第四章 防衛省統合幕僚会議情報本部の男  7月 1日 午後8時30分

「お腹すいちゃいましたよォ」

 葵のマンションに着くなり、茜は口を尖らせて言った。葵はそれには応えず、広々としたリヴィングルームに大股で歩いて行き、その奥のダイニングキッチンへ 行くと、冷蔵庫の扉を開いて、

「さ、ここにあるもの、何でも食べていいから、少し大人しくしていて」

 茜は小走りで冷蔵庫に近づいて中を覗いた。

「えーっ。冷凍食品ばっかりじゃないですかァ。所長ってば、手抜き料理しかしないんですねェ」

「うるさいわね。文句言うのなら、何も食べさせないわよ!」

 葵が怒鳴った時、ドアフォンが鳴った。葵はすぐさま玄関に走り、ドアを開いた。

「よっ!」

 威勢良く入って来たのは、黒系のスーツの上着を腕にかけた、浅黒い顔に角刈りの、いかにも鍛錬しているといった体型で、どちらかというとイケメンタイプの男であった。葵はムスッとして、

「一体何の用よ……」

 言いかけたところを、いきなりその男の唇で塞がれてしまった。

「うん……」

 男と葵は数秒間、そのままキスをしていた。男の右手が葵の腰に延びた時、

「ちょ、ちょっと!」

 葵は男を突き放し、口を拭って睨みつけた。

「いきなり何するのよ、この変態!」

「変態はないだろ? 俺達、恋人同士じゃないか?」

「誰が?」

 葵は今にも噛みつかんばかりに男に怒鳴った。男は肩を竦めて、

「へいへい。私が悪うございました」

 するとそこへ、ハムをくわえた茜がピョコンと顔を出し、

「もういいですか、所長?」

 葵は顔を赤くして、

「何よ、その言い方は?」

「へへへェ」

 茜はハムをパクッと食べて笑った。すると男は茜を見てニヤッとし、

「茜ちゃんも、あと五年したら可愛がってあげるからねェ」

「やァだァ、篠原さんたらァ」

 茜はケラケラ笑いながら、リヴィングルームの方へ歩いて行った。葵はそれを見届けてから篠原と呼ばれた男を見て、

「話を元に戻すわね。一体何の用?」

 篠原はフッと笑って、

「お前ら、イスバハンとどういう取引しているんだ?」

 葵はギョッとして、

「どうしてそんなこと知っているのよ?」

「イスバハン情報部のセシオ・レ・クリオは、来日した時から、我々情報本部がマークしているんだ。今日、奴を尾行していたら、お前の事務所に立ち寄ったんでな」

「セシオを尾行? どうして?」

 葵は篠原にスリッパを出した。彼はスリッパを履きながら素早く葵の肩を抱き、

「詳しい話は、酒でも呑みながらにしようか」

 リヴィングルームに向かって歩き始めた。葵はうっとうしそうな顔で、

「ええ、そうね」

 その時、またドアフォンが鳴った。葵はいい口実とばかりに、

「失礼」

 篠原の手を振り払い、玄関に戻った。

「どうぞ」

 葵の声に応じてドアノブが回り、美咲が入って来た。

「あら、早かったわね。神戸君は?」

 葵が尋ねると、美咲は恥ずかしそうに、

「もう帰りました」

「よォ、美咲ちゃん。元気か?」

 篠原が戻って来た。美咲はビクッとして篠原を見上げ、

「ど、どうして篠原さんが?」

「まア、詳しい話はあとあと! ささっ、奥へ行きましょ」

 篠原はヘラヘラしながら、葵と美咲の肩を抱き、両手に華状態でリヴィングルームに向かった。


「日本政府は信用していない、か」

 葵と美咲から概略を聞いた篠原は、ソファに身を沈めてそう呟いた。葵はフローリングの床に敷かれたカーペットに直に腰を下ろしてガラスのテーブルに頬杖をつき、

「そうよ。セシオって男、かなり危ない感じがしたわ」

「そりゃそうさ。だからこそ、防衛省は独自の判断で、奴を尾行することにしたんだからな」

 篠原は水割りを呑みながら言った。美咲が空になったグラスに焼酎を注ぎながら、

「神戸さんも、イスバハンは危険だから手を引いた方がいいって言ってました。どうして危険なんですか?」

 篠原は美咲を見て、

「得体の知れない国なんだよ。だから外務省も警戒しているし、俺達も過敏になっている」

「もう尾行はいいの?」

 葵が口を挟んだ。篠原はニヤッとして、

「まァな。交代したのさ」

 そう言ってから真顔になり、

「王女のガード、引き受けるつもりか?」

「断わったら何かありそうだからよ」

「それはな」

 篠原は腕組みをして考え込んだ。そこへ茜がピザを持って来た。

「さァさ、食べてください、冷食ですけど」

「おおっ、こりゃありがたい。朝からロクなもん食ってないんだ」

 篠原はピザを皿ごと受け取ると、まるで流し込むようにペロリと一気に食べてしまった。

「……」

 持って来た茜と美咲は唖然としていたが、葵は呆れて、

「全く、下品なんだから」

「ハハハ」

 篠原は口の周りをティッシュで拭いながら苦笑いした。そして真顔に戻り、

「俺も神戸と同じ意見だ。手を引いた方がいい」

「でも……」

 葵が反論しようとすると、篠原は葵の唇に人差し指を押し当てて、

「手を引くリスクの方が、このまま依頼を受けるリスクより小さいと思うんだが?」

「そ、それは……」

 葵は篠原の指を払いのけて、口籠った。篠原は美咲からグラスを受け取って、

「それに俺が気になるのは、あのイギリスのじゃじゃ馬が王女に同行しているってことだ」

「シャーロットがどうかしたの?」

 葵は篠原を見た。篠原は大きく頷いて、

