第六章 いくつもの影  7月 2日 午後5時

 茜は相手を待ちながらいろいろ考えていた。

 確かにあの男は別に何かして来る訳ではないし、嫌らしいことをする訳でもない。しかし、目が怖い。茜を見る目は普通の女性を見る目と明らかに違う。今一部地域で流行している「アキバ系」の目だ。あの人、私にメイド服か、セーラー服でも着させたいのではないだろうか? それで写真を撮って「萌えー」とか言い出しそうだ。だが、肩書きは警察庁のお役人だ。もうわけわかんない。茜は思わず、フーッと溜息を吐いてしまった。

「ごめん、茜ちゃん。待たせたみたいだね?」

 男の声に茜はハッとして我に返り、顔を上げた。一気に現実に引き戻された感じだ。

( ああ、ここ、レストランの中だったんだ……)

 茜は男の顔を見て、やっと状況を把握した。

「まだ何もオーダーしていないの?」

 男はスーツの襟を直し、ネクタイを締め直して尋ねた。茜はうつむいたままで、

「は、はい……」

 男はフッと笑って、ウェイターを呼んだ。

 顔は悪くない。いやむしろ、周りの女性に羨ましがられるような、イケメンだ。しかし、性格に問題がある。男の名前は大原 統(はじめ)。警察庁警備局外事課勤務のキャリアである。この男、はっきり言うとロリコンの部類に入る。それもストライクゾーンど真ん中くらいだ。しかも、自覚症状がないという悪質さまで兼ね備えているのだ。

「まさか君の方から誘いの電話をくれるなんて思っていなかったよ」

 大原は実に嬉しそうに言った。茜は苦笑いするだけだ。

( そりゃそうよ。所長が私の声を真似て、大原さんに電話しちゃったんだから……)

 しかし葵には逆らえない。そんなことをしたら、大原に会う以上に嫌な思いをしなければならないからだ。

 その内容のことはともかく、今はこいつを何とか利用して、情報を手っ取り早く入手しようと茜は考えた。

「で、今日はどうしたのかな?」

 大原はニコニコしながら茜に尋ねた。茜は作り笑いを精一杯して、

「実はァ、大原さんにィ、お聞きしたいことがあるんですゥ」

 いつにも増して、大原が喜びそうな口調で喋った。すると大原はますます嬉しそうに笑って、

「どうぞ。僕で答えられることなら、何でも聞いてよ」

 茜をジッと見つめて言った。茜は全身に鳥肌が立つ思いがしたが、葵の激怒した顔を思い浮かべて何とか我慢し、口を開いた。

「実はァ、今私達ィ、イスバハン王国の人に依頼をされているんですゥ」

 茜がそこまで話すと、あれほどニコニコしていた大原の顔が文字通り別人のように険しくなり、目が辺りを探るようにせわしなく動いた。

「イスバハンだって? 茜ちゃん、あの国のどんな人から、何の依頼を受けているの?」

 大原のその顔は茜が初めて好感を持った顔だった。彼はまさに今、警察庁のエリートに戻ったのだ。

( あれェ、どこまで話しちゃっていいんだっけ? )

 茜は一瞬迷ったが、すぐに考えるのをやめた。

( そんな難しいことさせようっていう、所長が悪い! )

