ウィスパー寄稿文店主の憂鬱 Ⅳ ~ 紅茶一杯ほどのロマンス ~

畑々 端子

プロローグ

 

「ガウッ!ガルルルゥッ‼」


「かっ、噛みついたら、いくらレイチェルでもグーでなんだからねっ!」


 開店前の一時、キッチンのテーブルを挟んでにらみ合うレイチェルとエマ。

 その眼中に光るのはテーブルの上に置かれた、たった一つの生クリームのせプリン。

 プリンを欲するのは二人。なれども、プリンは一つ。今まさに、プリンを巡る戦いの火蓋が切って降ろされようとしていたのだった。


「エマ。空腹は争いの口実になると思うんだよね。甘い物だと戦争の口実にもなると思うんだよねっ」


 今にも飛びかからんとする姿勢のままレイチェルが言う。


「おかしいでしょ⁉明日の朝、一緒に食べようねって言ったのに、我慢できなくて、昨日食べちゃたのレイチェルだし、そもそも、このプリン買って来たのも私じゃない‼」


 涙を浮かべながら、握りこぶしを振り上げたままのエマが唇を噛んだ。


「私は今を生きてるんだよ。過去は振り返らない‼」


 レイチェルは瞳をギラつかせながら、そう言い切った。


「言い切ったら良いってもんじゃないでしょっ‼さっきだって、私の分のパンケーキも食べたばかりじゃない‼」


「エマだって、コーヒーお代わりしてたでしょっ!」


「コーヒーでお腹膨れないし、大体、レイチェルはコーヒー飲めないでしょっ‼」


 締め切り間近かの紙面とは別の、地域誌に掲載する原稿は終わったのだが、なんとなく帰るのが面倒になったエマは、明日の朝食用にマーマレードジャムとパンケーキを買いに出かけ、その帰りに、この界隈で有名な洋菓子店で二時間も並んで生クリームのせプリンを手に入れたのである。

 明日の朝食の為に、パンケーキもプリンもちゃんと二人分買って帰った。

 

 なのに、レイチェルはパンケーキもプリンも夕食の後に食べてしまった。


 目の前で美味しそうに、とても幸せな顔をしながら、ロシアンティーを片手にパンケーキとプリンを食べるレイチェルを見ながら、それでも、明日の朝の楽しみにと食欲に打ち勝ったエマだった。

だから、朝起きて、レイチェルが残りのパンケーキを食べている光景を目にしたとき、気が付いたらレイチェルに飛びかかってしまっていた。

 その時に、マーマレードをビンごとこぼしてしまった。


 もはや、エマにはプリンしか残っていないのである。


「私が昨日、どれだけ我慢したと思ってるのっ‼今朝の為に我慢したのに、パンケーキ食べちゃうし!マーマレードは床にこぼれて残ってないしっ!もう私にはプリンしか残ってないのっ、だから、絶対にプリンは譲れないのっ‼」


 今日という今日は何が何でも譲れない。レイチェルがどんな御託を並べても認めないし、譲らない。二時間も並んだ苦労。原稿を書き上げた自分へのご褒美。

 エマにとって、絶対に譲れない戦いなのである。


「もぉ~、エマったら、プリン一つに本気になっちゃって、大人げないなぁ。冗談に決まってるじゃんかぁ」


 珍しく血走ったエマの瞳を見て、レイチェルが視線を逸らして、女豹のポーズを解除した。


「本当に冗談なの?目が本気だったけど」


 一転、ヘラヘラし始めたレイチェルに疑惑の名眼差しを送るエマ。


「やだなぁ。ヴェラじゃないんだからさぁ。ヴェラだったら、噛みついてたね。うん。床のマーマーレードも残さず舐めてたと思うよ」


 腕を組んで、何度も頷きながら言うレイチェル。


「さすがに、ヴェラだってそこまではしないと思うけど……」


 食料を求めてゾンビのように寄稿文店によく現れるヴェラを思い出しながら、エマは半信半疑だった。

 もしかしたらやるかもしれない……と。


リリリリーン リリリーン


 二人のムードが和らいだところで、電話がなった。


「エマ電話だよ」


 目で促すレイチェル。


「出るわよっ。プリン絶対に食べないでよね。食べたら、本当に本気で怒るから」


 エマは、睨み付けるように釘を刺してから、隣の部屋へ駆けて行ってしまった。


 プリンと二人きりになったレイチェルは考えた。


「うーん。(このまま食べちゃっても良いんだけどなぁ、食べたら拗ねるだろうなぁ。拗ねると長いから面倒くさいんだよなぁ)」


 レイチェルは頬を掻いた。


 実を言うと、エマが買って来たプリンはレイチェルが日頃、屋敷でアンジェリアと一緒に食べているプリンよりも卵の味が薄くて、あまり美味しくなかった。

 いつも通り、エマをからかう目的で喧嘩を吹っ掛けてみたわけだが、想像以上にエマが激高したので、取り返しがつかなくなる前に、珍しくレイチェルから折れたのだが……


「むぅ」


 プリンはそれほど食べたいとは思わないながら、エマに負けたようで、そこが気にくわない。


 だから、隣の部屋から受話器を置いた音が聞こえたタイミングで、


「エマ、ごっめ~ん。つい手が滑っちゃってぇ」とおどけて言ってみた。


 エマのことだから、泣き喚きながら戻って来るに違いない。レイチェルは腹を抱えて笑う準備をしていたのだが……

 

 ガシャアアァーンッ


 口を閉じた刹那に、黒い物体がレイチェルの前髪を掠ったかと思うと、その次の瞬間には冷蔵庫に直撃し、破片を撒き散らしながら床に落ちていた。


「ぅ……嘘です……」


 腰を抜かして床に座り込んだレイチェルの足元には、半分に折れた受話器が転がっていた。


「レイチェルっ!」


 エマが血相を変えて駆けこんで来たので、


「嘘です、食べてないです‼ごめんなさいっごめんさいっ‼」レイチェルは四つん這いで逃げながら 〈ごめんなさい〉を連呼し続けた。


「大変よレイチェルっ!ヴェラがっ!ヴェラが……」


 レイチェルが見上げた先には、顔面蒼白で涙を浮かべているエマの姿があった。


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