第十五章 結末   7月 3日 午後2時

 エクセルはエレベーターの前でファラの敗北を知った。

「ファラが敗れたと……?」

「は、誠に信じられませんが、女ニンジャに倒されてしまいました」

 委員長が答えた。エクセルは無表情のままクルリと踵を返すと、

「ならばファラはそのまま捨て置け。我らは直ちに日本を離れる。ファラとて自分の身の処し方はわかっていよう」

「はい」

 エクセルはそのまま車に戻り始めた。委員長がこれに続いた。その時、

「待ちなよ」

 後ろから声がした。エクセルは立ち止まり、振り返った。

「誰だ?」

 そこには篠原と、彼に襟首を掴まれて縮み上がっているセシオがいた。エクセルはセシオに気づいて一瞬ギョッとしたようだったが、すぐに冷静な顔になり、

「何の用だ?」

 篠原を睨みつけた。篠原はニヤリとして、

「自分が仕掛けたコンテストで、自分の駒が負けたら、その駒まで置き去りにして、てめえはサッサとトンヅラかよ? 随分と虫が良過ぎねえか、ジイさん?」

 エクセルはフッと笑って、

「なるほど。お前の隣にいる男が、ベラベラと喋ったようだな」

 セシオに一瞥をくれた。セシオはエクセルの視線に耐えられず、顔を俯かせた。エクセルは再び篠原を見て、

「お前はどこまで知っているのだ?」

「ぜーんぶ、知ってるよ。あんたの娘がイスバハン最強の殺し屋ファヴールだということから、イスバハンが暗殺請け負い業で成り立っている国だってことまでな」

 篠原がおどけた口調で答えると、エクセルはギラッと目を光らせて、

「ほォ。ならば先代のファヴールがこの私だということもか?」

 篠原はわざとらしく驚いた顔をして、

「そいつは知らなかった。しまったなァ」

「減らず口もそれまでだ!」

 エクセルは老人とは思えない動きで、篠原に向かった。

「知り過ぎたお前には、死あるのみだ!」

 エクセルの右手の爪が光った。ファラと同じく、鋼鉄をも切り裂くもののようだ。

「死ねっ!」

 エクセルの爪が篠原を切り裂いた、かに見えたが、それは篠原の残像だった。

「何!?」

 エクセルは呆然とした。篠原はエクセルの真後ろに立っていた。

「悪いな、ジイさん。俺も忍者でね。少なくとも、あんたなんかより、ずうっと強いぜ」

「……!?」

 エクセルは次の瞬間、ボコボコに殴られ、倒れた。それを見た委員長が震えながら、

「き、貴様、イスバハン王国の国王陛下に向かって!」

 そう怒鳴ると、篠原はフッと笑って、

「何言ってやがる。密入国同然に日本に来たジイさんが襲いかかって来たのを殴ったって、せいぜい過剰防衛だぜ。しかも俺は、防衛省統合幕僚会議情報本部の者だ。無罪だな、確実に」