 そう結論を出した彼女は知っていることを全て大原に話した。

「……」

 大原はしばらく腕組みして黙り込んでしまった。茜も仕方なさそうに黙って、テーブルに置かれた冷めかけたスープをジッと見つめていた。

「ここじゃできないな。とにかく食事をすませてしまおう」

 やっと大原が口を開いた。茜はピクンとして、

「え、ええ……」

 その後二人はただ黙って出される料理を食べた。そして、食後のコーヒーを出されたところで、再び大原が口を開いた。

「この話、できれば水無月さんの事務所でしたいんだけど。大丈夫かな?」

「そ、それは大丈夫だと思いますけど……」

 あまりに意外な展開のため、茜は半分呆気にとられていた。大原はニコッとして、

「じゃあ決まりだね。出ようか」

 立ち上がった。

「は、はい……」

 茜もゆっくり立ち上がった。


「ターゲット確認。ターゲットAは今Aの車をレストランの正面に乗りつけたところです」

「了解。そのまま、監視を続行しろ」

「了解」

 暗がりの中に何人か動く連中がいた。彼らは、大原と茜を監視しているようだった。


 大原は黒塗りのセダンをレストランの正面に回すと、運転席から出て助手席を開き、茜を乗せた。

「茜ちゃん、誰かに見られている気がしないか?」

「えっ?」

 茜はハッとして周囲を見た。しかし大原は、

「あまりキョロキョロしない方がいい。つけさせよう」

「……?」

 大原は運転席に戻り、セダンをスタートさせた。外はすっかり夕闇に染まり、ほんの少しだけ、太陽の光が西の空に残っていた。

「どうするつもりなんですか?」

 茜はシートベルトを着けながら大原に尋ねた。大原も左手でシートベルトをカチッと固定して、

「まず相手が何者で、何のために僕らを監視しているのか、その理由を知らないとね」

「はい……」

 茜は少しずつ大原のことを見直し始めていた。

( この人、だたのロリコンじゃなかったんだ……)

 それはそうだ。単なるロリコン男が警察庁の幹部候補として、エリートコースに乗れる訳がない。大原は優秀な警察官なのである。

 セダンは大通りを法定速度を守って走った。この辺もやはり警察官だ。決して無茶な運転はしない。

「三台でけて来ているね」

 大原はルームミラー越しに後方を見て言った。茜もショルダーバッグからコンパクトを取り出して後方を確認し、

「はい。巧みに車両を入れ替えていますが、確実に三台、この車をマークしているようですね」

 いつものダーダー口調を封印して、キチンとした日本語を喋った。

「一応、撒いてみようか」

 大原はスイッとハンドルを切り、左折した。すると三台のうち二台はそのまままっすぐ走って行き、残りの一台が左折して来た。

その後ろを先程まで停止していた車が走り出し、追跡を始めた。

「こいつは……」

 大原は少しだけ驚いたようだった。茜もギョッとしていた。

「只の悪戯じゃなさそうだな。仕方がない」

 大原はアクセルを踏み込むと、セダンを加速させた。

「スピード違反ですよ、大原さん」

 茜が言うと、大原はフッと笑って、

「緊急だから仕方ないさ」

 セダンをグングン加速させ、黄信号で交差点を通過し、つけて来る車が赤で停まったのを見届けると、中央分離帯の切れ目を右折し、細い路地に入った。

「まさかこの道にもいるとは思えないんだけど……」

 大原は独り言のように呟き、アクセルを戻し、減速した。

 確かに尾行して来る車はいなくなった。取り敢えず撒いたようだ。

「さてと。水無月さんに連絡して、茜ちゃん」

「はい」

 セダンは右手にお堀を見ながら、水道橋方面へと進路を変えた。


 一方葵は、茜からのメールをファラと一緒に乗っているリムジンの中で受けていた。

( 尾行された? )

 葵もさすがにビクンとした。

( 一体何者? どういうことなの? )

「どうかされたのですか、葵さん?」

 ファラが葵の様子に気づき、声をかけて来た。葵はハッとしてファラを見ると、

「あ、いえ、別に大したことではありません。ちょっと部下の子がトラブルを起こしたみたいで……」

「まァ、それはご心配ですね」

「はァ……」

 葵は苦笑いした。それより彼女は、ファラと会った橋沢首相の態度が気になっていた。

( もともと胡散臭いオジさんだけど、ファラに対するあのバカ丁寧な態度、何か変だった……)

 しかし今は、目の前に迫った緊急事態を解決する方が先である。

( 私はファラから離れる訳にはいかないから……)

 葵は美咲の携帯にメールを送り、すぐに事務所に向かうように指示した。

( 茜達を尾行したということは、当然のことながら、事務所の位置もわかっているはず。でもじゃあ何故、見え見えの尾行をしたのかってことになるわね )

 葵はある推論を立てた。

( 茜達を尾行することが目的じゃないとしたら? )

 そう考えるとすっきりするが、それだとさらに相手の考えがわからなくなる。

( かなり手強い連中が相手ってことか……)

 葵はファラをチラッと見てから、シートにもたれかかった。


 美咲は葵からのメールをホテルの一室で受けていた。とうとう彼女は神戸の要求に応じてしまったのかと思いきや、そこは外務省がお忍びで日本に来る外国の王室クラスの人物を宿泊させるために常にキープしている、盗聴を完全にシャットアウトできる特別室で、彼女は神戸から重大な話を聞いていた。

