第十四章 ファヴール  7月 3日  午後1時30分

 ファラはゆっくりと葵に近づく。シャーロットがファラを後ろから捕えようとしたが、

「シャーロットさん、動かないで。動いたら貴女から先に死んでもらうわよ」

 ファラは振り返らずに言った。シャーロットはギクッとした。

( 私が動こうとしたのがわかったの? 私だって、気配を消す訓練を受けているのに……)

 ファラはそんなシャーロットの心の内を見透かすかのように、

「いくら気配を消しても、大気の流れを変えずに動くことはできない。貴女が動こうとしたと、地球が教えてくれたわ」

 シャーロットはジットリと掌に汗をかいていた。ファラは葵を見据えて、

「まずは貴女から死んでもらうわ。本当は貴女の実力を測って、イスバハンの戦士として戦ってもらおうと思ったのだけど、どうやら不合格のようなので……」

「たとえ合格しても、こっちからお断わりよ。人殺しの手伝いなんか、したくないわ」

 葵は立ち止まって言った。ファラはクククと低く笑い、

「なるほどねェ。人を殺したことがないのを、唯一の誇りとしている、時代錯誤のニンジャの貴女らしいわ」

 蔑むように返した。葵の中で何かが弾けた。彼女は風になった。

「遅いわ、葵さん」

 しかし、ファラはその風よりも速かった。葵は装束をザックリと切り裂かれ、ガクッと膝を着いた。

「何、今の?」

 シャーロットには何も見えなかった。

( 葵の正拳がファラを直撃したように見えたのに、そこにはファラはいなかった。速過ぎるの、彼女? )

「何でできているの、そのスーツ? 私の爪は鋼鉄でも貫くのに」

 ファラが振り返って尋ねた。葵は立ち上がってファラを見ると、

「教えてあげない!」

と言い返した。


 その頃、茜はようやく立ち上がり、美咲の手を借りて歩き始めた。

「大丈夫、茜ちゃん?」

 美咲が尋ねると、茜はガッツポーズをして、

「大丈夫です!ちょっと全身痛いけど、すぐに治りますよ」

「とにかく所長のところへ」

「はい」

 二人は事務所を出た。そして、信じられない光景を目にした。

「しょ、所長……」

 美咲は自分の判断を疑った。ファラがこの一連の事件の真犯人だとすれば、彼女は葵の敵ではない。そう判断して、茜の様子を見に行ったのだ。しかし、今葵とファラを見比べると、明らかにファラが優勢に見える。

「そんな……。あの子、強い……」

 美咲のその言葉に、茜もビクッとしてファラを見た。しかし、ファラもまた、葵の鋭い突きで服を破られていた。

「やるわね、葵さん。考え直したわ。私達と一緒に、闇の世界を支配しない? 貴女なら、できるわ」

「やらないって言ってるでしょ! しつこいと怒るわよ!」

 葵は切り裂かれた忍び装束を脱ぎ捨てた。その下は、鎖帷子になっていた。そして、

「次は外さないわ。覚悟しなさい、ファラ!」

 ファラを指差した。ファラはせせら笑って、

「まだわかっていないようね。さっきは手加減したのよ。次は本気で貴女を殺す気で行くわ」

 殺気をみなぎらせ、構えた。葵も構えた。その後方でシャーロットがゴクリと唾を呑み込んだ。

「はァッ!」

「おおおっ!」

 葵とファラが同時に突進した。葵の右正拳がファラに向かう。ファラはそれをかわし、右手の突きを葵の胸元に叩き込む。しかし葵はそれを左手で払いのけ、右のハイキックを見舞った。ファラもこれを同じく右のハイキックで受けた。互いに衝撃を受け、離れた。この間わずか数秒の出来事だった。

「す、すごい……」

 美咲は他に何も言えないくらい驚いていた。

( 所長はとてつもなく強いけど、それと全く互角、いえ、むしろ所長を押し気味に戦っているファラ王女は一体……? )


「思いの外、苦戦しているのか?」

 エクセルは移動する車の中で尋ねた。委員長が、

「いえ、苦戦というほどではありませんが、ソレイユは先に倒れ、女ニンジャ共と英国の女刑事が残るという番狂わせがありまして……」

 エクセルはニヤリとして、

「番狂わせではない。ファラは日本に来る前から、女ニンジャが一番強いはずと言っていた。だからこそ、女ニンジャにガードを依頼し、間近でその実力を見極めようとしたのだ。まさしく予想通りの展開だ」