「あの女、仮にもスコットランドヤード特別局の捜査官だぜ。その辺のこそ泥相手に動くような奴じゃない。あの女が動いたのには、それなりの理由があるはずだ」

「そうね。いくら女王の頼みでも、日本にまで同行するっていうのは、何かあるとしか思えないわね」

 葵は考え込みながら同意した。すると茜が、

「篠原さんもあのデカ乳女、嫌いなんですか?」

 篠原はニヤッとして、

「そう。俺は胸のでかい女は嫌いなんだ」

「だから所長のことが好きなんですね?」

 茜のあっけらかんとした言葉に篠原はゲラゲラ笑い、

「そうかもな」

「何よ、それ?」

 当の葵はカンカンになり、茜を睨みつけた。茜はまずいと思ったのか、

「あっ、ピザもう一枚焼いてたんだ」

 キッチンに走って行ってしまった。

「俺、何の話してたんだっけ?」

 篠原がとぼけると、葵はキッとして彼を睨み、

「シャーロットのことよ!」

「あ、そうそう。あの女にも、要注意だぜ、葵」

 篠原はクスクス笑いながら言った。葵はツンとして、

「ええ、そうね」

 そして、

「それより、王女のこと、何か知らない?」

「ファラ王女のことか」

 篠原はグラスをテーブルの上に置き、

「あの王女、ホントに箱入り娘って感じだよ。でも我が儘ではないらしい」

「で、胸はでっかいんですか?」

 茜がピザをテーブルの上に置きながら尋ねた。篠原は笑って茜を見上げ、

「茜ちゃんも葵と同じで、相当胸にコンプレックスあるみたいだな?」

「あら、私はまだ発育中ですけど、所長はもう成長の見込みはありませんから」

 茜が言ったので、葵が、

「何ですって!?」

「きゃっ!」

 茜は楽しそうに再びキッチンに行ってしまった。葵は鋭い眼で篠原を睨み、

「胸のことはどうでもいいわ。王女のこと、他に何か知らないの?」

 篠原はピザを一枚パクつきながら、

「そうだな。王女の来日理由、憲法の研究だったよな?」

「ええ、そうみたいね」

「彼女、日本国憲法を全部暗記しているらしいぜ。しかも、日本語でな」

 葵は目を見開いて、

「じゃあ、彼女が憲法の研究をしているっていう話は本当なのね?」

「そのようだ。その辺歩いているバカな大学生より、よっぽど詳しいらしいぜ」

「フーン……」

 葵は意外そうに頷いた。

「私、王女の好奇心を利用して、セシオが日本に来る口実を設けたのかと思ったんだけど」

「セシオはその点では無実だな。奴は王女にせがまれて、仕方なくついて来たようだ。ただ、それだけなのかどうかは、今後の展開次第だな」

「……」

 葵は納得できないという顔で考え込んだ。

「王女は自分の命が狙われていることは知っているようだ。セシオに同行をせがんだのも、そのせいだろう。セシオにしてみれば、それが渡りに船だったのか、それとも厄介な仕事が増えたのか、今のところはわからないけどな」

 篠原はグッとグラスをあおった。葵が、

「防衛省は、王女の命を狙っている殺し屋の正体、わかっているの?」

 話題を変えた。篠原はグラスを美咲に渡して、

「まだだ。何しろ、日本政府を無視して、民間の探偵事務所に護衛を依頼するような連中だからな。俺達のような人間には、ガードが固いのさ」

「じゃあ、尾行しているのもわかっていたのね?」

「だろうな。全然気づいていないフリが、アカデミー賞ものの演技だったよ」

 篠原は言ってから、目を細めて葵を見ると、

「お前を選んだ理由、シャーロットからの推薦だという話を信じるか?」

 葵はピザを手に取り、

「半分も信じちゃいないわ」

 ピザをほおばった。篠原はニヤリとして、

「さすが、葵だ。俺も信じていない。何か裏がある。でなきゃ、王女のお守りはシャーロット一人で十分なはずだ」

「そうね」

 二人の会話に全く入り込む余地のない美咲と茜は、顔を見合わせて立ち上がった。美咲が、

「それじゃ、私達、そろそろ帰ります」

「えっ? まだ早いじゃないの。ゆっくりしていきなさいよ」

 葵は篠原をチラチラ見ながら言った。しかし美咲は、

「明日早いので。それにお邪魔のようですから」

 篠原の顔を見た。篠原はニマーッとして美咲を見た。葵はカッと赤くなって立ち上がり、

「バ、バカね。そんなこと、気にしないでよ。こいつももう帰るから」

「お、おい!」

 篠原は葵の発言にびっくりして彼女を見上げた。ところが葵は、

「さ、早く立って!」

「冷てえなァ」

 篠原は仕方なさそうに立ち上がった。葵は美咲と茜を見てから、

「二人を送ってあげて。何かと心配だから」

「ああ、わかった」

 篠原は葵の本心に気づき、真顔で応えた。美咲と茜は再び顔を見合わせた。


 三人を送り出した葵はそのままバスルームに行き、ドレスを脱ぎ捨て、熱いシャワーを浴びた。

(イスバハンか……。とにかく明日、セシオから詳しい話を聞き出そう)

 彼女の美しい肌を雫が流れ落ちる。茜にあまり「小さい」と言われるので、自分でも気にしてしまっているが、葵の胸は決して貧弱ではない。もちろん、巨乳というほどではないが……。

「どっちにしても、久しぶりに面白い仕事になりそうね。相手がどんな奴かわからないけど、私達にちょっかい出したこと、たっぷり後悔させてあげるわ」

 葵は呟いた。

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