第五章 王女の訪問  7月 2日 午後4時

「出納帳だけかと思ったら、請求書も杜撰ですね。一体どうなっているんですか、水無月さん?」

 昨日来た税務署の調査官が再び事務所にやって来ていた。葵はただニコニコして、

「はい、申し訳ありません」

 若い調査官は葵の笑顔を見て赤くなり、

「とにかく、これでは青色申告とは言えません。今回は厳重注意ということですませますが、次回からはそうもいきませんので、必ずキチンと記帳してください」

「わかりました。ありがとうございます」

 葵はスッと調査官の右手を両手で握りしめた。調査官は真っ赤になり、

「し、失礼します」

 慌ててカバンを抱え、逃げるようにして事務所を出て行ってしまった。葵はケラケラ笑って、

「可愛いこと。またいらっしゃいね」

「所長ってば、ホント、意地悪ですね」

 茜は調査官に出したコーヒーを片づけながら言った。葵は肩を竦めて、

「あの男、どうも私に気があるみたいなのよ。去年も同じこと言って帰ったんだから」

「ええっ? 去年からこんな状態なんですか、ここの経理って?」

 茜は仰天して手を止めた。葵はフフッと笑って、

「ま、去年は始めたばかりでわからなくてって、私が嘘泣きしたんだけどね」

「あっきれた。若い男をあまりからかうと、行き遅れますよ」

 茜がたしなめるように言うと、葵はムッとして、

「何よ、行き遅れるって? 他人ひと聞きの悪いこと、言わないでよ」

 そう言ってから、美咲の机に目をやり、

「そう言えば美咲はどうしたの? 今日は予定はなかったでしょ?」

「神戸さんに呼び出されて、銀座で待ち合わせです」

「えっ? また? とうとう結婚迫られるのかな?」

「あっ、でもイスバハンの件みたいです。昨日の帰りに美咲さんの携帯に神戸さんから電話があって。私、その場に居合わせてたので」

「イスバハンのか」

 葵の眉がピクンと動いた。茜も神妙そうな顔で、

「かなり差し迫った様子でしたよ。ただ、会議があって抜け出せないので、今日の夕方に会う約束をしたみたいですよ」

「そうか。それで、貴女の方は?」

 葵がそう尋ねると、茜は顔を引きつらせて、

「はい。五時に赤坂のレストランで、待ち合わせです」

「あら、そう。頑張ってね」

「所長ォ……」

 茜は半ベソ状態だ。しかし葵は、

「ダァメ、甘えたって。仕事なんだから」

「はァい」

 茜は渋々返事をした。葵は真剣な顔になり、

「警察庁も、防衛省とは別行動をとっているはずだから、その辺のこと、うまく聞き出してよ」

「はい」

 茜は覚悟を決めたのか、真顔になった。

「行ってきまァす」

 茜は暗い表情のまま、事務所を出て行った。葵はそれを見届けてから、自分の机に戻り、机の上のノートパソコンを開き、電源を入れた。ピッと音がし、齧りかけのリンゴが現れ、システムが立ち上がった。

「依頼のメールは届いているかな?」

 彼女はブラウザを起動させ、電子メールをチェックした。

「新しいメールは届いていませんか。迷惑メールばっかりだな」

 迷惑メールの中にも何か情報が混じっていることがあるので、彼女は敢えて迷惑メールをブロックしていない。その時、ドアフォンが鳴った。

「どうぞ」

 葵はドアを見て応えた。ドアノブが回り、一人の人物が入って来た。

「あっ、貴女は……」

 葵は席を立って訪問客に近づいた。

「はい、私はイスバハンの王女、ファラ・ピクノ・ルミナです」

 訪問客はニコッとして答えた。葵も微笑んで、

「お一人ですか?」

「はい。セシオは下の駐車場で待たせております」

 ファラは言った。顔はやや黒いが、どこかでフランスの血が混じっているのか、目の色は緑色で、髪も黒ではなく少し茶色っぽい。服装は地味で、白でまとめてはあるが、特に飾りらしいものもないワンピースで、靴も平凡なアンクルブーツ。どこから見ても、気のいい田舎娘という印象を、葵は受けた。