「ははっ……」

 委員長は深々と頭を下げた。エクセルは窓の外を見て、

「早く会ってみたいものだな、その女ニンジャに」

と言った。


「どうしたの、私を殺すんじゃないの、ファラ?」

 葵は挑発めいたことを言った。ファラはキッと葵を睨み、

「それほど死にたいのなら、今すぐに殺してあげるわ!」

 葵に向かった。ファラはジャンプし、葵目がけて爪を立て、襲いかかった。

「くっ!」

 葵はきわどい差でそれをかわし、逆にファラの空振りした右手を捕え、背負い投げで廊下に叩きつけた。

「ううっ!」

 ファラが低く呻いた。しかし彼女は反動をつけてすぐに立ち上がり、振り返りもしないでいきなり後ろ蹴りを繰り出した。葵は意表を突かれ、これをまともに胸に受け、後ろに倒れた。

「所長!」

 美咲と茜が叫んだ。葵は立ち上がって二人を見ると、

「大丈夫よ」

 ウィンクした。美咲と茜はホッとして顔を見合わせた。

「そんな余裕があるの、葵さん? 今ので肋骨が何本か折れたはずよ」

 ファラが言った、葵は作り笑いをして、

「十何本かあるうちの、二、三本よ。大したことないわ」

「呼吸が乱れてるわよ。謝るなら、今のうちよ」

 ファラが高飛車な態度で言うと、葵はフンと鼻で笑って、

「謝ったら許してくれるの?」

「いいえ。謝っても許さない。ただ、すぐに楽にしてあげる。謝らないなら、じっくりと時間をかけて殺してあげるわ」

「じゃあ謝らない!」

「強がりもそこまでよ!」

 ファラが再び葵に向かった。葵は身構えた。ファラは上体を低くし、葵の脚を切り裂きにかかった。葵はこれをかわし、ファラにローキックを見舞った。しかしファラは葵の脚を捕え、彼女を引き倒した。

「うっ!」

 葵は衝撃で折れた肋骨に激痛が走り、呻いた。ファラは葵に馬乗りになった。

「逃げられないわ。止めを刺してあげる!」

「それはどうかしらね?」

「!?」

 ファラの後頭部に、W&Sの銃口が押し当てられた。シャーロットが二人の戦いに割って入ったのだ。

「葵から離れるのよ、ファラ。ゆっくりね」

「……」

 ファラは苦笑いをしてゆっくりと立ち上がり、葵から離れた。

「お礼は言わないわよ、シャーロット」

 葵は立ち上がって言った。シャーロットはニヤリとして、

「後でフランス料理のフルコースね」

「何でよ!?」

 ファラはそんな一瞬の隙をついて、シャーロットの銃を蹴り上げ、地上に落としてしまった。

「やっぱり貴女から殺すわ!」

 ファラの突きがシャーロットに向かう。しかしシャーロットはそれを受け止め、逆にミドルキックを繰り出す。ファラはそれをかわし、シャーロットの軸足を払った。シャーロットはバランスを崩して、ドスンと尻餅をついた。

「どうにも戦い辛いわ。もっと広い場所でやりましょうか」

 ファラは上を見ると、まるで猿のように壁を伝い、屋上へと上がって行ってしまった。葵がこれを追った。シャーロットも慌てて壁をよじ登った。

「上に行っちゃいましたね」

 この様子を見ていた茜が言った。美咲は頷いて、

「私達も行きましょう。茜ちゃんは無理しないでエレベーターで来なさい」

 スッと壁を登って行った。茜は痛みをこらえながら、エレベーターへと歩き出した。


「到着しました」

 委員長がエクセルに言った。エクセルは無言で頷いた。運転手がドアを開き、エクセルは車を降りた。

「このビルの屋上で、姫様は戦っておられます」

 委員長が言うと、エクセルは眉間に皺を寄せて、

「時間がかかり過ぎているな。女ニンジャ、予想以上に強いようだな」

「はァ……」

 エクセルはビルの正面玄関に向かった。委員長は慌ててこれを追った。


「ここなら障害物を気にせず、貴女を叩きのめせるわね」

 ファラは屋上を見渡して言った。葵はムッとして、

「一つ訊いておきたいことがあるわ。貴女はあの時、私がすぐに浴室に入ろうとしたら、どうするつもりだったの?」

 ファラはクスクス笑って、

「それは絶対にあり得ないと思っていたわ。何故私がわざわざ貴女の目の前で裸になったか、わからないの?」

「!?」

 葵はその時の自分の思考を思い出した。ファラはそんな葵を見て、

「あの時貴女は、私の美しい肢体に気後れして、服を脱ぐのをためらっていたわ。それはそうよね。私は十代。貴女は二十代、それももうすぐ三十代。肌の艶も張りも、全然違う。恐ろしくて一緒にシャワーなんて浴びられないわよね」

 まさしく図星を突いて来た。葵はグッと詰まった。ファラは続けた。

「だから貴女は絶対にすぐ入って来ない。いえ、恐らく入って来られないし、しかもしばらくその場で考え込んで、脱衣所から部屋に戻ることもないと結論づけたの。そして私は悠々と浴室の窓から侵入して来た愚か者の首を捻って天井裏に放り投げ、窓から部屋に戻り、貴女が倒した連中の首を捻り、再び浴室に戻った。その全作業に、二分とかからなかったわ」