 委員長はヘナヘナと座り込んだ。セシオはその隙に乗じて逃げようとしたが、篠原に、

「どこ行くんだよ、おっさん?」

 声をかけられ、ビクッとして立ち止まった。

「篠原さん!」

 そこへ、パトカー数十台と共に、大原が現れた。篠原は呆れて、

「おいおい、随分と大部隊だな、大原?」

 大原は苦笑いをして、

「水無月さん達が苦戦していると聞いたので、応援部隊を連れて来たんですけど、必要なかったみたいですね」

「ハハハ。まァな。取り敢えず、そのジイさんとこのおっさん二人、拘束してくれ。密入国者とその幇助者だ」

「はい!」

 大原は倒れているエクセルと、座り込んでいる委員長、そして直立不動で固まっているセシオを警官隊に拘束させた。

「水無月さん達は大丈夫なんですか?」

「ああ。まァ、キレたあいつに勝つのは、アメリカ軍の海兵隊でも無理だろうな」

 篠原が言うと、

「何悪口言ってるのよ、護?」

 葵の声がした。篠原はビクッとして振り向いた。そこには気を失ったファラを背負った葵と、シャーロット、美咲、茜がいた。篠原は苦笑いをして、

「悪口なんか言ってないよ。お前がどんなに強いか、大原に話していただけだぜ」

「どうだか」

 葵はフンとソッポを向いた。篠原は肩を竦めてから、

「ファラは父親であるエクセルによって、催眠術をかけられ、その上で薬も射たれ、操られていたようだ。自分の身が危なくなったり、エクセルからキーワードを言われると、暗殺者に変身するようにな」

「やっぱりね。私の方が強いとわかった途端、急に戦闘力が下がったから、そうじゃないかと思ったのよ。でもその情報、どこで仕入れたの?」

 葵は篠原を見て尋ねた。篠原はパトカーに乗せられるセシオを見て、

「あのおっさんから聞き出したのさ。ちょっと虐めたら、たちまち吐いたよ。奴がフランス軍の外人部隊にいたというのは本当だが、ソレイユとは面識はないし、所属していたのはごく短期間で、大して活躍はしていない。お前の事務所のことは、お前達の正体を知っていたから、カマをかけただけのようだ。奴は情報部の部長と言っても、人を殺すどころか、殴ったことすらない、文官だとさ」

「そう。じゃあ、あのおじさんが言ってた、ファヴールの話とかは、みんなエクセルが仕込んだものだったのね」

「そんなとこだな」

「これで一件落着ですね」

 茜が言うと、篠原は、

「そう言いたいところだが、まだ一人いるんだよ、この一連の事件の黒幕が」

「ええっ、そうなんですか?」

 茜は葵を見た。葵は頷いて、

「そうよ。それも一番タチの悪い奴がね。ちょっと行って、懲らしめて来るわ」

 茜は美咲と顔を見合わせた。


 橋沢首相は、警察庁長官から、密入国者としてイスバハン人一名、そしてその幇助者としてイスバハン人二名を拘束したと報告を受け、仰天していた。

「バカな……。私の計画が、崩れて行く……」

 橋沢はガックリとうなだれて、椅子に沈み込んだ。

「自衛隊法改正と、スパイ防止法の成立……。そしてゆくゆくは憲法を改正という、私の長年の夢が消えてしまう……」

 橋沢が呟いた時、

「何が長年の夢よ。自衛隊法を改正させて、自分のファミリー企業が造る武器を大量に買わせるように仕向け、スパイ防止法を成立させて、ファミリー企業の通信機器を大量に買わせる。それでも飽き足らず、憲法を改正して、自衛隊を国防軍に昇格させ、自分の私兵同然に使うつもりだったんでしょ?」

 そういう声がしたので、橋沢はハッとして顔を上げた。そこには葵が立っていた。すっかり正装した、スリーピース姿で。橋沢はムカッとして、

「貴様、あの時、イスバハンの王女と一緒に来た、ボディガードの女だな? どうやってここへ入った?」

 立ち上がり、葵を指差した。葵はツカツカと橋沢に歩み寄り、

「そんなことはどうでもいいわ。あんた、自分が何をしていたのかわかってるの? イスバハン王国の国王の申し入れを受け入れて、世界中の殺し屋が日本に入国するのを黙認して、国内各所で被害が出ることも予測していたのに、公安調査庁を動かして私達の行動を監視し、殺し屋達は野放しにした。これは日本国民全員に対する、重大な裏切り行為よ!」

 指差し返した。橋沢はそれでも、

「何を言うか!? アメリカの核の傘の下で温々として来た日本が、変革をするために必要なことだ。まず外国のテロリスト達がどれほど危険な存在かを国民に知らしめ、次いで自衛隊の現在の編成では国防もままならんことを知らしめる。さらに憲法を改正し、日本軍とし、アメリカの核の傘ではなく、日本独自の核の傘を持ち、日本を侮る中国や韓国、その他アジアの諸国に思い知らせる。全て国益のため、国民のため。新しい時代にそぐわぬ日本の現体制は葬り去り、全く違った理念の下、日本という国は世界のリーダーシップの一翼を担うのだ」