「写真よりずっと素敵なので、びっくりしました」

 葵が右手を差し出すと、ファラも、

「私も、貴女がセシオから聞いていたのよりずっと美しい方なので、びっくりしました」

 右手を差し出し、葵と握手を交わした。

「それはどうも。どうぞ、おかけください」

 葵は右手でソファを示し、給湯室に向かった。するとそれに気づいたファラが、

「どうぞ、おかまいなく。お話はすぐにすみますから」

「そうですか?」

 葵は歩を戻し、ファラが座るまで待ってから、彼女と向かい合って腰を下ろした。

「昨日はセシオが失礼いたしました。唐突な依頼をして、ご迷惑だったでしょうね」

 ファラの日本語は茜よりよっぽどまともだ、と葵は思った。そして、

「いえ、とんでもありません。当事務所のモットーは、他の事務所にできないことをすることです。王女様のご依頼をお受けできるのは、当方だけだと自負しております」

「まァ……」

 ファラはクスッと笑った。葵は、あどけなさの残るファラの笑顔を羨ましく思いながら、

「昨日のお話の続きでしょうか?」

 ファラは頷いて、

「そうです。セシオは概略を話しただけでしょうから、私が詳しいお話をいたしましょう」

「わかりました」

 葵は脚を組んで応えた。ファラは真顔になり、

「私の命を狙っている殺し屋は何人もいるようなのですが、その中でも手強いのが、ソレイユと呼ばれているテロリストです」

「ソレイユ? フランス語で太陽ですね?」

「はい。そのソレイユが、国籍と姓名を偽り、日本に来ているらしいのです。これは、ホームズさんに教えてもらいました」

 ファラが話すと、葵はムッとして、

「シャーロットに? 彼女、今度の事件、どこまで関わっているのですか?」

 ファラは葵の反応に少々驚いたようだったが、

「ホームズさんは、女王陛下のご依頼で私に同行されただけで、それほど深く関わっていないと思いますが?」

「そうですか……」

 葵は納得しかねるという顔で、ファラを見た。そして、

「それで、ソレイユとかいう殺し屋は、どうしているかわかっているのですか?」

「いえ。日本に来ているらしいことが、ICPO( 国際刑事警察機構 )の連絡でわかっているだけです」

 ファラは困惑した顔で言った。葵は腕組みをして、

「貴女は何故命を狙われているのだと思いますか?」

 ファラは小さく首を横に振り、

「わかりません。私のような者の命を狙って、一体誰が得をするのか……」

「王族に怨みを持つ者はいませんか?」

「いるかも知れません。でも、それなら私を狙わずに父を狙うはずです。でも、父は一度も殺し屋に襲われたことがありません。私だけなのです」

 ファラの目は悲しみで潤んでいた。葵はそれでも構わず、

「貴女が唯一の王位継承者なのですね?」

「えっ?」

 ファラはハッとして葵を見た。葵は、

「なるほど。殺し屋をけしかけた者の狙いは、王家の断絶かも知れません」

「そんな……」

 ファラの潤んだ目が凝固したように動かなくなった。しばらく沈黙の時が流れた。

「そこまで怨まれることがあるとは思えません」

 ファラはやっと口に出して言った。葵は、

「かも知れませんが、憎しみとか怨みは、個人の主観によるところが大きいですから。勝手に怨む人間だっているでしょうしね」

「だとしたら、私はずっと命を狙われるのですね。死ぬまで……」

 ファラのその言葉に、葵は少し言い過ぎたと思い、話題を不意に変えた。

「それより、貴女は自分の命が狙われているのに、何故日本にいらしたんですか?」

 ファラは潤んだ瞳をハンカチで拭ってから、

「私は日本の憲法に大変興味があります。特に、第九条に」

「戦争の放棄、ですか?」

 葵は自分の憲法に対する知識不足を思い知りながら言った。

( 美咲がいれば、大丈夫だったのになァ )

 法律部門は、葵より美咲の方が詳しい。彼女は某国立大学の法学部の全課程を二年で修了させ、さっさと中退してしまった秀才なのだ。ファラは急にニコニコして、

「そうです。我が国には現在王国軍が存在していますが、ゆくゆくはこれを廃して、日本の憲法のような条文を作り、今のイスバハンの憲法に加えたいのです」

「そうですか。でも、日本国憲法は押しつけられた憲法で、今の時代にはそぐわないと言われていますよ」

 葵が精一杯の知識で言うと、ファラは目を丸くして、

「とんでもありません。日本国憲法は、二十一世紀に向けて作られた、すばらしい憲法です。ちょっと時代を先取りし過ぎたので、今の時代にそぐわないように見えるだけです」

( へェ……。そういう見方もできるのか……)