「どうしたんですか?」

 話を終えて椅子から立ち上がりかけた神戸が尋ねた。美咲も立ち上がりながら、

「あ、ちょっと業務連絡です」

 そう言って話をそらせた。神戸はそんな美咲の考えを知っているのかどうかわからないような顔で、

「今日は仕事の話でしたが、今度はプライベートでこのホテルにお誘いしてもいいですか?」

 美咲はビクッとして苦笑いをし、

「え、あの、その……」

 口籠り、俯いた。困ってみせると、神戸は慌てて前言を撤回する男なのだ。

「す、すみません。調子に乗り過ぎたようです」

 美咲はそんなところに少し惹かれてもいた。彼女も神戸のことが嫌いな訳ではない。ただこういう関係が嫌なだけなのだ。


 茜と大原は、グランドビルワンの地下駐車場に来ていた。辺りはシーンと静まり返っていたが、二人は何者かの視線を感じていた。

「茜ちゃん、普通にしてて。何かあっても、僕が必ず君を守るから」

「は、はい」

 茜は大原とタイミングを測って車を降り、エレベーターの扉に向かって歩き出した。

 影が動いた。何人かが、確実に二人を取り囲むように動いている。

( 何者なんだろう? )

 茜は顔はエレベーターの方に向けたままで、目だけで影の動きを追っていた。大原も同じである。

( 仕掛けて来るつもりはないのか? )

 大原は影共から殺気を感じないので、少し不審に思っていた。

( じゃあ一体何のために? )

 それは大きな疑問であった。仕掛けるつもりがないのなら、何のための尾行なのか? 大原は思案した。

( まさか……)

 彼は一つの結論を得た。

( もしそうだとしたら、どうする? )

 額を汗が伝わった。

「どうしたんですか?」

 大原の異変に気づいた茜が尋ねた。大原は作り笑いをして、

「いや、何でもないよ。さっ、エレベーターに乗ろう」

「はい……」

 茜は不満そうに口を尖らせて頷いた。

( 自分の読み通りだとすれば、連中は仕掛けては来ない。問題はその真意だ……)

 大原は上昇して行くエレベーターの中で、ずっと思索に耽っており、扉が開いたのにも気づかないほどだった。

「大原さん、着きましたよ」

 茜が声をかけると、彼はハッとして、

「あ、そう、ごめん。ボンヤリしてたみたいだ」

 慌ててエレベーターを降りた。

「美咲さん、もう戻っているかなァ」

 事務所へ通じる外廊下を歩きながら、茜が呟いた。彼女は影が追って来ていないのを悟り、すっかり気を緩めていた。しかし大原は、彼らの真意を測りかね、まだ当惑していた。

「早かったわね」

 二人が事務所に入ると、ソファに座っていた美咲が言った。

「美咲さんこそ、早かったですね。また、屋上飛びですか?」

 茜が悪戯っぽく尋ねると、美咲は恥ずかしそうにして、

「緊急の時は、あれが一番早いのよ」

「屋上飛び」とは、ビルの屋上、トラックの荷台の上と、まさしく忍びの技を駆使しての高速移動のことである。

「そうですよねェ」

 茜はニコニコしながらソファに近づいた。しかし、大原はまだ警戒しており、ドアを閉じながら、左右を見て、誰もいないことを確認してから閉じ切った。

「どうしたんですか、大原さん? 誰も尾けていないはずですよ」

 美咲も不思議に思い始めて尋ねた。茜も頷いて、

「そうですよ。この事務所に近づくのに、内部の者に気づかれない方法なんて存在しないんですから、大丈夫ですよ」

「それはわかっているんだけどね」

 大原がトアに背を向けて言った時、美咲と茜がバッと身構えた。何かを感じたのだ。大原もハッとして、ドアの方を向き、一歩飛び退いた。

「ドアの向こうに誰かいる……」

 美咲が小声で言った。茜が頷く。大原も、

「らしいな。しかし、殺気はないぞ」

「あっ、気配が消えた……」

 美咲は身構えるのをやめた。茜もスッと構えを解いた。

「何者なんだ……?」

 大原は呟いた。美咲は大原を見て、

「何にしても、所長と連絡をとりましょう。でないと、これから先のことが決められませんから」

「そうだね」

 大原は頷いて、ソファに座った。

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