 葵は机を両手でバンと叩き、

「何をズレたこと言ってんのよ! 日本が今まで世界に示して来たのは、戦争をせず、武力で外国の人間を一人も殺さず、六十年もやって来られたと言う、すばらしい実績なのよ。それを反古にして、再軍備をし、また百年前と同じことを始めようというの、あんたは!?」

 すると橋沢は葵を睨みつけ、

「何も知らぬ小娘がふざけたことを言うな! 原爆を二発も落とされ、国土の大半を焼かれ、思想も信仰も統制され、教育も強制的に変えられ、アメリカ合衆国の都合のいいように作り替えられた偽りの平和日本など、何の実績にもならん! 私の理想は、打倒アメリカ、打倒ヨーロッパだ。アジアの地に、世界最強の経済軍事大国を築くのだ!」

 狂ったように叫んだ。葵はキッとして、

「ふざけたこと言ってるのはどっちよ? アジアの人々と協力して、アメリカやヨーロッパとは違う経済圏を確立するのはいいことだわ。でも、それに合わせて、軍事力の増強をしてどうするのよ? 時代錯誤もはなはだしいわね。バッカじゃないの?」

「何を!? 貴様、この私をバカと言ったのか!?」

 橋沢首相は激怒して机を回り込み、葵に掴みかかった。その瞬間、葵の右のカウンターが橋沢の鼻骨をへし折り、橋沢は壁に叩きつけられて崩れた。

「百年前と同じことをしようというの? 何度同じことを繰り返すのよ!? 人は憎しみ合っていたら、前に進めないのよ。何でそんなことがわからないの!?」

 葵はクルリと背を向けると、ドアを開き、執務室を出て行ってしまった。橋沢は鼻から出る血をハンカチで押さえて立ち上がり、

「あの女、ただではすまさん! 必ず捕えて、地獄のような苦しみを味わわせてやる!」

 そう叫ぶと、インターフォンに近づいた。すると、

「やめろ、橋沢。そんなことをしてみろ、日本の国がひっくり返されるぞ」

 岩戸老人が入って来て言った。橋沢はビクッとして岩戸老人を見た。

「どういう意味ですか、岩戸先生?」

 橋沢はハンカチで鼻を押さえたまま尋ねた。岩戸老人はゆっくりと橋沢に近づき、

「お前も日本の首相なら、『月一族』の名くらい知っていよう?」

「ツキイチゾク?」

 橋沢はポカンとして言った。岩戸老人は頷いて、

「そうだ。平安の昔より、日本の影の部分を支えて来た忍びの一族だ。戦国の世においても、様々な場でその力を発揮し、秀吉や家康はもちろんのこと、あの破壊者信長さえ一切手出ししなかった、日本最強の忍者集団の名だよ」

「あ、ああ……」

 橋沢はようやく「月一族」のことがわかったらしかった。岩戸老人は続けた。

「彼らは今この平成の世も日本の影の部分を支えている。日本全国の市町村、そして都道府県、国、全ての官公署に、彼ら一族はそれとわからぬように入り込んでいる。もしお前があのお嬢さん、すなわち水無月葵を捕えようとすれば、その一族全てを敵に回す」