 葵は黙ったまま、ファラを睨んでいる。シャーロットも同じだ。美咲はあのホテルの一件の真相を知り、驚愕していた。そこへエレベーターを使って上がって来た茜が現れた。

「無駄話はこのくらいにしましょう。そろそろ貴女達を片づけないと、父上にお叱りを受けてしまうから」

 ファラは言うと、ダッと駆け出し、葵に向かった。葵は、

「もうアッタマ来た! さっきまで女の顔は殴らないって思ってたけど、あんたの顔はボッコボコに殴る!」

 走り出した。

「所長があんなに怒ったの、初めて見ました」

 茜が言うと、美咲は、

「そう? 私は三回目よ」

 茜はギョッとして美咲を見た。

「そんなことできないわよ」

 ファラが葵に仕掛けた。彼女の素早いパンチが、的確に葵の顔、胸、腹を連打し、葵は後ろに吹っ飛ばされて倒れた。

「くっ……」

 葵は鼻孔からダラダラと鼻血を流して立ち上がった。足下がおぼつかない。ファラは甲高い声で笑い、

「みっともないわ、葵さん。大人の女性が鼻血を流して。拭きなさいな」

「余計なお世話よ!」

 葵は袖口で鼻血を拭った。鎖帷子が血で赤黒く染まった。

「葵!」

「所長!」

 シャーロット、そして美咲と茜が加勢に走ろうとした。しかし葵は、

「手助け無用よ! この女だけは、私が一人でボッコボコにぶっ潰す!」

 言い放つと、両手を胸の前で合わせた。ファラはその様子を見て目を丸くして面白がり、

「あら、神にでも祈るの?」

 バカにしたような口調で尋ねた。葵はキッとファラを睨みつけ、

「違うわよ。私達には神はいない。頼るのは己の力のみ!」

 葵はフーッと肺にある空気を全て吐き出した。折れた肋骨から激痛が走るが、彼女はそれに耐え、空気を出し切った。そして次に、肺が破裂するのではないかというくらい、大きく息を吸った。また激痛が彼女を襲ったが、葵は怯まず続けた。美咲はハッとして、

「あれは確か……」

「何ですか、一体? 所長は何をしてるんですか?」

 茜が尋ねた。美咲は葵を見たままで、

「茜ちゃん、見ていなさい。所長の強さがどこから来るのか、今わかるわ」

「えっ?」

 茜はびっくりして葵に目をやった。そして、彼女は感じた。

「気が、凄い勢いで高まってる……」

「でしょ? 所長は負けないわ。いえ、もう勝ったも同然よ」

 ファラは葵の変化に気づいていた。

「何をしたの、葵さん? 貴女今、急に強くなったわ」

 ファラが尋ねた。すると葵はニヤリとして、

「それがわかったのは褒めてあげる。でももう許さないから、覚悟しなさい!」

 フッと消えた。ファラは周囲を見た。しかし葵はいなかった。

「はァッ!」

 葵は突然ファラの目の前に現れ、彼女を滅多打ちにした。

「くっ!」

 ファラはそれでも葵のラッシュから逃れ、腕で顔を防御した。

「……」

 ファラに焦りの色が見え始めた。葵はそんなファラの動揺などおかまいなく、突進した。

「ええい!」

 葵のパンチがファラのガードを打ち砕き、ついにアッパーカットがファラの顎を捉えた。ファラはそのまま後ろに飛んで倒れた。彼女の鼻と口から血が流れ出した。葵はフッと笑って、

「今度はあんたの番よ、ファラ。鼻血流してみっともないわ!」

 挑発した。ファラはカッとなって葵に向かった。

「その減らず口、塞いでやる!」

 ファラのハイキックが葵に向かう。葵はそれをかわし、ファラの顔面に正拳を見舞った。ファラは再び後ろに飛び、倒れた。

「何故? どうして?」

 ファラは頭が混乱しているようだ。さっきまで圧倒的に優位だったのに、今は逆に追い込まれている。現状が理解できない顔をしていた。

「止めよ!」

 葵が再びファラに突進した。ファラはそれをかわそうとしたが、葵に右足の甲を踏まれた。

「さァ、さっきのお返しよ!」

「……!」

 葵の正拳が何発もファラの顔面を襲った。足を踏まれているため、倒れることもできないファラは、見る見るうちに顔を腫れ上がらせた。

「ぐふっ……」

 ついにファラは白目を剥き、気絶して葵にもたれかかった。葵の逆転勝利だった。

「ふう……。少しはすっきりしたわ」

 気を失っているファラを見て、葵は呟いた。シャーロットが駆け寄り、

「殺してないでしょうね?」

「そのくらいの手加減はしてるわよ」

 葵は美咲が差し出したハンカチで顔の血を拭いながら答えた。

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