心配してくれていたのかもしれない。

 そうなると、少しでも邪険に思った自分が恥ずかしい。


「もう、レイチェルってば、素直じゃないんだから」


 エマは呆れた様子でそう言いながらも、いつも見たくレイチェルに強くツッコミを入れることはなかった。


「クリスティさん。お花が届いていますよ」


 束の間の沈黙があった後、そう言って、深紅の薔薇の花束が収められた花瓶を抱えたナースが病室へやって来た。


「えっと、誰からですか?こんな立派で綺麗な薔薇をくれる人だなんて」


 編集からだろうか?ヴェラは薔薇を送ってくれそうな相手を思い浮かべて、えらいことを思い出した。


「なんでも、事故の関係者らしいですよ」


 窓際に花瓶を置きながらナースが短く答えると、レイチェルが、


「それって、さっき詰所のところに居た爺ちゃんですか?茶色のベスト着てた」と身を乗り出した。


「そうそう、その人よ。ヴェラさんに直接渡したいと言われたのだけど、親族でも友人でもなかったから、部屋番号を教えなかったんです。そしたら、せめて花だけでもって」


「なるほど、そう言うことですかぁ」


 部屋を出て行くナースの背中を見送りながら、なぜか、レイチェルはニヤニヤしている。


「あぁ、エマ。心配してくれてありがとうございます。隣でニヤニヤしてるレイチェルが気になるところですが、お礼が遅くなってしまってすみません」


「へっ、いいのよ。そんな、どうしたの?ヴェラ……」


「どうしたも、こうしたも、ないですよ?」


「いや、元気な時のヴェラって、その、そんな殊勝な感じだったかなって。打ち所が悪かったって聞いたから、頭をその……」


 上目使いでそんなことを言って来るエマ。


「私の感謝の気持ちを返してください。そして、私の素直な気持ちも返してください!」


 ヴェラは渋い顔をしてため息交じりにエマにそう言うと「あっ、うん。ごめんねっ、ほっとした」となぜかエマが嬉しそうだった。


 日頃の私はそんなに傍若無人だろうか……ヴェラは首を捻りながら、少し考えてみたが、すぐにそんなことはない。と何度か頷いてから、そう結論を出した。


「それで、レイチェルはさっきから何をニヤニヤしてるんですか。花をくれた人とは本当に面識がないですし、レイチェルが妄想してるような爛れた関係はないですよ」


 レイチェルのことだからどうせ、ありもしない妄想話を実しやかに捏造しようと企んでいるのだろう。そう思った。

そう思ったのだが。


「自転車にぶっ飛ばされるとか、プププッーッ」


「なっ!なんでそれをレイチェルが知ってるんですか⁉」


 そう来たかっ!ヴェラの恐れていた通りになってしまった。だが、その情報源がわからない。レイチェルは誰から聞いたのだろうか?

まだ、事故の事は誰にも話していないと言うのに。


「さっき、詰所ですったもんだしてた爺ちゃんがね、しきりに「……自転車に飛ばされた女の子だっ」ってくってかかってたんだよね。薔薇の花束持ってたから柄じゃないなーと思って見てたんだけど。ヴェラってそんなに軽いの?自転車にポーンって飛ばされるくらいに(笑)」


「(笑)やめいっ!自転車だって立派な車両なんですからねっ!物によれば、百キロくらい出るのだってあるんですからねっ‼」


「えっ、自転車ってそんなに出るの⁉」


 エマが変なところに食いついたので、レイチェルに畳みかけることができなかった。


「いえ、言い過ぎました、百キロは出ないかもしれませんが、人を傷つける凶器になりうることは確かです」


「だよねぇ~。ヴェラはポーンって飛ばされたもんねっ。ポーンって(笑)」


「だからっ(笑)をやめろぉおーっ‼」


ヴェラは立ち上がるとレイチェルに、掴みかかった、だが、右手が使えない悲しさか、右手よりも非力な左手の握力ではレイチェルを捕縛しておくことができず、すぐに逃げられてしまった。

もちろん、追いかけるヴェラ。


「ちょっ、ちょっと二人とも何してるのよっ!」


その後をエマが慌てて追いかけた。

 

一分後……

 

 ヴェラは再び静寂に包まれた病室の中で独り、窓の外の風景を見ていた。

病室を出てすぐに、三人してナースにすごく怒られ、ヴェラは病室へ連行され、エマとレイチェルはそのまま帰ってしまった。

「離して下さいっ!離してっ!離せぇ!」と後ろ首を掴まれ、病室へ連行される最中、諦の悪いヴェラは渾身の悪あがきをしてみたが、そのナースにはまったく歯が立たなかった。

 

「仕事を増やさないでもらえますか」


 掴みあげられ、無理やりベットの上に座らされたヴェラに、ナースが優し気に言う。だが、ナースの瞳には明確な殺意が見て取れた……


「ごめんなさい……」


 ヴェラは本能的に悟った。この人に逆らってはいけないと……


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