「全てを敵に?」

 橋沢には合点が行かない。岩戸老人は橋沢にさらに近づき、

「あの水無月葵こそ、全ての『月一族』の長の娘。そして、一族最強の忍びだ」

「……!」

 橋沢は全身から汗を噴き出し、へたり込んだ。岩戸老人はフッと笑って、

「良かったな、橋沢。わしがいたおかげで、お前の首、繋がったぞ」

 そう言ったが、橋沢には聞こえていなかった。


 ファラは、葵のマンションのリヴィングルームのソファの上で目を覚ました。

「こ、ここは?」

 彼女は起き上がろうとしたが、

「だめよ、まだ寝てなきゃ。ごめんね、ファラ、ちょっと殴り過ぎたわ」

 葵が押し止めた。ファラはゆっくりと横になり、

「いえ、いいんです。葵さんのおかげで、私はようやく父上から解放されました。ありがとうございます」

「戦闘中の記憶、残っているの?」

「はい。自分の中ではいけないと思っているのですが、別の自分が本当の自分を押さえ込んでしまって……。どうすることもできませんでした」

「そう……」

 葵は悲しそうにファラを見た。ファラはしかし、ニッコリして、

「でももう大丈夫です。私、本当の自分を取り戻せました」

 葵は微笑み返して、

「よかったわね、ファラ」

「はい。これから私は一生かけて自分が犯した罪を償います。とても償いきれるものではないでしょうが」

「いいえ、そんなことはないわ。償いは、貴女が一生を終える時に完了するのよ。人の死は、全てを清算するの。でなければ、人間はずっと昔に滅んでいたわ」

 葵は言った。ファラは嬉しそうに頷いた。葵はさらに、

「貴女が最初に会った時に語ってくれた、平和憲法の話、本心なんでしょう?」

 ファラは大きく頷いて、

「はい。日本国憲法は、二十一世紀の世界の指針となるべき憲法です。私はイスバハンの王国軍を廃止して平和憲法を作り、最終的には王制を廃止して、共和国政府を打ち立てたいと考えています」

「まァ、そうなの。それが貴女の?」

「はい。それが私の償いの形です」

 ファラは力強く答えた。そして、

「父上はどうなるのでしょうか?」

「エクセル国王は、正規の手続きを経て日本に入国していないから、密入国者と同じ扱いで裁かれるわ。身元を照会して、あとは本国に強制送還ね。彼は何をしたという証拠はないから」

「でも父は現に……」

 ファラが反論しかけると、葵は首を横に振って、

「共謀者である日本政府が、絶対に真相を明かさないわ。そしてその真相はマスコミにも知り得ないところで処分されてしまう。国王はイスバハン本国で裁かれることになるわね」

「そうですか。その程度で、終わってしまうのですね」

 ファラは悲しそうに顔を背けた。葵も暗い顔になり、

「それが今の平和国家日本の生の姿よ。どうにも情けないけどね」

「葵さんには、真相を世に知らせる力があるのでしょう? この事件は、伏せるべきではありません。公表しないと……」

 ファラが再び葵を見て言うと、葵は、

「だめよ。そんなことをしたら、貴女も囚われの身になるわ。それはできない」

「……」

 ファラは涙を流していた。葵はその涙を拭って、

「泣かないで、ファラ。私は、貴女のあの言葉に賭けてみたのよ。貴女なら、イスバハンを変えられる。闇の国ではなく、光の国にね」

「はい……」

 ファラは涙を堪えて、葵を見た。葵は黙って頷いた。そして、

「さァ、眠りなさい、ファラ。もう何も心配いらないわ」

「はい」

 ファラは静かに目を閉じ、眠りについた。葵はファラから離れ、廊下で待っていた篠原と岩戸老人に近づいた。

「取り敢えず、不安はないようだな」

 篠原が言った。葵は頷いてから岩戸老人を見て、

「岩戸さん、ありがとう。ファラのこと、よく握り潰してくれました」

「ハハハ。まァ、葵ちゃんの頼みを断わったら、あとが怖いからな」

 岩戸老人が陽気に答えると、葵はプウッと頬を膨らませて、

「何ですか、それ。私まるで怪獣扱いじゃないですか?」

「怪獣の方が可愛いだろ?」

 篠原が口を挟んだ。葵はキッとして篠原を睨み、

「うるさい!」

 岩戸老人は篠原と顔を見合わせて大笑いした。葵は膨れっ面のまま、二人を見比べた。

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