 葵はファラの考え方にすっかり感心していた。

「日本はまた、昔の歴史を繰り返すつもりなのかのように、第九条改正とか、自衛隊を増強しようとかしています。とても悲しいことです」

「……」

 ファラほどの考えを持つ日本人女性が、一体何人いるだろう? 葵は自分も含めて、日本は女が政治に対して無知過ぎると思った。

「私の使命と思っているのです。イスバハンの憲法に戦争の放棄を書き加えることが」

 ファラの目は、キラキラと輝くように生き生きとしていた。

「その使命感が今の貴女を突き動かしているのですか?」

 葵は居ずまいを正して、ファラを見ていた。ファラはそんな葵の態度に気づいて赤面し、

「ごめんなさい。私、つい……」

「いいえ、とんでもない。すばらしいです。日本の若い女共に、少しは見習わせたいくらいです」

 葵はニッコリして言った。ファラは嬉しそうな顔で葵を見て、

「そ、そうですか……」

と照れ笑いをした。葵は再び真顔に戻り、

「それからもう一つお伺いしたいのですが」

「はい」

 ファラもキリッとした顔になり、葵を見た。葵は、

「貴女は私達の正体をどこまでご存じなのですか? 英国の女王陛下から、何をお聞きになりましたか?」

 ファラはキョトンとしていたが、

「私、女王陛下から伺ったのは、貴女方が日本で最高のボディーガードだということですが。それが何か?」

 今度は葵が驚く番だった。

( どういうこと? シャーロットは、私達の秘密の漏洩源は女王陛下だと言っていた。でも王女は女王陛下から何も聞いていない……)

「あの……」

 ファラが不思議そうな顔で葵を見ているので、彼女は苦笑いをして、

「あっ、失礼しました。変なことをお尋ねしてしまいましたね。気になさらないでください」

「はい……」

 ファラはそれでも不思議そうな顔をしていた。葵はそんな王女の視線を避けるように、

「あっ、そうそう。王女様、ご依頼をお受けいたします。いつからガードを始めたらよろしいですか?」

 唐突に尋ねた。ファラは虚を突かれたような顔で、

「はい、その、今からでもよろしいでしょうか?」

 これには逆に葵も意表を突かれたようだったが、何とか、

「ええ、大丈夫です」

 そして、ホッとしたせいか、ニコッとした。王女もそれに応じてニコッとした。

「ありがとうございます、水無月さん」

「葵でいいですよ、王女様」

 葵が言うと、ファラも、

「では私も、ファラで結構ですわ」

と応えた。


 葵とファラはその後とりとめもない話をした。どこの店の何がおいしいとか、どこの店のどんな服が今日本で流行っているとか。そのうちに、ファラは駐車場にセシオを待たせていることを思い出し、話を終わらせた。

「これから首相官邸に行きますので、一緒にいらしてください」

 ファラは立ち上がって言った。葵も立ち上がり、

「わかりました。参りましょう」

 そしてそのままドアに近づいたので、ファラが、

「身支度はいいのですか?」

 葵は振り返ってニッコリし、

「はい、大丈夫です」

「何も持たないのですか? 銃とか?」

 ファラはびっくりして尋ねた。葵は微笑んだままで、

「ええ。日本では、私立探偵は武器の携帯を許されていません」

「ああ、そうですね」

 ファラは自分の情報不足に気づき、恥ずかしそうに笑った。葵は急に真顔になり、

「それに武器を持たなくても、私はファラ王女を守る自信があります」

「はい」

 ファラも真面目な顔で応じた。葵は再びニコッとして、

「さァ、参りましょう、王女様」

「ええ」

 葵はドアを開き、ファラを送り出した。そしてドアを後ろ手に閉じ、鍵をかけ、ファラの前に立った。

「こんなに明るいうちから襲って来るとは思えませんが、とにかく警戒するに越したことはありませんから」

「わかりました」

 葵はスッと横にどいて、

「前をお歩きください。私は後からついて行きますので」

「はい」

 二人は長い外廊下をエレベーター目指して歩き出した。

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